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ゼヴェリン・フォン・ヤロシンスキー

1826年の初夏、ポーランドの低い貴族の出身で37歳のゼヴェリン・フォン・ヤロシンスキーがウィーンに現れました。彼は金持ちのグラーフ(伯爵)のふりをし、いくつかの恋人を作って、当時キャリア絶頂の女優テレーゼ・クローネスとさえも恋愛関係を始めました。
ヤロシンスキーは若い頃にウィーンに数年間滞在し、教育機関にも通っていました。その後、故郷に戻ったヤロシンスキーは比較的裕福な家庭の息子で、ポーランドで結婚し、妻との間に三人の子供が生まれましたが、彼は借金を抱え、公務員としてお金を横領していたので、逃なければなりませんでした。それ故、彼はポーランドを去って、再びウィーンに来ました。その理由は、ウィーンで過ごしていたのでドイツ語が流暢に話せ、すぐに社会的と結びつくことができそうだと試算したからでした。
ウィーンでは誰も彼の過去を知らなかったし、彼はもってきたお金を太腹に費やし信用を得て、高貴な社会への接続に成功しました。彼はウィーン市内の中心部にあるトラットナーホフ・アム・グラーベン(現在でも贅沢なマンションの住所)に住んでいました。それで無駄な生活を続けて数か月以内でお金を全て使い果たしてから、再び借金で首が回らない状態になってしまいました。彼は仕立て屋にさえもお金を貸してもらいました。
債権者がたくさんいても彼は相変わらず金持ちのふりをして、前述のように、有名な女優のテレーゼ・クローネスと知り合いになりました。彼は彼女と偶然に会ったときに路上でナンパしたと言われています。彼は彼女に高価なジュエリーを含む寛大な贈り物を与えたので、テレーゼ・クローネスは彼との恋愛に同意しました。
1826年11月、ウィーン民主演劇の作家フェルディナント・ライムントの芝居「億万長者としての農夫」の初演があって、テレーゼ・クローネスは「青春」の寓意的な役割で大成功をしました。ライムントは作家だけではなく、俳優としてもその芝居でクローネスの舞台相手でした。この二人の歌ったデュエット「Brüderlein fein」は非常に人気を得ました。ヤロシンスキーはレオポルドシュタット劇場で彼らの登場を何度も観たそうです。
しかし、1827年になると、ヤロスシンスキーはポーランドからの金銭的請求やウィーンの債権者からの請求の両方によって益々プレッシャーを受けたので、彼は他の手段でお金を得ようとしました。彼は学生時代から知っていた元数学教師の70歳のコンラート・ブランク先生と接触しました。実際、ブランク先生は現金を持っていなかったが、有価証券を持っていました。ヤロスシンスキーはそのような証券を購入したいと言って、見たいとブランク先生に噓をつきました。最初、ブランク先生は彼に価値の低い証券を見せただけだったが、後で今住まいに持っていない高品質の証券を彼に見せると約束しました。
1827年2月13日、ヤロシンスキーは、この目的のために再びブランク先生を訪問し、ナイフで彼を刺し、その価値が高い証券を取り、同じ日に金融機関に売却しました。ブランク先生の遺体は翌日しか見つけられないので、証券販売業者は疑いなしで、ヤロスシンスキーに現金を支払いました。
しかし、ヤロスシンスキーはブランク先生のアパートから逃げ出して階段を降りたとき、そして現場からの脱出中で目撃者によって見られました。その目撃者は彼の名前を知らなくても、彼の外観をよく描写することができました。ヤロスシンスキーは当時に流行っていた目立ったコートを着ていました。
それ故、警察は犯罪者の手がかりを捕まえて、犯行の3日後、ヤロシンスキーをトラットナーホフの住まいで逮捕しました。 彼はその時「別れの夕食」を行う途中でした。なぜなら、すでに逮捕を恐れたヤロシンスキーは知り合いにポーランドへ帰りたいと言いました。夕食に誘われたテレーゼ・クローネスは彼の逮捕を目撃しました。
その後の尋問で、ヤロシンスキーは圧倒的な証拠があったにもかかわらず、長い間有罪を否定し、色々な言い訳を作りました。しかし、全ての言い訳は無駄であり、彼は告白せざるを得ないことになりました。ウィーンだけでなくヨーロッパ全土で見出しを作った裁判で、ヤロスシンスキーは有罪判決を受け、死刑判決を受けました。1827年8月30日、彼の処刑はSpinnerin am Kreuzの処刑場で行われました。
テレーゼ・クローネスはヤロスシンスキーの借金のことや起こした犯罪について何も知らなかったが、そのスキャンダルの後しばらく舞台の登場を控えました。しかし、結局人気女優のキャリアを続けることができました。すでに1830年に若くして病気で亡くなった彼女は「青春」の権化としてウィーン市民に記憶されました。
200年後でも、ウィーンではテレーゼ・クローネスやゼヴェリン・フォン・ヤロスシンスキーの名前は知られています。特に、ライムントの伝記やレオポルドシュタット劇場の歴史に関連して、当時の出来事は忘れられず、ウィーンの都市史の一部です。

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