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【システマ】運営しないクラス運営

随分お久しぶりです。システマの事を書くのは特にお久しぶりですね。

書いてない間に色々ありました。ミカエルが亡くなったり、自分もIITになったり……まあ、何が起こったからと言って熊本でシステマをやる日々に変わりはありません。そこもシステマらしいなと思っています。

自分がいるシステマ団体、システマ肥後の皆さんもほとんどこの数年変わらない雰囲気で練習しています。

ところで、最近はIITになってクラスをリードするという事をしばしば行うようになって、クラス全体の運営をどうするのかという視点が生まれたり生まれなかったりすることがあります。

システマ肥後のクラスは、もし初めてこのクラスを見る人がいたら自由奔放だと思うでしょう。参加者さんの子どもは走り回り、おもちゃをぶちまけ、お父さんに投げつけ、しかし一向に意に介せずマッサージをやる人たちがおり、ワークをやる人たちがいる。ワーク中も子供が飛びついてくることもあれば、なんか指示されたことと違う事をする人は無限に居る。肥後主催のワークショップではコーヒー飲んでる人もいれば、いつのまにか来ていて、床ですやすやと寝てる人もいたくらいです。何なら気が付いたら数人帰ってたりすることもあります。

これは熊本県民が他県民に比べて特に自由奔放だという事ではありません・・・まあ、おそらく(笑)でも単に自由にやっているという事は間違いがありません。

見る人から見ればクラスに対する運営を失敗している、というような印象を持たれるかもしれません。少なくとも一般的に言う「軍隊由来の格闘技」「武術」のクラスの雰囲気ではないかもしれないな、と。クラスやワークに対する集中力を欠いていると思われる方もいるかもしれませんね。それをもってクラスが崩壊しているように思われる方がいるかもしれません。

しかし、中でしっかり「練習」している私たちの感覚としては、色々ノイジーではありますが「これはこれで」システマ肥後のクラスは崩壊していないのです。

一昔前から「学級崩壊」というような言葉がよく言われるようになりました。学級崩壊とは集団教育の機能を果たせない状態にクラスが陥り、それを復旧・コントロールできない状況に陥ることです。

義務教育やそれ以上の高等教育においては教育のコアカリキュラムがあります。つまり目的が厳然と存在しているのです。集団教育のために存在しているクラスにおいては当然ながらその集団教育の目的を達成することが要件であり、その目的を達成できないことを持って崩壊と呼んで差し支えないでしょう。

でも、システマ肥後の通常クラスではだれも「これを今日項目として持って帰らなくてはいけない」という意識はありません。毎回のクラスへの希望は各人あるでしょうが、そのクラスがその希望に沿うかどうかはわかりません。勿論参加者の希望通りに行けば最良なのかもしれませんが、プライベートクラスでもないので、あるいはプライベートクラスであっても希望は希望で、クラスがそのように開催されるかはわかりません。(希望が必ず無視されるという事ではありません、希望は希望、でクラスは行われるという事です)

またリードする側も学校の教科のように「今日はこの内容をここまで教える」という目的意識でやってるわけではありません。だっていう事を聞けない年齢の子供がこの場に居なくてはいけないという状況の中で、やろうと思う事には限りがあります。だからいつもできることをやるのです。わたしたちのクラスでは誰もクラスをコントロールしようとはしていません、コントロールしようとしていないのだから、コントロールできないストレスとは無縁です(笑)したがってコントール不能に陥ってクラスが崩壊することもありません、崩壊する前提の型にはまったクラスのフォーマットが無いのですから。

子どもが玩具を投げつけてきて、抱きついてくる中で格闘技の練習しなければいけないのなら、その中で練習できることをするのです、その中で学べることを学ぶのです。鋭いパンチと、子供がランダムに投げつけるブロック、どう違うのでしょう?むしろ子供の動きに対応、適応するほうが練習になるのではないでしょうか?

幼児にけがをさせないように常に体の動きの周囲に気を配りソフトに体を動かすことと、攻撃してくる相手に気が付かれないようにテイクダウンすることはどちらが難しいでしょうか?

ぼくらは直ぐ「集中するのは善い事」だと考えがちです。勿論集中力、集中することにはたくさんの利点はあります。ですが、集中しているからこそ気が付かないことも沢山あります。周りに自分の思い通りにならない人が沢山いる状況では、集中ばかりしていると逆に危ないのです。さっきまでは何もなかった床に子供がレゴを転がしている可能性もあります。さっきまで誰も居なかったところで具合の悪くなった人へのコンディショニングが始まっているかもしれません。現実の生活空間においてはあらゆることが止まることなく内にも外にも同時に起こり続けています。誰かの一方的な価値観に沿って何かが運行しているわけではないのです。それは極めてクリーンな、学校教育などの場においてしかなしえない「試験管の中の」環境の話です。現実の生活空間では常にリアルタイムでいろんなことを気を付けないといけません。

子どもがいるという事で集中したワークができない。それはあります。ですが現実には部屋の中にはいう事を聞く年齢に達していない子供がいてしまっているのだから、その中で適応したワーク、クラスを行う事はなんら価値のない時間ではありません。それが生活です。

タイのバンコクの寺院で修行中のお坊さんに猫たちが大量にまとわりついている光景を見たことがあります。それでも彼は意に介さず瞑想に集中していました。勿論初心者ではそうはいかないのでしょうが、瞑想の熟達者においては何が起ころうと関係なんだなと感心した覚えがあります。ですが程度は違えどあんな感じなのです。

それに子供たちも今大人たちがやっている内容をかなりわかっているのです。厳粛な集中した雰囲気で何かやらなければならないときは素直に自分から隅に行って遊んでいます。子供が調子に乗って暴れまわることもありません、彼等も適度に間合いを図っているのです。何なら彼らが一番リラックスしているのですから、彼等はしたいことをしたいときにしてるだけなのです。だから他人を過度に不愉快にさせることに固執はしません。構ってもらえそうな雰囲気の時はいろいろ走り回ってちょっかい出したりするだけなのです。そうでない雰囲気の時はおとなしくしてます。

この前は、私が膝に子供を乗せて絵本を読みきかせながら、ナイフワーク(差し出されるナイフを制するワーク)をやるマルチワークをやる羽目になりました(笑)面白い経験でしたよ。むしろ、そういう特殊なシチュエーションを与えてくれて、会員さんのお子様には感謝したいくらいです。まあ、そういうのは半年に一回くらいでいいですが(笑)

システマ肥後はお互いがお互いの自由を阻害しないペースで互いに適応しつつ最適なクラスが行われています。何を学んで持って帰るかは各人違いますが、システマをしていることは間違いないと思っています。是非熊本にお立ち寄りの際はシステマ肥後のクラスに参加されてみてください。肥後の主催者、杉本さんのリードも本当に毎回素晴らしい学びを頂いていますし、ゆるいふんいきの肥後感を味わっていただけたらなと思います。

以上です。読んでくださってありがとうございました。



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