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今の子どもたちに思うことの話

こんばんは!

更新を大きくサボってしまいました。
サボり癖がつくとなかなかうまくいきません。しかし、ハーレーのため、努力を続けて参ります!!


さて、このコロナ禍の中、教員として、一児の父としては見過ごすことのできないニュースが飛び込んできました。


「旭川いじめ事件」です。


端的にまとめると、「当時12歳であった女子生徒に対して、性的な行為を強要するなどの嫌がらせを続け、女子生徒が自殺をした。」という事件です。

しかし、学校側は、「被害者一人の未来と加害者十人の未来、どちらが大事か」という発言をしたとされているようです。


この事件は、被害生徒関係者を除く関係者の当事者意識のなさが引き起こした事件だと思っています。

もちろん様々な言い分があるのだろうと思いますが、学校の対応、加害生徒の反応、加害家族の反応を見ていると、怒髪天を衝くような怒りが込み上げてきます。

もし、被害生徒が自分の娘だったら?

ということを考えずにはいられません。


私は、一教員として、父親として、事件の考察を通して、次の被害者を産まない指導を考える必要があると感じています。

なので今日は私見が多分に混ざることとなりますが、どうぞご了承下さい。


コミュニケーションのインスタント化

SNSを通じてのコミュニケーションが盛んとなった現代社会において、子どもたちはインスタント(即時的な)コミュニケーションが求められています。

とりわけ、LINEやInstagram、TwitterなどのSNSでは、「既読」や「いいね」という機能が付いていることにより、読んだら即レスをしなければなりません。

子どもたちは、私的な空間である家、自分の部屋においても、絶えず他者の視線に晒されているのです。

それは、我々大人も同様です。

我々大人も、SNSを活用し、様々な情報を得たり、旧交を温めたり、仕事の連絡をしたりと様々な活用をしていることでしょう。


しかし、子どもたちには、そこに自己肯定感の問題が多分に絡んできます。

思春期を迎えた子どもたちは、「わかってくれない」「どうせ私なんて…」と、自らの価値観を形成するために、身近な大人に対して反発するようになります。

その時に重要な鍵となるのが、友人の存在です。

多感な時期において、友人と適切な関係を築くことができていれば、大人と激しく衝突した際に、気持ちをわかってくれる理解者として友人が存在することになります。


こうした「理解される」「認められる」という経験を通して、ヒトは角が取れて丸くなり、成長して行くことができるのです。

ところが、インスタント・コミュニケーションにおいて、「理解」に行き着くまでには途方もない時間を必要とします。

なぜなら、このコミュニケーションは、文字によるコミュニケーションが大半で、対面して話すコミュニケーションではないからです。

私たちは、文字で読む情報よりも限りなく多くの情報を視覚・聴覚から得ています。

その多くの情報を処理することで、私たちはお互いを理解し、信頼関係を築き、成長して行くのです。

しかし、現状のインスタント・コミュニケーションでは、情報は文字として受け取られ、繊細な感情の機微まで読み取ることができず、子どもたちは「理解」に対して強い疑問を抱くことになります。

「本当にわかってくれているのだろうか」「相手はどんな感情で私の話を聞いて(読んで)いるのだろうか」という疑問に始まる不安は、際限なく子どもたちを悩ませ、最後には、コミュニケーションを取る相手の数、回数によって安心を得ようとするのです。

こうなると、子どもたちの脳内は、速さが大切であるという考えが占め、思考を放棄し、コミュニケーションの数をこなすことが全てになってしまうでしょう。


いや、子どもたちだけではありません。大人たちにも同じことが言えます。

なぜ、メールを「速く」返すことが、ビジネスマナーなのでしょうか。
それは、僕たちの手元にデバイスがあることを僕たちが知っていて、僕たち全員の共通認識として、「即レス」が身についているからではないでしょうか。

そして、コミュニケーションの方法を知らない僕たちは短絡的な思考に陥り、インターネットの情報、マスメディアの情報、SNSの情報を鵜呑みにしてしまい、「自粛警察」や「インターネット正義マン」を生み出しているのです。

僕は生徒に、「僕を含めて、全てのものを疑いなさい」とことあるごとに話をしています。

僕は僕の考えで生きており、他者は他者の考えで生きています。

全てを統一することなどできるはずもなく、それを目指そうとするのは、人間として間違っているだろうと思って生きて欲しいのです。

「なぜ」「どうして」と自問自答を繰り返すことにより、自分の感情の動きだけでなく、他者の行動の意味を読み解いていく。

こうして「理解」を繰り返すことによって、自分自身を、或いは僕たちを取り巻く世界を少しずつ「信頼」していくのです。


今回の事件は、この「即レス」社会を凝縮したような事件だと心の底から思います。

僕たち大人も、子どもにじっくり考えさせる経験を積ませていかないといけません。

だからこそ、一教育者として某中学校の巷に溢れている対応は、教員としてあってはならない対応だと思っています。

地の言葉で言えば、「クソ」だと思っています。
しかし、この情報すらも疑っていく必要もあるとは思います。
それこそが、情報を読み解くという行為であるからです。

最後になりましたが、被害生徒並びに親族の方に心からお悔やみ申し上げます。

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