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人生の目的の話

こんばんは!

久しぶりに実家の母に会いに行ったところ、

「相変わらず、松崎しげってるなー」と言われました。
しげってないよ。あと、その「しげる」は動詞じゃないよ。ハーレー先生です。

今僕は、教員をしています。

何を今更と思われるかとは思いますが、後輩くんと何気なくラインをしていると、

「バイク乗り換えないんですか?足短すぎて大型諦めたんですか?」と煽られた時に、「(コンプライアンス)」と言ったと同時に、

「あ、そういえば僕は30歳でハーレーに乗ろうと思っていたんだった」と言うことを思い出したのです。

ならば、そもそも「なぜ公立学校の高校教員」なのかと思われるでしょう。

私学にいけばいいんじゃないの?

実は、これはずっと頭の中にあったことではあります。

一般的に私立高校の方が給与が高いという風に言われています。

実際、私の友人にも私立高校の教諭をしている人がいて、その人は、
「全然金ないわ」と言いながら、車をすぐに乗り換えたり、スマートウォッチをすぐに買ったりと、贅の限りを尽くしています。

こう考えると、公立高校の教員をする理由というのは限りなく少ないと思う方もいらっしゃるかも知れませんね。

しかし、私立高校には、3つのデメリットがあります。それは、
①経営状況によっては、給与が上下する
②基本的に環境が変わりにくいため人間関係が複雑
③結果を出さなければ解雇も十分あり得る。
と言うことです。

学校経営も一つの商売の形ですから、この少子化の時代においては特に私立高校は生き残りをかけた戦略を打ち出していかなければなりません。

そのため、新たな学力や学校教育のスタイルを生み出すために、積極的に学校改革を行なっているのです。

今世間を賑わせている「1人1台端末」にはもうすでにほとんどの私学が取り組んでいることがその証左となるでしょう。


それに引き換え、僕たち公立学校の教員は、
首になることはまずないし、人間関係が合わなければ転勤というリセットが可能だし、給与が下がることも無いわけです。

「じゃあ、別に本気を出さなくてもいいんじゃないか」と考えてしまうのも、無理は有りません。

正直に申し上げると、公立学校の教員には、どこかこう言う考えが強く根付いているような気がしています。

だからこそ、優秀な人材は私学へ流れて行き、公立は…と言うケースが非常に多いのでしょう。

しかし、これではいけません。

僕は、「公立学校こそが日本の根幹をなす教育であり、ここが変革しない限り、日本は静かに滅びゆく」と考えています。

世界を見ることの少ない我々は、いかにこの国が素晴らしい国であるかと言うことを忘れがちです。

それは、ある程度の豊かさと、ある程度の教育水準が担保されていて、国民の中に極度の貧困層が少ないことに由来しています。

ただ、今の現状を見ると、かつての大企業は衰退し、これから勃興していく産業にも、名前を連ねることができていません。

今、時代を作り上げている産業や、新たな世界の主軸となるであろう研究において、創造性や主体性、人と違うことを恐れない力というものが必要不可欠であろうと、僕は考えています。

その分野で日本が成功を納められていないのは、我々教員が、生徒の個性や学びに向かう力を奪い続けたからなのではないでしょうか。

そして何より、もっといえば我々公立学校の教員が子どもたちに夢を与えることができていないと言うことの示唆なのかもしれません。

日本において、幸福なことに私立学校へ通う子供の数よりも、公立学校へ通う子供の数の方が多いという事実があります。

多種多様な子供たちが、公立学校には通っていますが、その子供たちから個性を奪い、型に嵌め、画一的な評価を与えることで、優秀・落第の評価をつけているのが現状です。

子供たちは、テストに出る問題、受験に関係する科目だけをひたすら追い続ければよく、そうでない授業は聞く必要なんてありませんから、寝ていれば良い。


そうして、世界に対して、少しの反抗心と、大きな失望を握り締め、「安定していればなんでもいいや」と思うのです。

僕たち大人が、姿を見せてしまっているのではないでしょうか。

いや、もしかすると、彼らは数十年前、数年前の僕たちなのかもしれません。

夢を持つためには、憧れが必要です。

憧れをバカにされないような実例が必要です。


僕は子供たちに夢を与える人間になりたい。
そのために、「ハーレー」を買いたいと思っていたのでした。

公立高校教員だろうがなんだろうが、収入の手立てを考えれば良いのだと思います。

出版関係者の皆様。話だけでも聞いてくれませんか!

では、明日は試合ですのでここいらで失礼致します。

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