ロールプレイについての考察【TRPG】

※2002年に書いた記事です。消滅した個人サイトのデータから転載しました。


ロールプレイについての考察

 A game is a form of art in which participants, termed players, make decisions in order to manage resources through game tokens in the pursuit of a goal.(*1)
(ゲームとは、芸術の一形態であり、プレーヤーと呼ばれる参加者が目標達成を目指して、ゲームトークンを介して資源管理のため意志決定するものである)
――Greg Costikyan

[1] はじめに ▲

 テーブルトーク・ロールプレイング・ゲームでは、セッション中にPCの性格や個性をきちんと表現することが重視されることがあります。また、一般に、利害関係の対立したNPCやPCの説得に始まり、プレイヤー同士の意見交換にあたっても、全てPCとしての規範に基づいた適切な行動を検討することが推奨されます。ロールプレイ、あるいはキャラクターのロールプレイと呼ばれることもあるこれらの手法は、一体何のために行われるのでしょうか。そこではいかなる方法論が採用され、また、そのような方法論を採用することにより、いかなる目標を得ることができるのでしょう。これらについて、以下検討してみたいと思います。

 この文章は、Greg Costikyan氏の“I have no words & I must design”と、馬場秀和氏のマスターリング講座およびRPGコラム、さらに氷川霧霞(ラウール)氏の小論である「意志決定について」に目を通していることを前提としています。以下のURLを参考にしてこれらの資料にはなるべく目を通してください。


“I have no words & I must design”
http://www.costik.com/nowords.html

「言葉ではなく,デザインのみが,ゲームを語ってくれる」
※“I have no words & I must design”の日本語版
http://www004.upp.so-net.ne.jp/babahide/library/design_j.html
馬場秀和氏の『馬場秀和ライブラリ』より、その他のRPG関連ドキュメント、<コスティキャンのゲーム論>参照。

馬場秀和氏の『馬場秀和ライブラリ』
http://www004.upp.so-net.ne.jp/babahide/

「馬場秀和のマスターリング講座」
http://www004.upp.so-net.ne.jp/babahide/master.html

「馬場秀和のRPGコラム」
http://www004.upp.so-net.ne.jp/babahide/bbcolumn.html

「意志決定について」
氷川霧霞氏の『氷川TRPG研究室』より『RPG研究室』参照。
http://www.trpg-labo.com/

 この論考は、某ロールプレイング・ゲーム研究会の公式メーリングリストで連載(2002年2月1日から3月1日まで)した文章をまとめたものです。元々は、アートコンプレックスS氏の“A STATEMENT FOR THE ACTUALITY OF ROLE-PLAY”という作品に着想を得たものでした。この作品において、過去に発表した私の見解を取り上げ、ロールプレイにおける各種の基礎概念や議論と結びつけて示してくれた氏に感謝し、この文章を捧げます。

 なお、私のTRPG経験は1996年で終わっています。この考察は、その当時の経験則の具体化であり、現在の状況に対応するものではありません。特に、私自身にシーン制RPGの経験がないため、これを検討の対象に含めることができなかったことは残念に思います。

[2] ロールプレイ ▲

 PCの性格や個性を表現すること、PCとしての規範に基づいた適切な行動を検討すること、一般にロールプレイと呼ばれるこの手法について、その意義や方法論を想起したとき、そこに統一的な見解は必ずしも得られていないようです。ここではまず、テーブルトーク・ロールプレイング・ゲームというゲームにおいてロールプレイがいかなる意義を有しているのかを明らかにし、その後に方法論の検討を行いたいと思います。

[2.1] ゲーム(Game) ▲

 テーブルトーク・ロールプレイング・ゲームは、その字義通り解釈するならばゲームの一種です。しかしそもそもゲームとは何でしょうか。諸説あることは予想されますが、ここではコスティキャン氏の定義を取り上げたいと思います。氏は“I have no words & I must design”のなかで、ゲームの定義について以下の様に記しています。

 A game is a form of art in which participants, termed players, make decisions in order to manage resources through game tokens in the pursuit of a goal.(*1)
(ゲームとは、芸術の一形態であり、プレーヤーと呼ばれる参加者が目標達成を目指して、ゲームトークンを介して資源管理のため意志決定するものである)


(*1) “I have no words & I must design”(1994年に英国のRPG雑誌 “Interactive Fantasy”に掲載)からの抜粋。
 訳文は日本語版「言葉ではなく,デザインのみが,ゲームを語ってくれる」(コスティキャンのゲーム論)から引用した。

 これによれば、“Game”(ゲーム)とは、“Decision Making”(意志決定)を行うための“Form”(枠組み)のことであり、“Decision Making”(意志決定)とは、“the pursuit of a Goal”(目標の追求)の過程において“Game Tokens”(ゲームトークン)を通じて“Resources Managing”(資源管理)を行うためになされるある種の決断であると解釈できます。

 それぞれの用語の基本的な意味については、NIFTY-Serve ロールプレイングゲーム・メインフォーラム(FRPGM) の有志によって、1995年10月から11月にかけて作成された日本語版、「言葉ではなく,デザインのみが,ゲームを語ってくれる」にてご確認ください。以下では、これらの概念をもう少しだけ掘り下げて検討していくことで、ロールプレイの意義というものについて明らかにしていきたいと思います。


(*2) 意思決定と意志決定の相違については下記を参照ください。

「外へ向かう言葉(後編)」(馬場秀和氏)
http://www.scoopsrpg.com/contents/baba/baba_apr00.html

[2.2] 意志決定(Decision Making) ▲

 私たちはゲームにおいて「意志決定」を行います。氏の定義によれば、そもそも「ゲーム」とは、プレイヤーに「資源管理」という注文を突きつけ、その遂行のために「意志決定」を強要する仕掛けなのです。では、「意志決定」とは何を意味するのでしょうか。

 意志決定の意味については、既に氷川霧霞氏がその作品「意志決定について」において詳述されているのでそちらをご覧ください。簡単に述べればそれは、「葛藤」「結果に対する責任」「アカウンタビリティ」の3点に集約されます。この3点が備わったとき、そこに「意志決定」が成立します。決断をなす(成す・為す)こと、それ自体をプレイヤーが自らの目的とする仕組みがそこに現れるのです。

 「葛藤」「結果に対する責任」「アカウンタビリティ」それぞれの説明については、馬場秀和氏によるコラム「外へ向かう言葉(後編)」において簡潔にまとめられておりますので、そちらもご覧ください。以下は私なりにまとめたものです。

<意志決定の成立条件>
1.葛藤
 複数の選択肢が存在し、どれが最適解かを確定することができないにもかかわらず、選択を行わなくてはならない状態が存在すること。
2.結果に対する責任
 選択と決断の結果が有為な差を生むこと。またその差についての責任が自分にあると思わしめる状況が存在すること。
3.アカウンタビリティ
 複数の選択肢についてある程度の情報が与えられており、選択と決断の過程において理由や根拠を構築しうる状態にあること。

 したがってゲームについての先の定義を補足すると、「ゲーム」とは「意志決定」を行うための“Form”であり、それはすなわち「資源管理」という注文をプレイヤーに突きつけることにより、「葛藤」「結果に対する責任」「アカウンタビリティ」を生じさせ、決断をなすことそれ自体を目的とする状態を成立せしめるための仕掛けであるということになります。

 結論を先取りすると、私は、テーブルトーク・ロールプレイング・ゲームという「ゲーム」においては、ロールプレイこそが、この「意志決定」を成立せしめるための仕掛け(Form)そのものであると考えています。そのように考える理由はこれから説明しますが、この論考ではそれをロールプレイの本来的な意義とし、そこから出発して、あるべき方法論とその方法論から生じるロールプレイのスタイルについて検討していきたいと思います。

 テーブルトーク・ロールプレイング・ゲームとは、ロールプレイによって「意志決定」を成立せしめるゲームである。このことを説明するために、以下のパラグラフでは、これまでの記述ではまだ明らかになっていない「資源管理」という概念をとりあげます。「資源管理」の強制によって「葛藤」「結果に対する責任」「アカウンタビリティ」を生じさせるとはどういうことなのか、そしてテーブルトーク・ロールプレイング・ゲームにおいて、「資源管理」とロールプレイはどのような関係にあるのかを具体的に検討します。

[2.3] 資源管理(Resources Managing) とゲームトークン(Game Token) ▲

 ゲームとは、“to manage resources through game tokens in the pursuit of a goal”(目標追求の過程においてゲームトークンを通じた資源管理を行う)ことでプレイヤーに意志決定の機会を与える仕掛けです。では、テーブルトーク・ロールプレイング・ゲームにおいて、「目標追求の過程におけるゲームトークンを通じた資源管理」とはそもそもどのような仕掛けとなっているのでしょうか。

 私はここで、ゲームトークンという概念についての理解が重要であると考えます。少し本題から外れますが、以下ではこの点を中心に検討してみます。

 例えば将棋の駒はゲームトークンです。ここでは「飛車」を考えてみましょう。確かに、飛車という文字の彫り込まれた木製の駒は将棋というゲームにおいてプレイヤーが資源管理を行うためのゲームトークンのひとつです。では、飛車と書かれた紙を盤面に置いた場合はどうでしょう。囲碁の黒石を飛車だと言って盤面に置いた場合はどうでしょう。盤面を用いずに頭の中だけで将棋をするとき、ゲームトークンは一体何でしょうか。

 将棋というゲームにおいて、「飛車」を想起するとき、それは一般に「駒の動かし方」と呼ばれるルールのかたまりとして現れます。「飛車という文字の彫り込まれた木製の駒」はそのルールに対するプレイヤーの意識の焦点としての記号にすぎません。実際のゲームにおいては、プレイヤーはこの「飛車」が象徴するルールに従い、盤上で(あるいは脳内で)駒を動かして資源管理を行います。「飛車」ではなくその他の駒であったとしても、やはりその駒の象徴するルールに従っているはずです。したがって、「ゲームトークンを通じた資源管理」とは、「ゲームトークンに象徴されるルールに従って資源を管理する」ことを意味します。さらに言えば、「ゲームトークンに象徴されるルール以外の方法による資源管理は許されない」ということでもあるのです。

 しかしこのことは一方で、ゲームトークンの象徴するルールの範囲内であれば、プレイヤーは自由に資源を管理することができることを意味します(*3)。したがって、この面に着目すれば、「ゲームトークンを通じた資源管理」とは「プレイヤーはゲームトークンに象徴されるルールの範囲内で資源を操作してもよい」という決まりごとになります。この意味でゲームトークンが示す積極的な働き、つまり資源を操作する際のルールのうち目標の追求において特に有効なものを「ゲームトークンの機能」と呼ぶことにします。

 将棋において、プレイヤーは一定の条件において前後左右に動くという機能、相手の駒を自分のものにするという機能、「成り」によって移動方法を拡張するという機能をそれぞれ象徴する「飛車」というゲームトークンについて、その機能(ルール)の範囲内において盤面上でとりうべき位置を検討し、盤面上の諸条件をその機能(ルール)にあてはめて最適解を考慮し、さらに他のゲームトークンについても同様の検討をおこない、しかし必ずしも最適解を解明できないなかで、ある特定のゲームトークンを動かします。それにより諸条件は変動し、プレイヤーの掲げる勝利という目標に、すなわち勝利と呼びうる諸条件の総体(詰みの形)に近づいた「かも」しれません。これが将棋というゲームにおける、「目標追求の過程におけるゲームトークンを通じた資源管理」です。このとき、「ゲームトークンを動かす」こと、すなわちゲームトークンの操作は、資源管理における意志決定そのものでもあります。

 ここで、将棋という特定のゲームを離れて一般化するならば、「目標追求の過程におけるゲームトークンを通じた資源管理」とは、目標として定められた諸条件の総体としてプレイヤーに要請されるあるべき形を目指すべく、現在ある諸条件(資源)について、条件の変更についてプレイヤーに課せられた一定のルール(ゲームトークン)に従いながら、これを維持改変することと具体化できると思います。そしてその過程において、最適解を算出しえないことにより「葛藤」が成立し、目標すなわち義務の提示によってゲームトークンの機能を用いた諸条件の変更についての「責任」(結果に対する責任)が成立し、諸条件が全てプレイヤーに提示され、ゲームトークンの操作法(資源管理の方法)も定まっており、決断の結果を条件変動として再現するルールも定まっていることから「アカウンタビリティ」が成立するのです。

 本題に戻ります。ゲームトークンはゲームにおける資源管理のルールを象徴する。この結論を前提に、ではテーブルトーク・ロールプレイング・ゲームにおけるゲームトークンとは何なのかを以下考えてみたいと思います。そしてそこから、テーブルトーク・ロールプレイング・ゲームにおいて、「目標追求の過程におけるゲームトークンを通じた資源管理」とはそもそもどのような仕掛けとなっているのか、という問いに対する答えを出したいと思います。


(*3) ゲームトークンの象徴するルールは、処理手順としてのルールとは異なる。前者は可能性を提示するものであり、後者は選択された可能性のひとつを具体化し共有化するものである。

[2.4] ロールプレイ(Role-Play) ▲

[2.4.1] ロールプレイとは ▲

 テーブルトーク・ロールプレイング・ゲームにおいて、「目標追求の過程におけるゲームトークンを通じた資源管理」とはそもそもどのような仕掛けとなっているのでしょうか。まずゲームトークンの意義についてもう一度確認してみます。

 「ゲームトークン」とは、目標に向けた諸条件の管理において、プレイヤーと呼ばれる参加者が遵守すべきルールであり、同時にプレイヤーに許された唯一の手段です。テーブルトーク・ロールプレイング・ゲームにおいても、それが「ゲーム」である以上、プレイヤーは目標に向けたあらゆる諸条件の維持改変において、ゲームトークンの象徴する「ルール」に従わなくてはなりません。また同時に、その「機能」以外を用いた手段を利用することは許されません。それは、「ゲーム」としてのテーブルトークRPGの前提条件なのです。

 プレイヤーはゲームトークンの象徴するルールによってのみ諸条件の改変が許されます。ということは、ゲームトークンの象徴するルールでは扱いきれない諸条件については、そもそも管理の対象とすることができません。そして、管理の対象とならないということは、ゲームの目標を構成する要素としてそのような諸条件を用いることは許されないということなのです。

 ここで幸いにも、ありとあらゆる諸条件を取り扱うことができ、しかも都合のよいことに単一の象徴においてプレイヤーがそのような概念を把握することを可能とするルールの集合体が存在しました。この、ありとあらゆる諸条件を取り扱うことのできるルールの集合体の象徴、それは「人間」です。ある人間を想定し、「できること」「できないこと」を機能として定め、資源管理にあたってはその制約に従う。そうすれば、機能の定め方によっては、資源管理の対象をいくらでも拡大することができます。

 架空の人間が象徴するルールを、同じく人間であるプレイヤーが資源管理における制約として採用する。それは、最も広範な捉え方をすれば、ある人間の「ありかた」を想定しそれに従うということです。「ありかた」とはまた抽象的な表現で申し訳ないのですが、この言葉の中身については後で具体的に検討したいと思います。

 ここで「ゲーム」としての前提条件に戻るのですが、ゲームトークン以外の方法による条件操作は認められていません(*4)。プレイヤー本人が従っているルール(ありかた)をゲームに持ち込むことは許されないのです。したがってプレイヤーは、条件操作において自身の従う「ありかた」を意識から取り除き、そのゲームにおいて選び取った他者の(架空の)「ありかた」(Role)に従うことになります。わたしは、これが本来の意味での「ロールプレイ(Role-Play)」だと考えます。そしてこのような仕掛けにより多彩な「意志決定」の機会をプレイヤーに提供することを可能としたゲームのことを、「ロールプレイング・ゲーム」と呼ぶのだと思います。

 蛇足となりますがここで、「人間」がルールを超越した存在、すなわち一切の制約に服さない自由な存在の象徴であると考えるのは間違っています。現実世界に生きる人間は、自分の人生やあるいは自分自身すら本当には自由にできない存在です。目標と管理すべき諸条件を突きつけられたとき、人間の取り得る言動は決して無制限なものではありません。その人間に期待されている役割の認識、職業・人種・文化といったことに由来する社会的制約、さらには目的意識、規範意識、自己認識などによって構成されるその人物の性格や個性などにより一定の限界がそこに生じます。そして、そもそもそのような限界があるからこそ、「人間」の象徴するルールは、「ゲーム」における資源管理の制約として機能しうるのです。なんでもできるスーパーマンはゲームトークンとしては不適ですし、なんでもできると思うこと自体がロールプレイの遂行には不向きなのです。

 「ロールプレイ」とは、プレイヤーがゲームにおいて諸条件(資源)を管理するために選びとった「ありかた(ロール)」に従い、実際に目標達成に向けた資源管理を行うことです。そして「ロールプレイ」の遂行とは、テーブルトークRPGというゲームにおける「意志決定」の遂行そのものなのです。


(*4) そのプレイヤー自身の「ありかた」をゲームトークンとすれば話は別だが、残念ながらそのような場合、「ありかた」をゲーム中に適切に再構築することができないためにゲームの進行に支障をきたす場合が多い。これについては、後述のキャラクターのロールプレイの処理手順を参照。また、「ありかた」自体が詳細に過ぎて、取り得る言動という形で考慮すべき選択肢の幅がほとんどないことも問題である。

[2.4.2] ロールプレイの分類 ▲

 私は、諸条件を管理する際にプレイヤーが従うべきルール、つまり「ありかた」(Role)について、大きく3つに分けようと思います。(1)その人間が所属するミニマムな集団において自らに期待される役割として感じる制約、(2)職業・人種・文化など客観的要因に由来するかくあるべしというモラルとしての社会的な要請、そして、(3)目的意識、規範意識、自己認識など主観的要因に由来する限界、そのそれぞれの「ありかた」の遂行を「役割分担のロールプレイ」「社会的ロールプレイ」「キャラクターのロールプレイ」と名付けようと思います(*5)。

 蛇足ではありますが、「配役(Role)を演じる(Play)」という言葉は、ここでは「演技」を意味しません。資源管理のためのゲームトークンが、プレイヤーはかくあるべし(役)という形で提示され、実際にかくあるべく操作する(役を務める=演じる)という意味だと考えてください。

(1) 役割分担のロールプレイ

:ゲームマスターの提示する障害を克服し目標を追求する過程において、プレイヤーキャラクターの所属する小集団においてゲームシステムの解釈から導かれたそのプレイヤーキャラクターに期待される役割に従い資源管理を行うこと。

 ゲームトークンに数値データを設定して能力を限定することで、ゲームトークン相互の比較により諸条件の操作を目標達成に向けた有利不利の観点から管理するというボードゲームなどに見られる従来の方法を拡張したものです。単一のメタプレイヤーの存在しないテーブルトークRPGにおいては、複数プレイヤーの協力による同時勝利の達成という大目標を導入し、さらにゲームトークンであるPCについてクラスやスキルなどを用いてシステム的な機能分散を計った上で、目標達成に向けたトークン(機能)の選択管理と操作を各プレイヤーの判断に委ねています。各プレイヤーはシステムによる機能分散を理解し、同時勝利の追求に最善となるべく判断を行い、必ずしも明らかではないが同一目標の追求に向けた集合体(パーティ)の一員として自身のPCに割り振られるべき役(役割)を理解し遂行することが他の参加者によって期待されます。

 この役割分担のロールプレイの遂行にあたっては、トークンの選択管理についての判断が各プレイヤーに分散されていることで最適解が存在せず(単一プレイヤーによる判断の場合はダイスによるゆらぎが必須となるがここでは不要)「葛藤」が生じます。また、目標追求はパーティの一員としてプレイヤーに課せられた義務であり、その裏返しとして「結果に対する責任」が成立します。さらに、明文化されたルールシステムの読み込みと解釈により「アカウンタビリティ」も成立します。したがって、役割分担のロールプレイによって、「意志決定」の機会は十分にプレイヤーに提供されることになります。

 初期のテーブルトークRPGは、主にこの意味でのロールプレイの遂行(意志決定)をゲームの主眼としていました。これらのテーブルトークRPGを、第一世代RPG、またはシステムゲームRPGと呼ぶこともあるようです。

(2) 社会的ロールプレイ

:プレイヤーキャラクターの属する職業、組織、集団、あるいは社会階層、文化圏などの諸条件によりそのPCにとって相応しいとされるありかたに従い資源管理を行うこと。

 現実世界で社会的な関係の構築維持のために普遍的に行われているロールプレイをゲーム世界にも導入したものです。役割分担のロールプレイが目標達成に向けた要請であったのに対して、人間関係に内在する集団化階級化による摩擦回避の要請とその遂行を主眼とします。ゲームシステムの一部として背景世界を提供することにより、意志決定においてこれらを取り扱うことができるようになりました。

 ゲーム世界における資源管理に社会的ルールを持ちこむことで、世界幻想がよりリアルなものとなります。それはすなわち、そこにおける意志決定の重さ、プレイヤーによる資源管理の結果に対する責任がより強くなることを意味します。また、参加者全員に「ありかた」が開示されていることから、そのプレイヤーのみならず、他の参加者による「アカウンタビリティ」の検証が可能です。そこにおいては、目標の達成に向けた全ての「意志決定」において、意志決定能力自体の優劣を問うことが可能です。また、「葛藤」については、資源管理において、社会的要請と「目標」からくる要請が背反する場合、あるいは社会的要請と個人的な「ありかた」の要請が背反する場合などに主に生じます。背景世界がよほど吟味されて構築されている場合を除き、「社会的ロールプレイ」それだけで「意志決定」を成立せしめるのは困難ですが、他のロールプレイと併用した場合に、その提供する「意志決定」の機会は大変に魅力的なものとなり得ます。

 この意味でのロールプレイの遂行(意志決定)をゲームの主眼とするテーブルトークRPGを、第ニ世代RPG、または背景世界RPGと呼ぶこともあるようです。

(3) キャラクターのロールプレイ

:プレイヤーキャラクターのものとして想定される目的意識、規範意識、自己認識などに従い、資源管理を行うこと。

 プレイヤーは、性格、個性、背景などのプレイヤーキャラクターの特徴(キャラクター)から、プレイヤー自身が資源管理にあたって従うべき「ありかた」(ロール)を構築しなくてはなりません。そして自ら構築したその「ロール」に従い、資源管理を行います。

 このロールはほとんどあらゆる諸条件の取り扱いを可能としますが、プレイヤー自身が設定することからその制約の遵守を「義務」として感得し得ない場合が多く、「葛藤」を欠く傾向にあります。また、プレイヤーの構築したロール自体が漠然としたものであることが多く、そのままでは「アカウンタビリティ」を十分に行うことができません。しかし、諸条件を操作する際に従うべき「ありかた」を自ら設定していることから、「結果に対する責任」の感得には莫大な効果があります。

 第ニ世代までのRPGにおいては、このキャラクターのロールプレイの遂行はプレイヤーグループの暗黙の了解に任されてきました。そのため、各々のプレイヤーグループは自ら「キャラクターのロールプレイ」の展開方法としてあるべき姿を模索しなくてはなりませんでした。現在では、この意味でのロールプレイのシステム化を行い、ゲームとしての主眼に据えたRPGが存在します。これを第三世代RPG、またはキャラクターRPGと呼ぶこともあるようです。

 キャラクターのロールプレイについては長らくシステム的なアプローチが存在しませんでした。そのため、キャラクターのロールプレイという概念やその方法論自体について各プレイヤーグループで見解の相違が生じ、グループ間の交流に支障が生じていました。そしてその障害は今も存在していると私は考えます。

 先の話になりますが、パラグラフ[3]以下では、私が所属していたテーブルトーク・ロールプレイングゲーム研究会において、1991年から1992年にかけて試行錯誤の末に構築されたキャラクターのロールプレイの概念と方法論(と私が考えているもの)について説明します。その後は、1996年頃までではありますが、方法論を展開していく過程で現れた様々なプレイスタイルについて簡単に紹介したいと思います。


(*5) ロールプレイの分類については「馬場秀和のマスターリング講座」 第1章 システム選択 <1.2 役割分担>も参照のこと。この分類は氏の分類に着想を得たものである。
http://www004.upp.so-net.ne.jp/babahide/library/chapter1.html

[2.5] 目標(Goal) ▲

[2.5.1] 資源管理と目標 ▲

 ロールプレイとは、プレイヤーがゲームにおいて諸条件(資源)を管理するために選びとった「ありかた」に従い、実際に目標達成に向けた資源管理を行うことです。このとき、「目標」とは何を意味するのでしょうか。プレイヤーは一体何を目指して資源管理を行えばよいのでしょうか。
 

 私は、以下の4点を挙げたいと思います。

(1) キャラクター・パーティの目標の追求。

 キャラクターがパーティを構成する理由となった目標の達成を目指すことです。役割分担のロールプレイにおけるゲームの勝利条件でもあります。プレイヤーは、資源管理においてこの目標を掲げることにより、パーティ維持の要請を受け入れることになります。シナリオプロットによっては必ずしも必須の目標ではありません。その場合、(3)の目標が重視されます。
 

(2) キャラクターの個人的な動機の追求。

 プレイヤーは、キャラクターの「ありかた」(ロール)を構成する際に、キャラクター自身の個人的な動機を織り込むことにより、資源管理の場における目標を自ら掲げることができます。必須の目標ではありませんが、「葛藤」が生じやすくなり、意志決定の機会が増えます。

(3) シナリオプロットの追求

 ゲームマスターが用意したシナリオプロットを理解し遂行するという目標です。プロットの遂行を全く考慮しない資源管理は否定されるべきですが、絶対に達成するべき目標というわけでもありません。これは、他の目標についても同様です。

(4) ゲームシステムの要請する目標の追求。

 「クトゥルフの呼び声」や「パラノイア」などが代表的ですが、「恐慌状態」や「裏切り」など、ゲームシステム自体が推奨する資源管理の方向性を尊重することです。

 テーブルトークRPGにおいては、ロールプレイの遂行にあたりこれらの目標を全て考慮する必要があります。プレイヤーは、「ゲームトークン」であるプレイヤーキャラクターを操作し「資源管理」を行う過程で、「ロール」に従い、さらにこれらの目標をバランスよく追求することを念頭に「意志決定」を行わなくてはなりません(*6)。


(*6) テーブルトーク・ロールプレイング・ゲームにおける「目標」の多層構造については、「馬場秀和のマスターリング講座」 第2章 シナリオ作成 <2.2 ゲーム要素の明確化(ステップ2)>より、<2.2.3 目標>を参照。
http://www004.upp.so-net.ne.jp/babahide/library/chapter2.html

[2.5.2] ロールプレイと目標 ▲

 ただし、テーブルトークRPGのセッションにおいて、その時間の全てが「資源管理」に向けられているわけではありません。キャラクターとしての「ふるまいかた」の提示に代表されるロールプレイによる課題処理(資源操作)の場面とは別に、プレイヤー発言に代表されるゲーム外における様々な調整がそこではなされています。例えば、キャラクター・パーティが、そのキャラクターたちの把握している諸条件では判断しきれない方針の決定を行う場合に、シナリオプロットの遂行という観点から、あるいは面白そうな状況に直面できそうという観点などから、プレイヤーとしてパーティの行動方針を話し合う場合などです。

 これは、ロールプレイと矛盾するものではありません。そもそも、ロールプレイとは「目標に向けた資源管理」においてプレイヤーが従うべき制約なのであり、「資源管理」以外の局面においてプレイヤーの意志を制約するものではありません。それは、「与えられた資源を操作する方法」についての制約なのであって、「どのような資源を管理するべきか」についての決定権をプレイヤーから取り上げるものではないのです(もちろんこの意味の決定についての第一位の優先権はゲームマスターにあります)。同一プロットを用いたセッションでも、参加するプレイヤーによって異なった印象を持ち得るのは、この意味での「いかに魅力的な資源管理の場を構築し得るか」という大目標に対するプレイヤーの意識と技量の差があるからです。

 現在のテーブルトークRPGでは、そのロールプレイの遂行にあたって、従来の「与えられた資源を管理する」という「ゲーム(意志決定)」の遂行から、「いかに魅力的な資源管理の場を構築し得るか」という「ゲーム(意志決定)」あるいは「アート(意志決定の表現による交流)」にその重点が移っているようです。これについては後に取り上げたいと思います。



[3] キャラクターのロールプレイ ▲

 ここまでで、ロールプレイの意義については説明できたと思います。次は方法論について話を進めるべきなのですが、私の分類による「役割分担のロールプレイ」「社会的ロールプレイ」については省略したいと思います。これらについてはすでに素晴らしいテキストが存在しますので、ここで取り上げる必要もあまりありません。

 以下では、ロールプレイのうち特に曖昧で議論の対象となりやすい「キャラクターのロールプレイ」について検討していきます。(*7)


(*7) [2.4.2] ロールプレイの分類 では、RPGの世代論的視点、特にロールプレイについてのシステム的な規定の有無から、「社会的ロールプレイ」と「キャラクターのロールプレイ」を分離して定義したが、一般的には両者を併せて「キャラクターのロールプレイ」あるいは単に「ロールプレイ」と表現されることが多い。これはそれらが、プレイヤーが従うべき規範としてシステムが外的に規定する「役割分担のロール」と対置される形で、キャラクターとしての思考シミュレーションにおいてプレイヤー自身が積極的に規定すべき内的ロールとして理解されるからだと思われる。また、実際のロールプレイでは、「社会的ロールプレイ」と「キャラクターのロールプレイ」は不可分であり、のみならず、さらに「役割分担のロールプレイ」も加えた三者の統一体としてのロールが観念され遂行される(ロール・プレイング)。以下では、「キャラクターのロールプレイ」としての側面を主題として検討するが、「社会的ロールプレイ」「役割分担のロールプレイ」の遂行も当然の前提となっていることに注意されたい。

[3.1] 定義 ▲

 まず、プレイヤーが設定するプレイヤーキャラクターの性格・個性・背景、これらを「キャラクター要素」と呼ぶことにします。これには、外見や性格、生い立ち、現在所属する集団とその中での自分のポジション、とりあえずの目的、癖、一般的な態度、口調、その他プレイヤーがキャラクターの特徴として選び取ったもの一切が含まれます。これらは、プレイヤーキャラクターを特徴付ける要素ですが、プレイヤーがどうふるまうべきかを直接に規定するものではありません。

 次に、自分はプレイヤーキャラクターとしていかにふるまうべきか、プレイヤーがこの意味における意志決定の基準とするものを「ありかた(在る・型)」と呼ぶことにします。キャラクターの目的意識、規範意識、自己認識など、キャラクターとしての意志決定を行う際に基準となる要素です。

 プレイヤーは、「キャラクター要素」を吟味し解釈することによって、実際の意志決定の基準となる「ありかた」を構成しなくてはいけません。

 そして、「キャラクターのロールプレイ」においては、プレイヤーはこの「ありかた」を自らに課せられた「役」として用い、プレイヤーキャラクターが直面している状況そのそれぞれにおいて、その取り得べき言動を検討し選択することになります。ここで、「ありかた」から導かれるプレイヤーキャラクターの取り得べき言動を「ふるまいかた(振舞う・型、形、方)」と呼ぶことにします。

 ここから、「キャラクターのロールプレイ」とは、意志決定を困難たらしめるべく、自ら選び取った「キャラクター要素」を解釈することによりそのキャラクターの「ありかた」を定め、そこから導き出されうる「ふるまいかた」のうち最終的に適切なものを選択・表現するまでの過程において、目標達成に向けた優れた意志決定を行うプレイと定義できます。

[3.2] 意志決定の評価 ▲

 ここで、その意志決定の優劣の判定は、セッションの参加者全員で行うべきです。もし、意志決定を行ったプレイヤーのみにしかその優劣が判じえないというのであれば、複数の参加者を要するTRPGというゲームにとってそれはマイナスに働くでしょう。そもそも、そのような状態では、ゲームの必要条件であるアカウンタビリティの成立を担保することができません。また、意志決定の上達を望むのであれば、他者に評価する機会を与え、また実際に他者から評価を得ることは大切なことです。

 しかし、他のプレイヤーとゲームマスターが、あるプレイヤーの行った意志決定の優劣を判定するためには、そこに実際に示されたキャラクターとしての言動に加えて、そのプレイヤーの掲げる「目標」とそのプレイヤーが作り上げたキャラクターの「ありかた」まで知っている必要があります。その共有された「ありかた」を基準に、提示されたキャラクターの言動が、あるべき「ふるまいかた」に合致しているかを検討し、さらに「目標」と照らし合わせて最良の選択を行っているかを吟味することで、その優劣の判定が可能となるのです。

 したがって、あるキャラクターを操作するプレイヤーは、自身の「目標」とそのキャラクターの「ありかた」をその他の参加者にきちんと提示する必要があります。「目標」についてはそもそも明らかであることが多く、またその提示についてもプレイヤー自身の言葉や態度で簡単に表現することが可能なのでさほど問題はありません。問題はキャラクターの「ありかた」です。

 セッション開始前にキャラクターの紹介をする、これは一般に使用されている手法ですが、実はこれだけでは足りません。キャラクターの外見や性格、生い立ち、現在所属する集団とその中での自分のポジション、とりあえずの目的、癖、一般的な態度、口調、etc.,etc., キャラクターを紹介する際に織り込まれるこれらの情報も、それだけではそのキャラクターの「ありかた」を把握するには足りないのです。これらの情報に加えて実際には、参加者はセッションの場で提示されるそのキャラクターの個別具体的な「ふるまいかた」から、全体としての「ありかた」を推察することが必要です。しかも、セッション全体を通して提示されるそのキャラクターのあらゆる「ふるまいかた」から常にその「ありかた」を推察し更新していかなくてはならないのです。

 逆を言えば、キャラクターのロールプレイを遂行するプレイヤーは、そのキャラクターの「ありかた」を他のセッション参加者に伝えるために、自身の選択した「ふるまいかた」について、それを適切に表現しなくてはなりません。この「ふるまいかた」の表現が、「キャラクターのロールプレイ」における「演技」です。

 「演技」とは、ただ単純にプレイヤーキャラクターの性格や個性を表現してみたいから行うものではありません。もちろんそれも大切な目標のひとつではありますが、大前提として、「キャラクターのロールプレイ」における意志決定の巧拙の検証を可能とすることでロールプレイによるゲームそのものを成立せしめるために、目的意識や規範意識その他諸々のキャラクターの「ありかた」をセッションの参加者で共有することを目指して、自身の選択した「ふるまいかた」を適切に表現するという欠くべからざる大切な技術なのです。

 このようにして行われる「演技」によってそれまで演じられた「ふるまいかた」から、そのキャラクターの「ありかた」を推察し、それを基準に新たに提示されたキャラクターの言動、つまりはそこにおいて為されるプレイヤー自身による「ふるまいかた」の選択と解釈を、「目標」と照らし合わせて評価する。「キャラクターのロールプレイ」における意志決定の評価とはつまりはこのサイクルの遂行のことです。そしてここから、「ふるまいかた」の一貫性、「ありかた」をより鮮やかに想起させうる「ふるまいかた」の追求など、「キャラクターのロールプレイ」における様々な課題が浮かび上がってきます。これについては後に検討します。

 蛇足になりますが、先に述べたキャラクターの紹介においても、「キャラクターとして自己紹介する」ことで、その「ふるまいかた」の提示を始めることができます。私が知る限りでは、この手法は1991年頃から用いられるようになったと記憶しています。

[3.3] 手順と留意点 ▲

 ここで一度整理してみましょう。

 「キャラクターのロールプレイ」とは、意志決定を困難たらしめるべく、自ら選び取った「キャラクター要素」を解釈することによりそのキャラクターの「ありかた」を定め、プレイヤーキャラクターが直面している状況そのそれぞれにおいて、その取り得べき言動を検討することによって導き出された「ふるまいかた」のうち、適切なものを選択する過程において、目標達成に向けた優れた意志決定を行うプレイです。

 そして、「キャラクターのロールプレイ」における「演技」とは、「キャラクターのロールプレイ」においてその意志決定の評価を可能とするための手段であり、プレイヤーが「ふるまいかた」のひとつを選択し、実際に表現することで、そのキャラクターの「ありかた」を他の参加者に伝達するための方法です。

 さて、ここまでで、「キャラクターのロールプレイ」の基本的な仕組みについては説明できたと思います。次は、実際のセッションの場における「キャラクターのロールプレイ」の進行手順と、その際にプレイヤーが留意すべき点を検討していきましょう。

 なお、「ふるまいかた」には、場合により3通りの意味があります。ひとつは「ありかた」から導かれる取り得べき行動の総体としての「ふるまいかた(型)」であり、そこからプレイヤーが「目標」を考慮して選択したひとつの形としての「ふるまいかた(形)」があり、最後に「演技」により(あるいはそれ以外の手法により)実際に再現された表現としての「ふるまいかた(方)」があります。以下に示す「キャラクターのロールプレイ」の進行手順においてはこれを分類して書きました。しかし、読みにくい印象を与え、また使い方によっては複数の意味を持たせたほうがよい場合もあるため、他の記述では省略することにします。


キャラクターのロールプレイの処理手順

(1) 「意志決定」を困難にし魅力的なものとするべく、「キャラクター要素」を適切に選択する。

(2) 「キャラクター要素」を解釈し、キャラクターの「ありかた(ロール)」を定める。「ありかた」を構築できない場合、(1)に戻る。

(3) 自身のキャラクターがまず行動すべき場合、(4)へ進む。他のキャラクター(PCおよびNPC)の「ふるまいかた」に対応する形で行動すべき場合、(11)へ進む。

(4) 目標の追求において、その「ありかた」をキャラクターの直面する状況にあてはめ、キャラクターの言動としての許容範囲(「ふるまいかた(型)」)を想定する。その可能性の中から、「目標」に資する個別具体的な「ふるまいかた(形)」を検討する。許容範囲としての「ふるまいかた(型)」そのものが「目標」に背反して個々の「ふるまいかた(形)」を決定できない場合、あるいはさらに効果的な「ふるまいかた(形)」を導きたい場合、可能であれば「ありかた」自体を再構成してもよい。ただし、再構成後の「ありかた」は、過去に提示済みの「ふるまいかた(方)」の総体として他の参加者がそのキャラクターに対して想定する「ありかた」と背反してはならない。

(5) (4)において、許容される範囲内での「ありかた」の再構成では、適切と思われる「ふるまいかた(形)」を導けない場合、他のプレイヤーおよびゲームマスターの助力を求めることを検討する。他のプレイヤーキャラクターあるいはノンプレイヤーキャラクターの「ふるまいかた(方)」によっては、それを理由に自らのキャラクターの「ふるまいかた(方)」を修正、あるいは打ち消すことができる。ここではそのための布石となるような「ふるまいかた(形)」を検討する。

(6) (4)(5)では十分な解決が図れない場合において、プレイヤーの掲げる目標がもっぱらそのプレイヤー個人のためのものではない場合、他のプレイヤーが自身のキャラクターに対して想定する「ありかた」そのものを改変してもよい。他のプレイヤーキャラクター、あるいはノンプレイヤーキャラクターの「ふるまいかた(方)」によっては、それを理由に自らのキャラクターの「ありかた」、ここでは過去に提示済みの「ふるまいかた(方)」の総体として他の参加者がそのキャラクターに対して想定する「ありかた」それ自体の改変を説得的に提示することができる。ここではそのための布石となるような「ふるまいかた(形)」を選択する。

(7) (4)(5)(6)それぞれの結果を比較検討し、もっともバランスが良いと思われるものを選択する。

(8) 選択した「ふるまいかた(形)」を適切に表現する。

(9) 表現された「ふるまいかた(方)」の総体として他の参加者が想起するであろう「ありかた」を想定し、自らが意志決定の際に基準として用いている「ありかた」と比較検討する。

(10) (3)へ戻る。

(11) 他のキャラクター(PCおよびNPC)の「ふるまいかた(方)」が自身のプレイヤーレベルの目標、あるいはキャラクターレベルの目標と背反する場合、そのキャラクターの「ふるまいかた(方)」を修正し、あるいは打ち消すことを検討する。ここでは自らのキャラクターの「ありかた」を元に、そのための布石となるような「ふるまいかた(形)」を検討する。

(12) (11)による解決では不十分な場合、他のキャラクター(PCおよびNPC)の「ありかた」自体を修正し、あるいは打ち消すことを検討する。ここでは自らのキャラクターの「ありかた」を元に、そのための布石となるような「ふるまいかた(形)」を検討する。

(13) (8)へ進む。

※(1)から(13)の総体がキャラクターのロールプレイです。

(1)において。 ▲

 「キャラクター要素」は「ありかた」を規定する基礎資料として他のプレイヤーおよびマスターにも伝達するべきです。また、(6)(12)でも説明しますが、キャラクターの「ありかた」自体、他のPCおよびNPCとの交流により変化しうるものであり、その変化の過程において、「キャラクター要素」は一定の限界として、あるいは変化への鍵として重要な役割を果たすことがあります。シナリオ展開を予想して、あるいは他のキャラクターの「ありかた」を想定して、この種の「キャラクター要素」を意図的に設定しておくこともひとつの方法です。

(2)において。 ▲

 この段階での「ありかた」自体は単純なものでも足ります。セッション中、キャラクターのロールプレイを遂行する過程において、選択された「ふるまいかた(形)」とその表現である「ふるまいかた(方)」の積み重ねにより、その「ありかた」自体自然と複雑に精妙になっていきます。また、他のプレイヤーやマスターとの「キャラクターのロールプレイ」を用いた交流により、意図的に自らのPCを彫琢していくのも面白い試みのひとつです。

(3)において。 ▲

 例えばある場面で、そのキャラクターがなにも喋らなかったとしても、喋らないという「ふるまいかた(方)」はそこに示されています。また、言葉以外にも目線や仕草がそこに再現されていれば、それも立派な「ふるまいかた(方)」です。ありとあらゆる無言無表情すら、そのような「ありかた」を示すものとしてやはりそれも「ふるまいかた(方)」のひとつなのです。

(4)において。 ▲

 「ありかた」はプレイヤーの意志決定を制約する一定の枠ですが、「ふるまいかた(形・方)」との一貫性が保たれている限りにおいて、その改変は否定されるものではありません。プレイヤーによる「ありかた」の再解釈と再構成のサイクル自体が、「キャラクターのロールプレイ」が内包するひとつのゲームでもあります。

 ここで、ロールプレイを遂行するプレイヤー自身が解釈し定立する「ありかた」は、意志決定の際の基準となるものですが、実際に行われた意志決定について、その巧拙の判定基準となるものではありません。それは、他の参加者がそのキャラクターに対して想起する「ありかた」の役割です。したがって後者の意味での「ありかた」に背反しない限度であれば、プレイヤー自身による「ありかた」の再構成は「評価」とは無関係です。これはルール上の間隙を利用するものであり、後に説明しますが、その目的によってはこれを否定する見解も存在します。また、後者の意味での「ありかた」の改変も可能ですが、それには別途きちんとした手続きが必要です。こちらは(6)で説明します。

 蛇足ではありますが、再構成後の「ありかた」が他の参加者の想定する「ありかた」と異なっても直ちには問題となりません。再構成後の「ありかた」から導かれた「ふるまいかた(方)」のひとつが実際に後者の意味での「ありかた」と抵触する前に、後者の「ありかた」自体を改変することができればルール違反ではありません。後に説明しますが、その目的によってはこれを否定する見解も存在します。

(5)において。 ▲

 「キャラクターのロールプレイ」においてプレイヤー間の交流を促進する仕掛けです。他のプレイヤーキャラクターの「ありかた」を推察し、そこから導かれる「ふるまいかた(型)」を検討して、自らのPCの「ふるまいかた(方)」を修正しうる「ふるまいかた(形)」の可能性がそこにあれば、それを引き出すべく「演技」をすることができます。そして「演技」による「ふるまいかた(方)」の提示と衝突、あるいは相互補完の結果により、パーティ総体としてのそれも含めたキャラクターレベルの目標が達成される「かも」しれません。それはそこで行われるシミュレーションの展開に対するそのプレイヤーの読みと「ふるまいかた(方)」投入の技量次第です。もちろん、助力を求める相手が、期待されている「ふるまいかた(形)」に気が付き、相互干渉が可能な形で実際に「ふるまいかた(方)」として提示してくれること、少なくともそれだけの技量を有していることが前提となります。

 同様の手法で、自分以外の参加者の「ふるまいかた(方)」を修正し、あるいは打ち消すために、「演技」をすることもできます。こちらは(11)で説明します。

(6)において。 ▲

 (5)と同様、「キャラクターのロールプレイ」においてプレイヤー間の交流を促進する仕掛けです。ただし、ここでの「ありかた」は他の参加者がそのPCに対して想起する「ありかた」、すなわち過去に提示済みの「ふるまいかた(方)」の総体としての「ありかた」のことです。この意味での「ありかた」を改変するためには、それにふさわしい手続きが必要です。

 具体的には、他のプレイヤーキャラクターの「ありかた」を推察し、そこから導かれる「ふるまいかた(型)」を検討して、自らのPCの「ありかた」を修正しうる「ふるまいかた(形)」の可能性がそこにあれば、それを引き出すべく「演技」をすることができます。そして「演技」による「ふるまいかた(方)」の提示とその衝突、あるいは相互補完の結果により、自らのPCの「ありかた」を改変できる「かも」しれません。それはそこで行われるシミュレーションの展開に対するそのプレイヤーの読みと「ふるまいかた(方)」投入の技量次第です。

 しかし、「演技」による「ありかた」の意図的な提示は、「ありかた」の反映としての「ふるまいかた」の提示よりもはるかに困難です。また、相手プレイヤーもしくはゲームマスターは、実際に提示された「ふるまいかた(方)」から、そこに意図的に織り込まれた改変するべき「ありかた」を読み取り、それを改変しうるほどの「ふるまいかた(方)」を組み立てて実際に提示しなくてはなりません。これは相当の技量を要する過程です。後に説明しますが、その目的によってはこれを否定する見解も存在します。

 同様の手法で、自分以外の参加者の「ありかた」を修正し、あるいは打ち消すために、「演技」をすることもできます。こちらは(12)で説明します。

 なお、過去に提示された「ふるまいかた」との一貫性が保たれる範囲内において自身が内心で想定する「ありかた」を再構成する場合と異なり、他の参加者の共有する「ありかた」そのものの改変を目指すということは、そのプレイヤーが従うべき資源管理におけるルールの変更を他の参加者に明確に要請するということです。これは、ゲーム中にルール変更を申し出ることと同義であり、プレイヤーとしての目標の達成においてそれが不可欠でないのならば、安易に認められるべきものではありません。

(7)において。 ▲

 「キャラクターのロールプレイ」において主題となる意志決定です。

(8)において。 ▲

 キャラクターのロールプレイにおける「演技」です。「演技」の際の留意点については後に説明します。

(9)において。 ▲

 この両者のずれを、プレイヤー自身による「ありかた」の再構成を容易とするために積極的に利用していくスタイルと、その間隙を「キャラクターのロールプレイ」の過程において意図的に埋めようとするスタイルがあります。

 前者は、他の参加者が想定するであろう「ありかた」について、意志決定を左右する中核部分においては積極的にその詳細を補完するような「ふるまいかた」の提示を抑制することにより、意志決定に向けた自らのキャラクターの「ありかた」の柔軟な再構成を可能として、目標を達成するために必要な「ふるまいかた」の選択範囲を確保することを求めます。これにより、「キャラクターのロールプレイ」についての参加者の技量がほぼ同水準にある場合、「ふるまいかた」を駆使して競合者と目標達成を争うゲームとしてのプロットの遂行、あるいはそのような個々の場面自体において、攻撃防禦手段の選択肢を増し、そこに生じる意志決定の魅力を高めることができます。一方、「キャラクターのロールプレイ」についてセッション参加者に見解の相違や技量のばらつきがある場合、すなわち自らのキャラクターの「ふるまいかた」をプレイヤー間の相互交流によって修正することが困難となるような場合でも、引き続き目標を追求し、セッションを安定的に維持することが可能です。

 後者は、他の参加者が想定するであろう「ありかた」について、その詳細を補完する「ふるまいかた」を積極的に提示することにより、そこに複雑精妙な「ありかた」を構築することを求めます。これにより、キャラクターレベルでの「ふるまいかた」の相互干渉がより複雑なものとなり、そこにさらなる意志決定の困難性(すなわち魅力)が生じます。ただし、「ふるまいかた」の複雑な相互干渉が生じるためには、そこに関与する他のキャラクターの「ありかた」についても、自らのそれと同程度の精妙さが必要です。そのため、キャラクターのロールプレイについてのセッション参加者それぞれの見解や技量次第では、そもそもこのようなスタイルが成立しなかったり、たとえ成立しても、同程度の技量を有するもの同士での交流が行われ、低位の技能を有するプレイヤーとの(キャラクターのロールプレイを通じた)交流自体が断たれてしまう危険性があります。

 前者と後者は必ずしも排斥しあうものではなく、必要に応じて選択することもできますが、どちらをより好むかというそれぞれの嗜好の問題は生じます。同一セッション参加者の間でこの「好み」が極端に食い違う場合、前者のスタイルを強く意識するものにとっては、せっかくのゲームが簡単に感じられますし、後者を強く意識するものにとっては、「ありかた」の彫琢に必要なレベルでの相互交流を得られないことが不満に思われるでしょう。

(11)において。 ▲

 「キャラクターのロールプレイ」においてプレイヤー間の交流を促進する仕掛けです。

 キャラクターレベルでの目標の不一致が著しく、その追求と排他的達成がプレイヤーレベルの目標としても掲げられる場合、あるいはシステム上、シナリオプロット上、そもそもプレイヤーレベルで目標が背反する場合、「ふるまいかた(方)」への否定的な干渉は、プレイヤー同士の主導権争いとして展開されます。プレイヤーは「演技」により「ふるまいかた(方)」を逐次投入し、それら「ふるまいかた(方)」の積み重ねとしての競合と相克の過程自体を通じて他のプレイヤーと目標達成を競うことになります。そこでは、「ふるまいかた(方)」の総体としての個別の場面場面を演出家としての視点から自己に有利なものとして制御することはもちろん、場面の積み重ねとしてのセッション展開自体を脚本家としての視点から制御することも必要です。

 これに対して、キャラクターレベルで目標は一致しないが、その不一致は排他的達成を必要とするものではなくプレイヤーレベルの対立をもたらすほど重大なものではない場合、「ふるまいかた(方)」への否定的な干渉は、キャラクター同士の主導権争いとしてのみ展開されます。プレイヤーは「演技」により「ふるまいかた(方)」を逐次投入し、それら「ふるまいかた(方)」の積み重ねとしての競合と相克の過程自体を演出家としての視点から楽しむことができます。

 他プレイヤーと競合する場合、そのルールとなるのはやはり「キャラクターのロールプレイ」です。プレイヤーは、競合の過程において、「ふるまいかた(型)」にプレイヤーレベルの「目標」を繰り込んでその目的に沿う「ふるまいかた(形・方)」を引き出すことになりますが、そこに一定の規範、すなわち「ありかた」に背反しないというルールが守られている以上、自らの目標達成が妨害されたからといって他プレイヤーがその言動を拒絶することはできません。また同時に、「ありかた」を巧みに取り入れた「ふるまいかた」については、なるほどそのような行動をすることはもっともだという対立するプレイヤーへの説得力すら備えています。「ありかた」に背反しないというルールを守っていれば相手に敗北を認めさせることはできます。しかしそこに、「ふるまいかた」に伴う説得力を持ち込むことができれば、自身の勝利を認めさせることまで可能となります。

(12)において。 ▲

 一般には、この手法はマスターの操作するNPCに対して用いられます。この意味での「ありかた」の「否定」は実際に多くのセッションで用いられており、そのようなセッションでは、プレイヤーは最後に敵となるキャラクターの「ありかた」を否定し、戦闘による殺害や社会的な抹殺などの形でセッションを締めくくります。これに対して、「ありかた」の「修正」をプロットとして掲げるセッションも存在します。そのようなセッションでは、メインとなるNPCの「ありかた」をセッション終了までにいかに修正するかが課題となります。マスターにより提示されたそのNPCの「ふるまいかた」やキャラクター要素その他の情報から、プレイヤーはそのNPCの「ありかた」を推察し、自らの「ふるまいかた」の選択と表現によりその修正に挑戦することになります。一般にこれらのセッションでは戦闘が伴わないため、「説得シナリオ」と呼ばれることもあります。「ふるまいかた」の総体としての「ありかた」の的確な推察と、「ありかた」に影響を与えるほどの「ふるまいかた」の提示が必要という点で、プレイヤーにある程度の技量が必要です。

 他のプレイヤーが操作するプレイヤーキャラクターの「ありかた」の修正が必要となるケースはそう多くありません。プレイヤー同士が競合している場合、「ありかた」の改変は目標達成に向けたゲームの前提条件を崩すことになります。最初の設定がよほど不公平だった場合を除き、ゲームの前提条件自体を修正してゲームに勝利することは一般に認められません。その場合、それは、ゲームの舞台を崩すことで競合関係を修正し争いを停止しようとする意思の現れと解釈されます。実際、この意味での「ありかた」の改変は、プレイヤー間の対立が激化し、セッションの維持に支障が生じた場合に双方の暗黙の合意の上で行われる場合がほとんどでしょう。

 一方、プレイヤーキャラクターの「ありかた」の否定とは、そのキャラクターを完全に自己の支配下に置くか、死亡などによりセッションの場から退場を願うことに他なりません。「ありかた」を打ち消すことを目指してキャラクターのロールプレイを展開すること自体に問題はありませんが、「ふるまいかた」に相手プレイヤーを納得させられるだけの説得力を付与できないプレイヤーはモラル的にそれを行うべきではありません。また、実際にそれに成功することは、そのプレイヤーをセッションの場から排除することであり、システムやシナリオプロット上の要請がある場合は別として、さらにやむを得ない場合を除き、そのセッションにおける終局近くまで達成するべきではありません。セッションの維持、シナリオプロットの追求、さらには人間関係の円滑化まで、ゲームを越えたメタ目標を睨んだ意志決定が必要です。

 蛇足となりますが、「ありかた」に影響を与える「ふるまいかた」について稀に生じる現象として、「ありかた」が修正されたことをそのキャラクターを操作するプレイヤー自身が気付かないことがあります。そして、何らかの契機を得てプレイヤー自身がその乖離に気が付いた瞬間、そこに唐突に、プレイヤーの予期せぬ「ありかた」にしたがって振舞うキャラクターが現れます。それは模写によって作られた真似ごとが本当の「ありかた」に転化したように思われる瞬間であり、支配する存在のプレイヤーがキャラクターの「ありかた」に支配される瞬間でもあります。プレイヤーによる把握の容易な「ありかた」、すなわち彫琢の不十分な簡素な構造の「ありかた」ではこの現象は生じません。

[3.4] 消極的機能と積極的機能 ▲

 キャラクターのロールプレイの本質は意志決定の制約と検証です。プレイヤーは、目標に向けた諸条件の操作(資源管理)にあたって自ら構築したPCの「ありかた」に制約され、同時に、意志決定の優劣を互いに検証するためにその「ありかた」の再現が求められます。別の言い方をすれば、キャラクターのロールプレイにおいて「意志決定」を成立させるためには、制約により「葛藤」を生じさせ、構築により「責任」を生じさせ、再現により「アカウンタビリティ」を生じさせることが必要なのです。この意味でキャラクターのロールプレイが果たす本来の役割を「キャラクターのロールプレイの消極的機能」とします。

 一方、キャラクターのロールプレイにおいて、その消極的機能を支えている手法自体は、他のPC・NPCとの関係において、さらには他のセッション参加者との関係において、プレイヤー自身の意思により積極的に転用することが可能です。キャラクターのロールプレイは条件操作の際の制約(ルール)ではありますが、制約に従っている限りにおいては、プレイヤーが自由に活用できる武器としての側面を持ちます。この意味での役割を「キャラクターのロールプレイの積極的機能」とします。

 「キャラクターのロールプレイの処理手順」でもある程度取り上げましたが、以下では、この「積極的機能」を主題として検討してみたいと思います。

(1) 説得効果

 キャラクターの「ありかた」を巧みに取り入れた「ふるまいかた」には、なるほどそのような言動をとるのはもっともだという、他の参加者に対する説得力があります。「ふるまいかた」を適切に表現することにより、他の参加者があるプレイヤーによってなされた「ふるまいかた」の解釈と選択、すなわちそこでなされた「意志決定」を、妥当であり正当であると判断しうるのであれば、それは同時に他の参加者への説得力という側面を備えることになるのです。

 したがって、他の参加者と利害関係が対立する場面において、キャラクターのロールプレイは他者の説得という視点から活用することが可能です。

(2) 展開操作

 この説得効果をさらに活用することにより、シナリオ展開を操作することも可能です。

 例えば「汚職の証拠となるデータディスク」というものがあったとして、あるプレイヤーはそれを脅迫の材料に使いたいと主張し、あるプレイヤーは捜査機関に提出するべきだと主張したとしましょう。前者には、「捜査機関に提出してはシナリオプロット上問題がありそうだ」とか「脅迫したほうが自分のキャラクターにとっては有利な結果になりそうだ」という判断があり、後者には、「このゲームマスターの傾向から見て脅迫では成果が得られないのではないか」とか「積極的な理由もないのに自分のキャラクターが節を曲げるのは困る」という判断があったとします。

 このとき、これらの判断は通常、行動宣言の前段階においてプレイヤー発言として提示され検討されます。もちろん、このようなプレイヤーレベルにおける利益衡量において、当初より合意に至ることができれば何の問題もありません。しかし、プレイヤー間の対立が決定的となった場合、どちらかによる一方的な合意の強制が行われては円滑なセッション運営に支障が生じかねません。ここでは、キャラクターとしての「ふるまいかた」にどちらがより説得力を付与できるかという視点からキャラクターのロールプレイを展開することにより、行動の主導権を争うことができます。すなわち、プレイヤーの視点からの利益衡量ではロールプレイの大目標を決定できない場合、キャラクターの視点をより鮮やかに提示した方が、その説得力をもって以後の展開方向を操作するのです。

 ここで、シナリオの展開操作に向けたあるプレイヤーの意志が、キャラクターのロールプレイを用いて表明されたからといって、必ずしも他の参加者がキャラクターのロールプレイを用いてこれに対抗する必要はありません。プレイヤー発言やマスター発言を用いてこの意志を否定したり、あるいは無言の内に黙殺することもできます。ただ、このような行いはプレイヤー間の交渉によるロールプレイの大目標の決定という点では問題はないのですが、ロールプレイの遂行という意志決定の舞台においては、「将棋」の待ったと同様に、すでに提示されたキャラクターの言動を「なかったことにする」ことに他なりません。これは、ロールプレイというものに対する馴れ合いをもたらし、結果に対する責任を低減して意志決定の成立と上達への姿勢を危うくする危険性があります。したがって、セッションにおいてロールプレイを尊重するスタイルを採用するのであれば、ロールプレイによって表現された意志に対しては、ロールプレイによって応えるべきであるということになります。ただし、ロールプレイの技量において参加者に顕著な差のある場合には、この種の展開操作を多用することはモラル的にあまりお薦めできません。

 この展開操作はゲームマスターとの関係においても用いることが可能です。もちろん、シナリオ展開についての第一位の決定権はゲームマスターにあるのですが、ロールプレイの上達を尊重するスタイルを採用するのであれば、キャラクターのありかた(ロール)を無視した形でシナリオ展開を強制する権利はゲームマスターにもありません。

(3) 「型」の把握と再現

 「キャラクターのロールプレイの処理手順」で少し書きましたが、ロールプレイによる課題処理の場面においては、時にキャラクターの「ふるまいかた」がプレイヤーの目標と一致しないときがあります。

 例えば、あるNPCの協力を得たいという場面で、しかし自分のPCの「ありかた」とその直面している状況からすれば感情的な反発を示さざるを得ない状態にあるとしましょう。このとき、プレイヤーはキャラクターとして発言を行わないでいることもできますが、沈黙自体が「ありかた」に背反して不自然な場合、他のプレイヤーによるフォローを期待して、あえて目標からすれば問題のある「ふるまいかた」を提示することができます。

 このとき、他のプレイヤーはそのキャラクターの「ふるまいかた」を検討し、状況の中でのその意義と位置を読み取った上で、自分に期待されている「ふるまいかた」を提示しなくてはなりません。もし、フォローする側のプレイヤーが、提示された「ふるまいかた」からそのプレイヤーの意志を読み取れなかったとしたら、これは少し困ったことになります。「自分のキャラクターの言動を掣肘して欲しい」のか「相手を怒らせて様子を見たいので少し待って欲しい」のか判らなかったとしたら、さてどうふるまうべきでしょうか。

 このような混乱を避けるため、「ふるまいかた」の提示にあたっては、同時になるべく判りやすい形でプレイヤーの意志をそこに含ませる必要があります。例えば、目線によって合図をするとか、到底同意を得られないような状況であえて同意を求めるとか、非常に侮蔑的な口調を用いるとか、方法は様々です。そして、このようなプレイヤーの意志を伝達するための技法の開拓においては、プレイヤー自身がキャラクターとしてセリフをしゃべり、仕草を表現する手法が優れています。プレイヤーの「目線」による合図だけでも介入のタイミングを伝達することはできますが、どのような介入が欲しいかまでは伝えきることができません。

 しかし一方で、キャラクターのロールプレイに習熟してくると、必要とされる意志の伝達と処理には状況により一定の「型」があることがわかってきます。先程の例でも、NPCの協力を得たいという目標のもとで、そのキャラクターの「ありかた」とNPCの「ありかた」さらに現在の状況を勘案すれば、「ふるまいかた」がある程度提示された時点で落しどころに向けての「型」を読み取れるようになります。後は、さらなる「ふるまいかた」を積み重ねることにより、多少は変化を付けながらその「型」を実際に形にするだけです。「型」の把握についてプレイヤーに共通の理解が成立していれば、プレイヤーの意志を込めるために戯画化された「ふるまいかた」の提示すら不要です。

 そもそも、私たちがキャラクターのロールプレイにおいて扱う「ありかた」や「ふるまいかた」は現実世界のそれと比較して同一のものではありません。そこでは、ゲームとしての計算を可能とするべく構造の単純化がなされており、さらに「ふるまいかた」の連鎖自体に、ゲームの攻撃防禦手段として一定のパターン化を行うことが許容されています。

 例えば、あるNPCを説得するとき、プレイヤーの提示する「ふるまいかた」には、本当に実在する人間を説得できるほどの詳細さも真摯さも説得力も通常はありません。そこでは、ある程度の「ふるまいかた」の提示と連鎖があれば、「説得」という障害をクリアできたことにする、という暗黙の了解があるのです。プレイヤーは、期待されているであろう「ふるまいかた」を提示し、ゲームマスターはその「ふるまいかた」ではこれこれの点で足りないという意志を込めた「ふるまいかた」を返すことになります。この「ふるまいかた」のやり取りにおける課題クリアに向けたゲームとしての計算と、落しどころへの連鎖の構築そのものが、予定調和に向けたひとつの「型」の把握と再現なのです。

 このような「型」の把握と再現は、「与えられた資源を管理する」という「ゲーム(意志決定)」の遂行において、プレイヤー間の相互支援と交流を支える非常に重要な技法です。しかし、この技法の役割はそれだけに留まるものではありません。

 この「型」は、ロールプレイによる課題処理以外の局面でも用いることができます。例えばゲームマスターは、シナリオの展開上どうしてもプレイヤーにある少女をある場所まで送って欲しい場合、少女の口調や仕草の表現などを一定の「型」にはめることで、「ちょっと不自然かもしれないけど我慢して送っていってやって」という意志をそこに込めることが可能です。プレイヤーはそれに応えて、「確かに一見不自然かもしれないけど、こう考えたらいいか」というフォローの「ふるまいかた」を提示して「型」の完成を目指すか、あるいは、「いや、それはあまりにも不自然すぎる。こうしたらどうか」という意志の込められた「ふるまいかた」の提示により新たな「型」の構築を目指すことになるでしょう。

 さらにこの技法を活用すると、意志決定の舞台そのものを「ふるまいかた」の積み重ねによって構築することができます。例えば、自身のキャラクターを、「型」を利用した他のプレイヤーとの「ふるまいかた」の積み重ねによって意図的に葛藤状態に導き、困難かつ魅力的な意志決定の機会を自らにもたらすことも可能です。もちろん、ある特定のキャラクターの葛藤状態以外にも、様々な意志決定の舞台を構築することができます。

 「型」の把握と再現は、ロールプレイにおいて、「与えられた資源を管理する」という従来の「ゲーム(意志決定)」の円滑な遂行に留まらず、「いかに魅力的な資源管理の場を構築し得るか」という「ゲーム(意志決定)」の遂行までも可能とします。さらに、参加者の技量がある程度揃っていれば、セッションにおいてより良い「型」の把握と再現それ自体の追求を目的とすることが可能です。それは、「意志決定の遂行」から「意志決定の表現による交流の構築」へとロールプレイの重点をシフトすることであり、「ゲーム」から「アート」への転換に他なりません。

(4) リアリティ (あるいは感情励起)

 これまで説明してきたキャラクターのロールプレイにおいては、プレイヤーキャラクターは「ありかた」の再構成と「ふるまいかた」の計算においてあくまでも操作するべき対象であり、プレイヤー自身がその「感情」を自らのものとして引き受けることは想定していません。キャラクターのロールプレイの遂行にあたって取り扱われる「ありかた」と「ふるまいかた」は、それに伴う心理や感情のゆらぎも含めて、プレイヤー自身の手によって全て客観的に計算され再現されるべきものです。

 確かに、ロールプレイは感情移入(Position Identification)を促進します。しかしそれは、資源管理にあたってゲームトークンの「ありかた」を自らのものとして引き受けることにより、置かれた場所と心の姿勢(Position)の一致(Identification)が生じるということであって、ここにおいて「感情移入」をキャラクターの「感情」がプレイヤーに伝わることと理解するのは間違っています。

 (3)でも述べましたが、私たちがキャラクターのロールプレイにおいて扱う「ありかた」や「ふるまいかた」は、ゲームとしての計算を可能とするべく構造の単純化がなされています。そして、ゲームとしてのキャラクターのロールプレイにおいては、プレイヤーの構成する単純化パターン化されたキャラクターの「ありかた」が全てです。そこで、プレイヤー自身の「ありかた」が取り上げられることはなく、ゲームの渦中にあってその存在を意識するべきでもありません。しかし実際には、ロールプレイの遂行において、不完全な「ありかた」を補完するために、構造化されていない部分については自らの「ありかた」を代用している場合がほとんどであると思います。その構造化されていない部分を揺さぶる「ふるまいかた」が現れたとき、プレイヤーはそこに生じる情感を自らのものとして感得します。

 その瞬間、その情感にプレイヤーはリアリティを見ます。仮想世界におけるゲームの中で、その手段である「ふるまいかた」に、ゲームを越えた存在、現実世界の自分を揺さぶる普遍的な何かを見るのです。この感覚は大変に魅力的なので、このリアリティの感覚の追求をキャラクターのロールプレイの目的として掲げることもあります。

 ここで、リアリティの追求は、「型」の把握と背反しません。一般的には、劇的な意志決定の場を構築するために、「ふるまいかた」の連鎖を構造化パターン化して把握する姿勢においては、それを進めれば進めるほど、その提示においてプレイヤーにある程度の予測が成立してしまいます。また、「型」の使用が可能な場合、「ふるまいかた」を提示する側としても、課題クリアに必要な形以上にわざわざ「ふるまいかた」を工夫する必要はありません。しかし別の見方をすれば、構造化パターン化された「型」を利用しながらも、そこにおいてなされるプレイヤーの予測を覆し、ゲームの手段として構造化された「ありかた」のみならず、その奥にあるプレイヤー自身の「ありかた」までを刺激する「ふるまいかた」を追求することは可能なのです。

 「型」の把握とリアリティの追求は車輪の両輪であるべきだと考えます。「型」の把握に満足してしまえば、向上への可能性はありません。そこでは常にあえて「型」を崩すという意識が必要です。同様に、リアリティの追求においては、それが最大限効果を発揮するべき場を導き、「ふるまいかた」の適切な連鎖をつくる技術がどうしても必要なのです。

[4] プレイスタイルと課題 ▲

 ここまでで、ロールプレイにおける基本的な諸概念については説明できたと思います。以下ではロールプレイの追求の過程において現れる様々なプレイスタイルと、そのスタイルの抱える問題点についてそれぞれ検討していきたいと思います。

[4.1] コンピュータ・ロールプレイング・スタイル ▲

 テーブルトークRPGの初心者によく見られる行動パターンとして、まるでコンピュータRPGの延長であるかのように、PCの能力値やスキルを上昇させることを目的とした行動を繰り返したり、ゲームマスターの提示する課題に対して、現実感に欠ける行動をキャラクターにとらせてみてはその結果を(それが良いモノであれ悪いモノであれ)楽しむことを繰り返すことがあります。これは、「ロールプレイ」というものについての認識不足が原因です。

 「ロールプレイング・ゲーム」とは、目標達成に向けて諸条件(資源)を管理する際に、プレイヤーがある特定の「ありかた(ロール)」に従うゲームです。実は、「コンピュータ・ロールプレイング・ゲーム」も「テーブルトーク・ロールプレイング・ゲーム」も「ロールプレイ」という用語の使い方においては間違っていません。コンピュータRPGとて、あるキャラクターの「ありかた」に従って資源管理が行われるという外形は整えているのです。ただし、コンピュータRPGにおいてプレイヤーが実際に行うべき資源管理は「ありかた」とは無関係な「レベル管理」や「フラグ立て」などであり、それらの資源管理を通じて自動的にキャラクターの「ありかた」に基づく資源管理が(背景ストーリーとして)進行することになります。したがって、コンピュータRPGとテーブルトークRPGの違いは、キャラクターの「ありかた」を用いた資源管理がプレイヤー自身に直接許されているか否かということになります。

 もちろん、テーブルトークRPGのセッションにおいて、PCの能力値やスキルを上昇させることを目的としたり(レベル管理)、ゲームマスターの提示する課題に対して、様々な行動をキャラクターにとらせてみてはその結果を検討する(フラグ立て)ことそれ自体に問題はありません。しかし、プレイヤー自身による「ありかた」の構築と資源管理におけるその遵守という視点を持たないままに、これらの目的に対してプレイヤーの都合に応じて自侭にキャラクターを操作することを許すスタイルには、上達を目指すに価するだけの技法が存在しません。またそのようなスタイルのもとに行われるゲームは、意志決定の容易な難度の低いゲームです。過去、このプレイスタイルから抜け出せずにテーブルトークRPGそのものに飽きていった人、あるいは満足して去っていった人は決して少なくありませんでした。現在では、「ロールプレイ」への自覚と義務意識をプレイヤーに提供するべくシステム的なアプローチを行っているテーブルトークRPGは珍しくありませんが、それでも必ずしも上手くいっているものばかりではありません。

[4.2] 誇張表現スタイル (オーバーアクティング・スタイル) ▲

 「ロールプレイ」を、変な性格やふるまいかたの描写を行うことで場を盛り上げつつ、とにかく課題をクリアしていくことと理解するスタイルです。「ありかた」の構築と資源管理におけるその遵守という視点は持っていますが、それを、キャラクターシートに変な性格をしていると書いてあるのだから、奇矯な振る舞いをしても問題はないし、突飛な行動で課題を解決しても問題はない、むしろそのような奇矯さや突飛さの表現こそがひとつの「芸」であり、そのような「芸」の披露こそが他のプレイヤーとの交流を深めるために求められるロールプレイの基本行動なのだと考えます。

 この意味での「芸」の追求、すなわち、ユニークな表現によって笑いや賞賛を引き出し、プレイヤー間の交流を進めるのはとても大切なことです。しかし、ユニークな表現を奇矯さや突飛さとイコールで結び付けるとしたら、それは間違っています。そこには、奇矯さや突飛さに頼らない表現への取り組みという視点が欠けているからです。さらに、もっぱら奇矯さや突飛さの表現のために「ありかた」を設定してそれでよいとする姿勢には、より人間的な「ありかた」の追求やロールプレイによるその彫琢といった視点が欠けています。

 このような視点を備えた上で、参加者の技量やシナリオプロット、あるいはシステム的な要請その他の諸条件から、あるセッションにおいて敢えてこのスタイルを採用する場合にはもちろん何の問題もありません。

[4.3] 課題達成追求スタイル (ベーシック・ロールプレイング・スタイル) ▲

 「ロールプレイ」による「ふるまいかた」の選択と提示を、課題達成のための手段と位置付けるスタイルです。個々の場面においてゲームマスターが提示する課題、シナリオプロットの提示する課題、ゲームシステムの提示する課題、プレイヤー自身が設定する課題、そのそれぞれを「ふるまいかた」の提示による資源管理を通じて達成していくことをロールプレイの主眼とします。

 もちろん、このこと自体に問題はありません。このスタイルにおいて問題となるのは「演技」についての認識です。以下、これについて検討してみます。

 「ロールプレイ」とは、キャラクターの「ありかた(ロール)」に従ってプレイヤーが資源管理を行うことです。この資源管理において、プレイヤーは「ありかた」にキャラクターの直面する状況をあてはめ、さらにプレイヤーの目的を考慮して適切な「ふるまいかた」を選択することになります。これを、ロールプレイにおける「課題達成に向けた意志決定の遂行」と呼ぶことにしましょう。そして、ロールプレイにおける「意志決定」はこれのみでは完結しません。ロールプレイにはもうひとつ、「演技に向けた意志決定の遂行」が存在します。

 「演技」とは、ある行為の意図的な選択と提示によって、相手に情報を伝達することです。そこでは、提示される自らのふるまいが相手に対していかなる情報を提供するか、その予測と検討が必要です。演技者は、この予測と検討の過程を経て、自らのふるまいを決定しなくてはなりません。

 「ロールプレイ」における「ふるまいかた」の提示においても、その「ふるまいかた」の提示が相手に対していかなる情報を提供するか、その予測と検討を行うことが大切です。詳細は、[3.2] 意志決定の評価 において書きましたので省略しますが、ロールプレイにおける課題達成に向けた「意志決定」の巧拙の検証には、個別の「ふるまいかた」の認識を通じて構成される「ありかた」を参加者の間で共有する必要があります。優れた意志決定を望むプレイヤーは、その他者の認識を通じて構成される「ありかた」を予測しなくてはなりません。すなわち、自らが提示する「ふるまいかた」が他者の認識と意味化の過程を通じて構成される「ありかた」にどのような変化を与えるか、その予測と検討を常に行う必要があります。この予測と検討の過程を経た後に、提示するべき「ふるまいかた」を実際に決定する、この意味での「演技に向けた意志決定の遂行」を軽視し、「課題達成に向けた意志決定の遂行」のみを重視する姿勢は、他者の評価を問題としない「ごっこ遊び」にすぎません。

[4.4] 演技追求スタイル (アドバンスト・ロールプレイング・スタイル) ▲

 結論から書くと、ロールプレイにおける「演技に向けた意志決定の遂行」を重視するスタイルです。意志を伝達するための技法(Arts)の遂行と追求を目的とします。少し長くなりますが、以下ではこのスタイルについて説明してみます。

 「演技に向けた意志決定の遂行」において、プレイヤーは、「ふるまいかた」に向けられた他者の認識と意味化の過程を予測し、これを操作するために「演技」を行います。このとき、意志決定の遂行は、[4.3]で取り上げたキャラクターの「ありかた」の構築のみに向けられるものではありません。以下、これについて場合分けしながら検討してみましょう。

(1) 資源変動の構築

 私たちがロールプレイにおいて「ふるまいかた」を表現するもっとも基本的な理由です。「課題達成に向けた意志決定」において、プレイヤーは「ふるまいかた」の選択により諸条件(資源)を変動させて課題の達成を目指します。ここで、その意志決定を客観的な評価の対象とするためには、諸条件の変動の過程と結果をゲームの参加者全員で共有しなくてはなりません。

 そもそもあらゆる情報の収受に対して、意味化の過程は人間の業として自動的に行われるものですが、その各人個別の意味化をゲームとしての使用に耐え得る共通認識にまで具体化できるか否かは、情報を伝達するプレイヤーの力量次第です。プレイヤーは、「ふるまいかた」に対する諸条件の変動に向けた参加者の認識と意味化の過程を予測し、適切な情報伝達を目指して「演技に向けた意志決定」を遂行しなくてはなりません。

 このとき、適切な情報伝達とは、自己の扱いたい諸条件の変動についてその全ての範囲を認識させうるか、同時にその認識をどこまで正確に自己の目標に近づけ得るか、ということに他なりません。そこでは、いかに詳細に具体的に印象的に情報を提示するかという取り組みが必要です。よく誤解されますが、「キャラクターの口調や仕草をプレイヤーが再現すること」は、この意味において「演技に向けた意志決定」における重要な目標のひとつなのです。

(2) ありかたの構築

 (1) と比べるとその必要性はなかなか理解し難いかと思いますが、ロールプレイにおける「意志決定」に対して客観的な評価を可能とするためには、プレイヤーの構築した「ありかた」を参加者全員で共有する必要があります。(1)と同様に、「ありかた」の構築に向けた意味化の過程は人間の業として自動的に行われますが、意志決定の評価の基準とするためにはそれを共通認識にまで具体化しなくてはなりません。評価を受け入れることでより良い意志決定を目指すのであれば、自身の「ふるまいかた」の積み重ねに対する参加者の認識と意味化の過程を予測し、適切な情報伝達を目指して「演技に向けた意志決定」を遂行する必要があります。

 このとき、どのようなものが適切な情報伝達なのかは、意志決定を困難かつ魅力的なものとするために「ありかた」の彫琢を重視する姿勢や、ゲームとしての攻撃防禦手段を確保するためにパターン化を重視する姿勢など、「ありかた」の構築に対する姿勢により様々です。また、個別具体的な場面においても、「ふるまいかた」による相互交流を再現するために敢えてミスリーディングを誘うなど、プレイヤーの目的により様々な場合が考えられます。ただし、いかに詳細に具体的に印象的に情報を提示するかという取り組みは(1)と共通しますので、「キャラクターの口調や仕草をプレイヤーが再現すること」は、この意味においても「演技に向けた意志決定」における重要な目標のひとつです。

(3) 場のテーマ(シーンテーマ)の構築

 自他問わず、ある場面における全ての「ふるまいかた」の積み重ねに対して、参加者は「葛藤」「滑稽」「憎悪」など、さらに具体的には「友情の提示、あるいはそれ以上の」とか「惨劇の予感、恐怖に抗う子供たちの心」といったテーマを意味付けることができます。このシーンテーマの構築は(2)と同様に自動的に行われますが、やはり同様に、より興味深いシーンテーマの追求に向けて、適切な情報伝達を目指して「演技に向けた意志決定」を遂行することができます。

 このとき、シーンテーマの追求には、「キャラクターの口調や仕草をプレイヤーが再現する」という情報の充実に向けた取り組みだけでは足りません。キャラクターとしての言動の描写に重ねて、シーンテーマの追求に向けたプレイヤーとしてのメタ・メッセージを伝達する必要があります。状況にもよりますが、例えば「君は馬鹿だな」という表現には、キャラクターとしての「でも嫌いではないよ」というメタ・メッセージがあり、同時にプレイヤーとしての「ここは誤解してみてくれないか」というメタ・メッセージも込めることができるのです。「演技に向けた意志決定」においては、このメタ・メッセージの操作と伝達も重要な目標のひとつです。

 このプレイヤーとしてのメタ・メッセージの伝達には、シーンテーマの構築に向けられた「ふるまいかた」の集合体の意味化の過程をプレイヤーが自覚し、その意味化のパターンを「ふるまいかた」の連鎖の「型」あるいは「定跡」として把握することが必要です。この「型」の把握が共通認識として成立していない状態では、プレイヤーとしてのメタ・メッセージを伝達するために、キャラクターの「ふるまいかた」を誇張して表現する必要があり(*8)、誇張表現自体が「ありかた」の構築を損なうというデメリットは無視できません。

 上記3点の意味化と構築の過程について、予測と検討を行い、その構築への干渉と操作を「演技に向けた意志決定の遂行」として追求することをロールプレイの主眼とするのがこのスタイルです。もちろん、「課題達成に向けた意志決定の遂行」をきちんと理解し実行していることが前提です。

 このスタイルで問題となるのは、干渉と操作のみを重視する姿勢です。対象となる認識を共通認識として具体化し干渉し操作することを重視するあまり、その対象となる認識自体を最初から共通認識として具体化しやすく操作しやすい形にパターン化して把握する、それは駆使すべき技法について向上の可能性を自ら閉じることに他なりません。ゲームとしてのテーブルトークRPGを維持するためには一定のパターン化が必要ですが、ゲームを容易にするためのパターン化まで無自覚に行うべきではありません。


(*8) [3.4] 消極的機能と積極的機能 (3)「型」の把握と再現 を参照。

[4.5] ストーリーを求めるスタイル (ストイック・ロールプレイング・スタイル) ▲

 私は「ふるまいかた」に対する参加者の認識と意味化の過程を3通りに分けて説明しましたが、実はまだあります。そのひとつが「ストーリー」の構築です。以下では、このストーリーの構築を目標とするスタイルについて説明します。

(4) ストーリーの構築

 自他問わず、セッション全体における全ての「ふるまいかた」の積み重ねに対して、参加者はそれぞれ「ストーリー」を構築することができます。ただし、このストーリーの構築には、セッションの参加者全員が守るべき厳しい制約が存在します。

 「ふるまいかた」の集合を意味化して「ストーリー」を構築するとき、私たちはキャラクターの視点からの「ふるまいかた」の一貫性を必要とします。これは例えば小説などで、「ああ、ここは作者が自分の都合で登場人物を操作したな」と思われるとき、せっかくのストーリー展開がどこか損なわれた気持ちになるのと同じことです。したがって、「ストーリー」の構築を求めるのであれば、全ての「ふるまいかた」にキャラクターとして十分な必然性を持たせなくてはなりません。これは非常に厳しい制約です。

 「ロールプレイング・ゲーム」において、プレイヤーは、キャラクターの「ありかた」に従い、そのキャラクターが直面している状況そのそれぞれにおいて、その取り得べき言動を検討することによって導き出された「ふるまいかた(型)」のうち、「目標」達成に向けて適切なものを選択し、提示します。このとき「目標」には、一般に、キャラクター自身の目標として追求しているものと、プレイヤー自身の目標として追求しているものが混在しています。そして、プレイヤーとしての目標を追求するために構築される「ふるまいかた」は、キャラクターとして十分な必然性を持つ「ふるまいかた」、すなわちキャラクターとして自然な「ふるまいかた」に背反するという危険性と常に隣り合わせなのです。

 通常、この背反は「キャラクターとしての自然なふるまいかた」の方を厳密には問題としないという手法によって解決されています。ゲームとしてのロールプレイにおいては、プレイヤーとしての目標のためにキャラクターの「ふるまいかた」を操作することがどうしても必要であり、そこでは一般に、「ふるまいかた」の提示はゲームのための手段として単純化構造化された「ありかた」から導き出される「ふるまいかた(型)」から逸脱しなければそれでよいとされます。すなわち、提示された「ふるまいかた」にキャラクターとしての必然性を最低限、多少強引でも意味付けることができれば、その「ふるまいかた」が実質的にはプレイヤーとしての目標を追求するための意志の表現であってもかまわないという暗黙の了解がそこでは成立しているのです。

 しかし、「ストーリー」の構築を求めるのであれば、この暗黙の了解を破棄しなくてはなりません。プレイヤーは全ての「ふるまいかた」にキャラクターとして十分な必然性を持たせる必要があります。言い方を変えれば、キャラクターとして十分な必然性を持つ「ふるまいかた」の範囲内で、自身の「目標」を追求しなくてはなりません。これには「課題達成に向けた意志決定」の遂行だけでなく、「演技に向けた意志決定の遂行」も当然に含まれます。「資源管理の構築」も「ありかたの構築」も「シーンテーマの構築」もすべてこの制約の範囲内で遂行しなくてはなりません。これは本当に厳しい制約です。

 ストーリー構築を操作したいプレイヤーは、「ふるまいかた」の流れを読み、後の完成形として存在し得るストーリーを予測し、自らがあるべきだと思われるストーリーへと展開を導くことを目指して介入することになります。このとき、介入の方法には2通りあります。プレイヤー発言によりストーリー展開を操作する場合と、「ふるまいかた」の提示によって操作する場合です。

 前者の場合、例えばマスターの予定するストーリー展開を予測した上で、「本当はこうするべきなんだろうけど、それはこれこれの理由で難しい。むしろこうしたらどうだろう」といった趣旨の発言をしたり、あるいはプレイヤー同士でストーリー展開を睨んで今後の行動方針を話し合うなど、「ふるまいかた」の提示による資源管理以外の局面で、プレイヤー発言としてストーリー展開を操作・調整することになります。このような資源管理(諸条件の操作)以外の局面でなされるプレイヤー発言は、ストーリー構築に向けた「ふるまいかた」の意味化においては意図的に無視されるのでそのこと自体には問題はありません。ただし、プレイヤー発言によるキャラクターの行動方針の決定について、キャラクターの「ふるまいかた」による理由付けが可能であることが必要です。これが不可能だと、キャラクター視点からの「ふるまいかた」の一貫性が担保されません。

 後者の場合、「ふるまいかた」の提示による資源管理の局面において、ストーリーの構築に向けた操作を行うことになりますが、このときプレイヤーは、キャラクターとして十分に必然的な「ふるまいかた」の提示という制約を真剣に遵守しなくてはなりません。展開操作というプレイヤーとしての目標のために提出された「ふるまいかた」については、それが実際に展開を左右するだけの意義を有していればいるほど、ストーリー構築に向けた意味化の過程において参加者の意識の焦点となり、したがってキャラクターとして十分に必然的な「ふるまいかた」であるか否かの検討の対象に自然となってしまうのです。そこでは、一度提示した「ふるまいかた」について参加者の察しのよい無関心を期待することすらできません。

 このスタイルについて問題となるのは、意図的にストーリーを構築しようとすればするほど、キャラクターとして十分に必然的な「ふるまいかた」から乖離し、結果として形だけのストーリーを作ってしまいがちになるということです。意図的なストーリーの構築を求めることにより、キャラクターの「ありかた」からかけ離れた「ふるまいかた」の提示を行ってしまい(あるいは他の参加者にもこれを要請し)、結果として本来であれば成立していたかもしれないストーリーの構築自体を決定的に損なってしまう。これは悲劇です。

 ストーリーの構築を目指すのであれば、まずキャラクターとして十分に必然的な「ふるまいかた」を常に提示できるようになることです。その上で、ストーリー展開を左右するほどの優れた決断、あるいは愚かな決断を、キャラクターの「ありかた」に対する真摯な洞察を通じて引きだすことが必要です。自分の操作するキャラクターの「ありかた」と「ふるまいかた」に対する真剣な取り組みなくして、ストーリーを求めることはできません。

 実はこのスタイルには、もっと重要な、スタイルの根幹に関わる問題が存在します。セッションにおいて、上記の制約をクリアしてストーリーの構築を操作できるようになったとしましょう。「ふるまいかた」は全てキャラクターの必然を維持して提示されたものであり、そこにプレイヤーの意志は露出していないとします。しかし、ストーリーを操作したプレイヤー自身は、自分が操作したことを知っています。いかに興味深いストーリーを構築し得たとしても、プレイヤー自身は「自分の都合で登場人物を操作した」という感覚から逃れられません。ストーリーの構築に向けた意味化の過程を自覚し追求したが故に、自身を生きたストーリーから疎外してしまう。この悲劇を解消する方法はあるのでしょうか。

[4.6] 物語を求めるスタイル ▲

 「自分の都合で登場人物を操作した」、この感覚を否定するためのスタイルは、2通りあります。簡単に書くとそれは、「自分の都合」で操作することを否定するスタイルと、登場人物を「操作する」ことを否定するスタイルとなります。以下、それぞれについて検討してみましょう。

[4.6.1] 「自分の都合」で操作することを否定するスタイル (リアル・ロールプレイング・スタイル) ▲

(1) 目標の組替

 このスタイルではまず、「自分の都合で登場人物を操作した」、この感覚を否定するために、ロールプレイの遂行から「自分の都合」を除外することを目指します。具体的には、資源管理(条件操作)の遂行局面において、キャラクターの目標となし得ないプレイヤーに固有の目標の追求を、「ふるまいかた」の構築に織り込むことを否定することになります。ストーリーを求めるスタイルにおいては、キャラクターとして自然な「ふるまいかた」であれば、そこにプレイヤーとしての目標の追求に向けた意志が含まれていてもよいという暗黙の了解がありましたが、ここではそれすらも破棄しなくてはなりません。

 誤解されやすいのですが、キャラクターの目標となし得ないプレイヤーに固有の目標を「ふるまいかた」の構築において追求しないということは、「課題達成に向けた意志決定」を否定すること、すなわちプレイヤーによる「ゲーム」を放棄することとイコールではありません。簡単に述べれば、構造化パターン化された「ありかた」と「ふるまいかた」を用いて、プレイヤーとしての検討と価値判断によって追求される従来の「課題達成に向けた意志決定」を、キャラクターとしての認識と動機と価値判断をもって追求するべき意志決定へと組み替えなくてはならないということなのです。同時に、プレイヤーは、その認識や動機や価値判断を「演技に向けた意志決定」によって他の参加者に伝達し共有しなくてはなりません。

 例えば、「クトゥルフの呼び声」には、システム的な要請として狂気を廻る資源管理を再現するというプレイヤーレベルの目標があります。このスタイルでは、この目標の追求を、キャラクターとしての必然に置き換えることになります。一例を挙げれば、なぜかしら狂気というものに(それはもちろん畏れというものはあるけれどもそのさらに裏側に)親しみを憶えてしまう自己のありかたに対する懐疑と、その懐疑ゆえの経験による意味付けへの隠された望みといった形でキャラクターとしての必然に組替えることができるでしょう。そしてこの「懐疑」や「望み」は、それ自体が管理すべき「資源」であり、意志決定を評価の対象とするための「ありかた」の一部です。プレイヤーは、「演技に向けた意志決定」による「ふるまいかた」の提示によって、これらを他の参加者に伝達しなくてはなりません。これらは、状況によっては、シーンテーマやストーリーの転換点の構成要素ともなり得ます。

 このスタイルを指向するプレイヤーは、従来プレイヤーレベルの目標とされていたものを、ロールプレイによる資源管理の遂行局面において、全てキャラクターの必然として再構成することになります。シナリオプロットの遂行や、他の初心者プレイヤーの補佐、セッションの安定的な維持といったことについても、プレイヤーがそれを自己の目標として自覚したのであれば、そのような目標の追求についても全てキャラクターとしての必然を付与しなくてはなりません。このような組替えを行い得ない場合、プレイヤーは目標の追求とこのスタイルの維持とを比較して、どちらを放棄するかを選択しなくてはなりません。

(2) 「ありかた」の再構築

 「目標の組替え」は、「ありかた」の取り扱いにも影響を与えます。私は、[3.3] 手順と留意点 (4)において、「プレイヤーが自身の構築した「ありかた」を再構築すること」と、(6)において「目標を追求するために、それまでに提示された「ふるまいかた」を他の参加者が意味化することによって構築された「ありかた」を改変すること」について、その目的によってはこれを否定する見解もあると書きました。このスタイルでは、キャラクターとしての必然をもって追求されるべき意志決定に組み替えることのできない目標のために、簡単に言えばプレイヤーとしての都合のために、「ありかた」を操作することは否定されます。

 また、プレイヤーによる「ありかた」の構築おいても厳しい制約が課されます。従来のゲームとしてのロールプレイの遂行においては、ゲームとしてのロールプレイを容易に成立せしめるために、プレイヤーが構築するべき「ありかた」は、共通認識として具体化しやすく操作しやすい構造化パターン化された簡便なものでよいという暗黙の了解が存在していました。

 しかし、課題達成に向けた意志決定において資源管理に全てキャラクターとしての必然を求めるとき、この種の簡便な「ありかた」ではその必然性を理由付けることができません。そこでは、セッションにおいて管理すべき資源について、キャラクター自身がその管理の必要性を認識し、自身の動機と価値判断をもってこれを追求するべきであると判断した上で実際の管理を行っているという必然性を「ふるまいかた」の表現に付与し得る「ありかた」の構築、あるいは再構築が必要なのです。もう少し噛み砕いて書くと、資源管理において「目標」として要請される特定の資源配置については、キャラクターの直面する諸条件とキャラクター自身の「ありかた」から、その資源配置を目標とする理由を説明できなくてはならない、ということです。

 このような「ありかた」を、プレイヤーがセッションの最初から構築し準備しておくのは実質上不可能です。したがって実際には、セッションの冒頭の段階では、プレイヤーは「ありかた」の構築について、キャラクターの目的意識、規範意識、自己認識などのうちキャラクターの言動に特に強く干渉するものを規定しておくにとどめ、資源管理の遂行の過程において提示される「ふるまいかた」そのそれぞれについて要請されるキャラクターとしての必然性を、その都度さも最初から存在したかのように「ありかた」に組み込み、従前の「ありかた」との整合性を保ちながらその再構築を繰り返すことになります。

 このとき、整合性が保たれている限りにおいて、客観的にはともかくプレイヤーの主観としては、恣意的にキャラクター(の「ありかた」)を操作したことにはなりません。現実のセッションの場では、資源管理の遂行それ自体はプレイヤーの目標ではなく義務として認識され、プレイヤーは自らに割り振られたその資源管理を遂行するために、義務の履行の一環としてキャラクターの「ありかた」の再構築を行うからです。時としてプレイヤーは、まるでキャラクターからの要請によって、あるべき「ありかた」に気が付かされたかの如く感じることすらあります。

 余談ですが、そこには、ストーリー性の要請とキャラクター彫琢の要請を結び付け、時に背反する両者の両立と相乗効果を意図するという面白さがあります。資源管理が義務として感得されている限りにおいて、「ありかた」の再構築をゲームとして自己目的化してもかまいません。

 この「ありかた」の再構築は、セッションを通じていつも完遂できるとは限りません。それぞれの「ふるまいかた」の提示について要請されるキャラクターとしての必然性を、その都度、さも最初から存在したかのように「ありかた」に組み込んで再構築を繰り返す過程において、要請される資源管理によっては極端な必然性を設定しなくてはならない場合があります。そのような「ありかた」の設定自体がリアリティを破壊したり、シナリオ展開に障害となったりして、セッションを成功させるために自己矛盾を承知で「ありかた」を変更しなくてはならない場合は多々あります。実際このスタイルは、狙って成功できるほど確実性のあるものではありません。

(3) 物語の体験

 以上の意味での「目標の組替え」と「ありかたの再構築」を導入することによって、ロールプレイによる資源管理は、全てキャラクターとしての必然から提出された「ふるまいかた」により進行します。そこでは、「ストーリーの構築に向けたふるまいかたの意味化」において問題となる「プレイヤーの都合によるキャラクターの操作」は全て排除されています。それどころかプレイヤーは、資源管理に向けて一貫して要請されるキャラクターの思考と振る舞いの流れ全てを、キャラクターの視点から体験することが可能です。このときプレイヤーは、客観的なストーリーを感得することのみに留まらず、キャラクターとしてひとつの主観的な「物語」を体験することになります。確かに、このスタイルに取り組むきっかけは、自然なストーリーの感得を可能とするためにプレイヤーの都合によるキャラクター操作を排除することでしたが、このスタイルにおいて目指すべきの究極の目的は、この「物語」の体験といってよいと思います。

[4.6.2] 登場人物を「操作する」ことを否定するスタイル (メタ・ロールプレイング・スタイル) ▲

 実は、上記のスタイルでは取り扱うことのできない資源管理が存在します。それは、「ファンタジー」を主題とする資源管理です。

 ファンタジーとは、寿朗氏の定義によると、もはや理では解決できない心のギャップを埋めなくてはならない時に働く情の力のことです。

(1) 「目標の組替え」と「ありかたの再構築

 ロールプレイにおいて「ファンタジー」を主題とする資源管理を遂行することを要請された(あるいは自ら求めた)プレイヤーは、その資源管理の必然を、「心のギャップを埋めなくてならない」という要素をもつキャラクターの「ありかた」を構築し提示することによって担保しなくてはなりません。これは、「ファンタジー」の追求を、プレイヤーに固有の目標からキャラクターの必然へ組み替えるためです。ここまでは、[4.6.1]のスタイルと共通します。

 [4.6.1]では、このような「ありかた」の構築をセッション当初から行うことは実質上不可能であり、セッション途中で実際に要求された資源管理そのそれぞれについて、その必然性を説明し得る「ありかた」をその都度再構築すればよいとしました。しかし実はそれは、再構築の過程において要求される「ありかた」のあるべき形について、資源管理の必然性を「理」によって説明できる程度の「ありかた」であればそれでよいという暗黙の了解を導入することに他なりません。そこでは、プレイヤーが構築するべき「ありかた」は、資源管理の必然性を説明できる程度の「ありかた」、すなわち必然性の検討という要請から生じたすでに構造化パターン化された「ありかた」なのです。

 しかし、「ファンタジー」を主題とする資源管理においては、「もはや理では解決できない」資源管理までもをキャラクターの必然とする「ありかた」の構築が必要です。プレイヤーは、セッション途中で実際に要求された資源管理に対して、その必然性は示し得るが、必然性の検討という過程を通じて構造化パターン化された「ありかた」ではないものを提示する必要があります。言い方を変えれば、それは「心のギャップ」を具体化(構築)していく過程です。

 しかし実際に、このような「ありかた」の構築は可能なのでしょうか。プロの俳優でも監督でも脚本家でもない私たちが、全くの無からそこまでの心の形を作り上げることができるとはとても思えません。理想は理想として、現実的には私たち自身の心の形を雛型に、「心のギャップ」を具体化していくことになるでしょう。この時、プレイヤーは、キャラクターという仮面をかぶった登場人物そのものとして「ファンタジー」に直面し、自身の「ありかた」を基準に「心のギャップ」を具体化しなくてはなりません。

 そもそも、ロールプレイにおいては、ゲームとしての意志決定の遂行を容易にするために、構造化パターン化された「ありかた」がプレイヤーによって構築されます。しかし、<[3.4] 消極的機能と積極的機能 (4)リアリティ>で書いたように、そのような不完全な「ありかた」では対応しきれない資源管理については、構造化されていない部分について自身の「ありかた」を代用しているのです。このスタイルにおいては、ゲームとしての客観性を維持するために通常は意図的に無視されているこの代用を、資源管理の方法として積極的に使用することになります。

 ここで、プレイヤーは「ファンタジー」を主題としない資源管理において必要とされる従来の意味での「ありかた」の構築も同時並行的に進める必要があります。「ファンタジー」を主題としない資源管理をセッションの場から全て排除することは不可能だからです。プレイヤーは、この意味でのキャラクターとしての「ありかた」と、「ファンタジー」に向けたプレイヤーとしての「ありかた」を矛盾なく結び付け、最終的にひとつの「ありかた」を構築しなくてはなりません。したがって「ファンタジー」を主題とする資源管理が要請されるセッションにおいては、前者の「ありかた」について、自身のそれと重なり合わない設定をすることは、ロールプレイを破綻させることになります。

 このスタイルを追求するプレイヤーは、資源管理の遂行において、キャラクターの「ありかた」とプレイヤーの「ありかた」の境界線を意図的に崩し、両者を融合させた「ありかた」に基づいたキャラクター/プレイヤーとして、課題に臨み、理解し葛藤し決断することになります。それはプレイヤーによるキャラクターの操作という従来の枠組みを否定することです。また同時に、プレイヤーは、キャラクター/プレイヤーとして資源管理を遂行する自分と、プレイヤー発言などによりその他の局面において管理を行う自分とを区別して両者を制御しなくてはなりません。そこではプレイヤーは、両者のプレイヤーを制御しセッション進行を管理するメタ・プレイヤーであることが必要です。

(2) 物語の体験

 [4.6.1]では、プレイヤーはロールプレイによる資源管理の過程を全てキャラクターの視点から体験することができました。しかしこのスタイルでは、キャラクターの視点とプレイヤーの視点との間に明白な境界線がありません。「ありかた」の共有範囲をどの程度に設定したかにもよりますが、プレイヤーは、資源管理に向けて一貫して要請されるキャラクターの思考と振る舞いの流れを、自分自身の思考の流れと振る舞いとして再構成することが可能です。そのときプレイヤーは、自身が「物語」の一部となり、同時に「物語」を創ったかのように感じるはずです。

(3) 問題点

 このスタイルはプレイヤーとキャラクターの「ありかた」を融合させる必要があるために、同じ「ファンタジー」という名前がついていても、例えばいわゆる西洋ファンタジー世界などで、自分とは異質な「ありかた」を操作することで疑似体験を得ようとするシステムやセッションにおいてこれを用いることはできません。またそもそも、「ファンタジー」を主題とする資源管理を扱わないセッションにおいては、このスタイルを用いる必然性自体がほとんどありません。人間の心の機微の取り扱いに特化した深みのあるスタイルですが、それゆえに、非常に適用範囲の狭いスタイルでもあります。

[5] 最後に ▲

 映画や小説などにおいては、資源管理による「ふるまいかた」の提示は、作者にのみ許された特権です。そして私たちは、提示された「ふるまいかた」を意味化することで、「資源変動」「ありかた」「シーンテーマ」「ストーリー」「物語」についてそれぞれ構築を行い、作者の提示したかったであろう「それ」を感得したつもりになります。しかし実際には、作者の意図したそれと、私たちが感得した「それ」が同一であるという保証はどこにもありません。私たちは「ふるまいかた」の意味化によって構築された「それ」に魅了されたり、あるいは凡庸な「それ」を構築せざるを得ない「ふるまいかた」の提示を行う作者の未熟を非難することはできます。しかし、それは独り遊びにも似た孤独な作業です。

 テーブルトークRPGには、この各人個別の意味化を擦り合わせ、共通認識を得る悦びがあります。また、「ふるまいかた」のやりとりによって、共同作業としてのこれらの構築に向けて相手と自分が本当に意志を交わしているという実感には、また格別なものがあります。私は、この悦びを得るための「演技に向けた意志決定」を「アート」として大切なものだと考えます。

 同時に、「課題達成に向けた意志決定」という「ゲーム」において、プレイヤー間で技量の限りを尽くして戦うこと、ゲームマスターやプレイヤーと展開操作の主導権を争うこと、キャラクターとしてより良く生きること、あるいは単純に発狂したり裏切ったり殺されたり殺したりすること、そしてプレイヤーとして笑ったり怒ったり悲しんだり愛を得たりまたそれを失ったりすることさえも(いや、最後のふたつは経験したことがないけれども)、とても楽しく大切なものだと考えます。

 冒頭のコスティキャン氏の言葉によれば、「ゲーム」は「アート」でもあるのですから、両者がお互いを高めあう、そんな関係が築ければよいなと思います。

 願わくば、全てのプレイヤーが少しでも多くの楽しみを、テーブルトーク・ロールプレイング・ゲームから得ることができますように。

They're All Alike Under the Dice. Or Phosphors. Or What Have You.
――Greg Costikyan

And...

We're All Alike Under the Dice. Or Phosphors. Or What Have You.


ロールプレイについての考察
Copyright (c) 2002,2004 俵ねずみ

初出:2002年2月1日 ロールプレイング・ゲーム研究会公式メーリングリスト (3月1日連載終了)
Web掲載:2002年11月25日
最終更新:2004年11月12日



[Appendix] 回転運動と相互作用 ▲

 テーブルトーク・ロールプレイング・ゲームにおける意志決定とは、ロールプレイの遂行のことである。正確には、ロールという資源管理の際の制約を設定し、これに従って実際に資源管理を行う(キャラクターの言動を決定し提示する)ことを、意志決定を生ぜしめるためのフォームとして採用したゲームのことを、テーブルトーク・ロールプレイング・ゲームと定義する。

 これは、解決すべき課題を前に、ロールという制約に従うことによって「葛藤」を生じさせ、ロールの構築、再構築、あるいは具体的場面におけるプレイヤーによる解釈の過程によって「責任」を生じさせ、ロールに従った言動の提示によってそのロールを参加者で共有することによって「アカウンタビリティ」を生じさせることで、意志決定を成立せしめるものである。  このような基盤となる意志決定(ロール・プレイング)が行われている限りにおいて、他にメタ目標を導入することは自由である。

 キャラクタープレイとは多義的な概念であるが、テーブルトーク・ロールプレイング・ゲームにおける意志決定(ロールの遂行)の一環として定義することは可能である。すなわち、キャラクタープレイとは、以下の概念のうち[挑戦③]を指すものとする。[挑戦②]を含めることもある。


(1)プレイヤー本人によるロールの想定(原型の構築)

    ↓

(2)他プレイヤーのロール・プレイングとの「相互作用」の追求
     →[前提]ロールの相互作用を、イマジナリー・ゲームボード(観念上のゲーム要素)として把握する。

     →[挑戦①]提示された課題(複合的でありうる)を解決するために、自分の従うロールを解釈し、優れた意志決定を引き出す。

     →[挑戦②]衝突の演出、共感の演出、魅了の演出など、シーンテーマの創造・提示への挑戦。

     →[挑戦③]適切かつ迅速な共通認識を形成するために、適切かつ迅速な情報伝達の技法を追求する。この共通認識の形成については、通常、対立構造の中で他者の認識を自己に有利な形に操作すること(を競合者と争うこと)、称賛に値するパフォーマンスの実現(間の操作などによる舞台空間の支配)、など、別途プレイヤー個人の目的が追加され追求される。

    ↓

(3)変化あるいは具体化した他者のイメージを自身のロールに組み入れる(ロールの再構築)

(1)から(3)というプレイヤー自身が制御するロールの具体化・修正・変化を「回転運動」と観念する。

 私は、ゲームの成立を支える「責任」要素の一環として、ロールの可塑性が意識されるべきではないかと思っています。一度設定されたロールは固定であり、プレイヤーはそれに従うだけでよい、とするのであれば、意志決定の構成要素である「責任」について、最初にそのロールを決定し採用したのはそのプレイヤー自身なのだから責任を感じなさい、という消極的意義しかありません。

 しかし、ゲームマスターとプレイヤー自身が、テーマとするべき資源管理そのものを想定し具体化していく中で、その資源管理にそのキャラクターが直面するべき必然性を示すべきであるとするならば、相互作用によるロールの可塑的な具体化・再構築は必須です。正確には順番が逆で、ロール・プレイングにおいて、ロールの可塑性についてプレイヤーが自覚的に関与することにより、更なる「ゲーム」あるいは「アートとしての交流」を引き出すものが、アドバンストなロールプレイであると考えます。

 設定群をゲーム性に変換するためには、十分にゲーム性を有する(あるいは魅力的な)資源配置(完成形として目標とされるべき資源配置に至りうる資源配置)をゲームマスターとプレイヤーの共同作業として構築することが必要です。そこで要請される資源配置を構成する資源の重要かつ不可欠なひとつとして、その資源配置(シーンテーマ)が必然としてその場に立ち現れてくる理由として、プレイヤー(とゲームマスター)がその従うべきロールを適切に再構成し具体化してその場(ボード)に提供することが、つまりは設定群をゲーム性に変換することであると考えます。

 このとき、プレイヤーは、ロールの可塑性について「自由度」を観念することもできます。でも、初期ロールという「制約」の下から出発して、そのロールを資源管理の必然という要請を受けて具体化していくことは、一定の目標に向けて、選択(葛藤)し、構築(責任)し、提示する(アカウンタビリティ)すること――意志決定――そのものであって、むしろ制限的であると感じます。

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