帰属意識を分離する兵器としての「変貌するテキスト」
フンフン波大学生の書く文章って劣化した内向の世代みたいな作品しかない。具体的には寝て、起きて、食べて、何かが来てまたは何かを忘れていることに気付いて(ノ∀`)アチャーみたいな日記文しかない。あとはジュブナイル崩れみたいなガールミーツ作品とか。ダメライフ同好会が嫌いだ。千差万別のダメライフを当事者みづから差別する試みであるので。みんな違ってみんなダメである。自己盗用ははたから見ると滑稽だと思う。しかし舞台装置として使うのは面白い可能性がある。
最近読んであった本に書いてあった一節を引用してみる。
この文章が『ライズ民間警察機構ーテレポートされざる者ー完全版』フィリップKディックから着想を得ていることは全くない。
無尽蔵の傷み
クリストファー・ノーランの映画は面白いが何も残らない。是枝さんの映画も面白いが何も残らない。ポン・ジュノの映画も面白いが何も残らない。多分これはそれらが本当に「何も残らない」映画なのではなく自分に何もないゆえにただそれらを貪って消化することもできないだけだという事実。ノスタルジアでないと人が動かせない、ということが存在する。超現実だけ見るのも現実の模倣だけを見るのも結果は同じで、現実感の乖離及び無気力性パーソナリティ障害を誘発する。ここで実際に提唱されるのは超現実と現実の模倣が本来は同一のものだという仮説である。超現実作品は、本質的に、想像の近未来に即した作品すなわち人間の想像力の模倣である。その点を考慮すれば前述の仮説も立証されうるだろう。だが、この仮説が立証されたとして、いったい我々はどうすれば良いのだろう?
コントロール不可能な自意識で切りつけあうコミュニケーションが大学生なのだとしたら、僕は大学をやめるべきだったと思う。
流動体、上へ
サカナクションの「月の現~Rearrenge works~」が山口一郎の近年のパッとしなさ具合に反して非常にいい作品だった。本人の(一郎のせいでは無いが)孤立につながる、良くないことが次々とあったのが良かったのだろうか?ホーリーダンスRemixで石野卓球への羨望を1ミリも隠さず出してきたのが凄く良かった。
好きだった音楽の記憶
ねえ 思い出の欠片に
名前をつけて保存 するなら
宝物がぴったりだね
高校のときに好きだった音楽、大学に入ったあとで好きになった音楽。大学2年生の時によく聴いていた音楽は気づいたときには、1年生になってからよく聴いている音楽と全く異なっていた。私はYouTubeで音楽を聴くのが趣味である。高校の頃は恥ずかしながらサブスクサービスに1年を通して登録する金がなく、もっぱらTSUTAYAでCDを借りてダビングしてwalkmanに移したものか、そうでなければ広告さえ見れば無料で見れるYouTubeの動画で聴くという音楽の聴き方をしていたのであった。大学に入学して、ある程度少なくないお金を自分で使えるようになった。すぐに大学の学生料金がきくSpotifyに入り、今現在で1年以上は契約を続けている。こうした事もあって、音楽の聴き方が高校から大学で大きく変わった。YouTubeとたまに音楽プレーヤー、からSpotifyへ。しかし、YouTubeで音楽を聴くことは今でも続けている。YouTubeで音楽を聴く、という行為は、とても刹那的な営みだ。そもそも、音楽を聴くという行為自体が刹那的だということもあるが、YouTube鑑賞というのはそれにもましてさらに瞬間的で、儚い。1日に何本も動画を見る人にとって、YouTubeの履歴というのはせいぜい1週間前くらいしか辿れないものである。MP3プレーヤーやCDで聴くのとは違って、一度聴いた音楽の情報が手元に残るのはほんの僅かな期間だけだ。アプリの機能では、履歴はある程度昔まで残っているだろうが、実際には永くない期間で自分が聴いていた音楽のデータというのは自分のもとから居なくなってしまうだろう。YouTube鑑賞というのは、ラジオや優先などの受動的なリスニングとは逆の、能動的なリスニングの中で最も儚い音楽の聴き方だ。また、サブスクサービスもそうである。履歴は一定期間を経ると消去されてしまう。音楽を創る術は進化し、それと同時に音楽を聴く術も便利になったが、しかし一方で、これまで以上に、音楽を聴く、ということが刹那的な行為になってきたのだと考えさせられた。それは便利でありながら、どこか虚しい。
申し訳ないが、僕はけいおん!は知りません
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