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大学を辞め、二浪で青学に合格した私の波乱万丈な受験ストーリー

まずは、なぜ私が二浪することになったかの経緯についてお話していきたいと思います。

1, 二浪して青学に入学した経緯

エピソードは高校時代に戻ります。

私は元々高校入学時からアメリカの大学でファッション・芸術を学びたいという思いがあり、
国際高校へと入学しました。

しかし、アメリカの大学は費用が高い。

それに加え、(ADHDの特徴でもありますが)好奇心が旺盛すぎるあまりやりたいことがコロコロ変わる私を見て、出した親の条件は

日本の大学に2年在籍し、そこからアメリカの大学に編入することでした。

しかし、
ずっとアメリカの大学に行きたいと思っていた自分は、この条件をなかなか受け入れられませんでした。

正直後ろ向きな気持ちも引きずりながら
GPAとエッセイを提出し、
アメリカの大学の日本校に合格。

語学プログラムのコースからスタートすることになりました。

しかし、やはり学校の雰囲気が合わず、
それに加え毎日の課題のせいで自由にやりたいことができないというストレスで徐々に抑うつ状態になり、学校に行けなくなっていきます。

大学で単位を落とし、このままじゃ学位も取れないし人生腐るな…と思った私は、

何か大きく変わるきっかけを求めていました。

そうして、
ずっと行きたかったアメリカ(ニューヨーク周辺)の大学のキャンパスツアーに参加するべく、

2022年冬、18歳の時にアメリカ一人旅を決行します。(こういう突拍子のないことをするのが私です^^)

結局アメリカの大学(ニューヨーク周辺)
をいくつか回って思ったことは、

アメリカの大学も良いけれど

・私は日本の大学で課題に追われず時間がたっぷりある中で自分の好きなことをやりたい
・日本の人の方がおしゃれな人が多いから日本でファッションを学びたい
・まずは日本で下積みの経験や実績を積んでから海外でチャレンジしたい

ということでした。

刺激に溢れたニューヨーク旅行で
陽(yo!)のエネルギーを浴びまくったニューヨーク旅でした。

そこから帰りの飛行機の便で見たエルヴィスプレースリーのドキュメンタリーにも背中を押され、

やりたいことをする人生を生きる!
日本の大学を受験する!

と自分のダイアリーに書いたのを覚えています笑

2, ニューヨーク一人旅→一浪目

この時、2022年12月7日に約1週間のニューヨーク旅行から帰ってきた私は、
日本の大学を受けたいとなかなか親に言い出せずにいました。

しかし、忘れもしない1月3日、
ようやく親に言い出した際に受験を応援してくれたおかげで、英語のみの受験ができる大学を急ピッチで探すことになります。

共通テストはもう終わってしまっており、
英語のみで試験を受けられるところは限られていましたが、その中に憧れていた青山学院大学の、英米文学科がありました。

英語のみで受けられる英米文学科のB方式は、
帰国子女も落ちる/東大のリスニングより難しいと言われるほど難易度が高く、1教科のみの分倍率も高いと言われています。

しかし、私は英語だけはできるという自信は少なからずあったため、
1ヶ月の勉強で受かれるならなんでもやってやろう!と青学英文単願で勉強することを決意します。

そこから1月6日にネットでおすすめされていた参考書を買い込み、死にものぐるいで勉強を開始します。

本番は2月14日。

受験をやったことのなかった私は
受験の厳しさを知らず、元々英語ができるということにかまけ、最初の2週間は8時間ほどの勉強で満足していました。

しかし、絶対に前の大学に戻りたくなかった私は
最後の2、3週間あたりで自分のヤバさを認識し、
そこから目を開けてから寝るまで、全ての時間を英語の勉強に費やしました。

この時の生活は、朝9〜11時に起き、夜中の3〜4時まで勉強していました。18時間くらい勉強していたと思います。家族と話す時間も惜しく、誰とも会話せず、お風呂も日数を空けて入っていました…(本当に良くないです、お風呂はメンタルにかなり影響すると個人的に思っています)

最後あたりは
不安と焦りでかなり怒りっぽくなり、
集中しすぎるあまり常に頭が割れんばかりに痛くなり、平衡感覚を失う状態にまでなっていました。

結果は不合格。
正直、自分的に1ヶ月の勉強で受験受かったら伝説ものだなと思っていましたが、

そりゃあ一年必死で頑張っていた受験生と比べたら勉強時間も努力も意気込みも圧倒的に違うので、落ちるのは当然だ、と落胆しつつも納得しました。

親にはもう一年受験してもいいよ、と言葉をかけてもらっていましたが、
18時間勉強はあまりにも辛かったため、
もうこれ以上自分を追い込みたくない、勉強したくないという気持ちの方が勝っていました。

結果、3月は現実逃避して遊びまくっていました。

3, 不合格・失恋からの二浪時代突入

二浪目が始まり、
4月から河合塾での勉強が始まりました。実はそのタイミングで、前の大学の人との失恋を経験し、人間不信に陥ります。

どうしていつも私の人生はこうもアップダウンが激しいんでしょうか…

それはともかく、二浪目+ちゃんと浪人するなら早慶を目指した方が良いかな…と甘い考えのもと、河合塾の早慶を目指す人のクラスを受けることになります。

最初の模試で英語が偏差値66だったため、1番上のクラスになってしまいます。

しかし、高校が単位制で、英語ばかり取ってきた私はまるで国語ができませんでした。

久しぶりに見る縦の文章に驚き、『能動』レベルの簡単な言葉も含め、ほとんどの語彙がわかりませんでした。

失恋や人間不信も引きずり、
5月辺りまでマスクをつけることで上手く泣くのをごましながら授業を受けていましたが、

この辺りから徐々に、1番上のクラスにいる周りの生徒たちとの学力の差に気づき、焦りを感じ始めました。

みんなと全く違うバックグラウンドを持ち、
あまりにも教科ごとの学力にギャップがあったため、個別塾に移行することを検討し始めたのはこの頃でした。

行動力とフットワークが軽すぎる私は6月、
約1週間で塾を変えることを決めました。

今考えると、
この決断は正直間違っていたと思います。

次の塾は、大学生が講師となり、スケジュールを管理するタイプの塾でした。

合わなかった原因を挙げると、
①講師も同じくらいの歳だったため、仲良くなりすぎた。

②ADHDで気が散りやすい私は、
決められたことに従って行うことやスケジュール通り行うことが苦手で、結果自信喪失へと繋がった。

③これまで国際高校、アメリカの大学(日本校)と比較的オープンな環境にいた自分にとって、
受験業界が掲げる『受験界の偏差値高い方が偉い!』という考えがどうしても受け入れることが出来なかった。

④発達障害を持った私の特性に合った柔軟なやり方ができなかった

⑤個別塾だったため、他の生徒の動向が分かりづらく危機感を感じづらかった

…などなどです。

批判を覚悟でこの文章を書いているのですが、

二浪と現役で比較される言葉を沢山目にし、
これまでの生き方も自分自身についても、
本当に全てにおいて自信を失った受験期でした。

結局、
そういった受験へのストレスや自分自身の甘えもあり、全く勉強が出来ませんでした。

特にきつかったのは、学部や大学によってその人の価値を図るような考えを目にしたこと。

これまで私は社会的な評価より、自分が何をしたくて、何を人生で成し遂げたいかということに重視して生きてきました。

しかし、受験期に某youtubeチャンネルで学歴の良い人や学部で差別する考えを目にし、

自分がアートやファッション・エンタメの業界に行きたいと思うことが、塾の講師から見て馬鹿馬鹿しく見えるのではないかと思うようになりました。

秋・冬に入っていくと
そうした周りの声が徐々に大きく聞こえてきて、
二浪という言葉が徐々に鎖のように重くのしかかりました。

特に1,2月は本当に病んでしまい、
世界史のみ参考書を少し開く程度でずっと寝込んでいました。

受験日もかなり減らし、精神安定剤を飲んで号泣して受験会場から帰る日々…

しかし、英語が出来たことと共通テストで運良く得点が取れた私は、奇跡的に青山学院大学に合格しました。

4, 入学から5ヶ月…当時を振り返って感じること

青学に合格した際、正直
私はもっといけたんじゃないかと思ってしまった自分がいました。

全く勉強しなかった自分が悪いし、この結果も本当に夢のように恵まれたものなのですが、

学歴思考に毒され二浪×Marchというものが周りより劣ったものに感じ、完全に自信を失ってしまっていたからです。

しかし、今になって思うのは、
青学が一番私に合っていたということです。

私はもともと勉強がしたいと思って生きてきたというよりは、幼い頃から芸術(高校以降はファッションも)業界で働くことを志していました。

そのため、まさにファッションの最先端の地である表参道に通い、好きなことを学べる環境は本当に刺激的で、毎日ときめいています笑

あの時勉強が手につかず苦しかった思い出も、
なかなか自分が理解されずに苦しんだことも、
自信喪失したことも全て、

自分に合った環境で本来の自分を取り戻したことにより、癒えていきました。

正直なところ大学当初は、
早慶上智や上位国立大の人と自分を比べ、
学歴が高い人の多くがなりたいと思うような権威のある大手企業に就かなければ!と焦っていました。

私はADHDの特性上、本能的に刺激を求めてしまう傾向があります。

就職説明会に参加したり、インカレやサークルに入ったり…色んなことにチャレンジしていくうちに、

私はやっぱり、
これまでのようにワクワクを軸にして、
その時に一番したいことをするクリエイティブな生き方の方が合っている、と気づきました。

受験のような計画的に理性的に物事を進めることはてんで苦手なのですが、
一方で行動力にはある程度自信があります。

勉強が得意な人は受験勉強で稼ぎ、
私は今からの大学時代でこの行動力を活かして
沢山の経験と実績をつければいい。

私しか描けない私のストーリーを生み出していこう!と前向きに考えられるようになりました。

様々な学生や大人と出会っていって、
自分の生き方を再び肯定できるようになった今
思うことは、これしか価値がない、というものは人生に存在しないこと。

私たちは幸せになるために生きているんだから、自分にとって価値があるものを基準にした上で、
自らの幸せを見つけていくべきだと思うのです。

私は幼い頃から自分のやりたいことをしていきたい、と思い続けてきました。

しかし受験期も含め、これまでにも何度か、
『生きるために好きなことを我慢しなければならない』という声をかけられました。

そう言われてもなお、
やっぱり私は夢を叶える人でありたい。
やりたいこと・好きなことで生きる人生をおくりたい。

以前記事に書きましたが、自分の武器は好きなことと強く結びついていると思います。

その行動や挑戦の先に結果はついてくるし、
自分が望み続ける限り、行動し続ける限り道は尽きない。

もし無理だったとしてもその経験はなんらかの時に役立ちます。

だから、もし何か今やりたいことがある人はぜひ挑戦してみて下さい。いつか人生が拓けるときが来るかもしれないから。

受験の葛藤をある程度乗り越えた今だからこそ、
書ける言葉があるのではないかと思い、

苦しかった受験期を思い返して
赤裸々に綴ってみました。

皆さんになんらかのポジティブなエネルギーを届けられていたら嬉しいです。

読んで頂きありがとうございました📝











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