【楽園の噂話】Vol.28 「メカニズム 前編 : 堕ちていく安心感と、道連れの心;説明」(No.209)



 ダイエット食品のまとめ買いや、スポーツクラブへの入会、日々の作業を継続して求めてくるハウツー本や資格取得までを丸ごと取り入れた通信教育などなど…


これさえやっていれば大丈夫、といった大がかりな話に人は乗っかりたくなるものです。


その魅力は、まるで自動運転の車やエスカレーターや電車のように、黙って乗っていれば勝手に良い結果を得られると思わせてくれるところにあります。
またそんな触れ込みに人は弱くて、興味を覚えてしまうものです。


それはまるで、子猫やヒヨコが近くにいる大きな生き物に取り合えずヨチヨチと付いていく姿にとても似ていると思います。


しかしただ付いて行く子猫やヒヨコ達には、その大きな生き物が何者で、一体どこへ自分たちを連れて行くのかはわかりません。


自分たちを悪い道へ引きずり込む悪人かもしれません。
または生き物ですらないかも知れないのです。



世の中には子猫やヒヨコとは違う大きな存在がおり、それは常に誰かを探しています


それは決して珍しくはありません。

子供の時分からそれはとっくに「されて」います。
教師はどの子供がどれくらい言うことを聞くのか? または、どの子ならどんなことが出来るのかを見ており、クラス委員に選んだり生徒会長に選んだりします。


社会に出ればそれは当然に行われます。面接で伝えた希望の部署へ配属されないとしても、それは雇う側の判断です。彼らは自分たちの希望する働きの出来る人物を探しているのですし、就職の面接などはそもそも自分からその判断をお願いしに行くものでもあります。


しかしそれとは別に、自分が願っていない存在たちも、私たちを常に探して「値踏み」をしています。


求めてもいない存在が、私たちを誘ってくることがあるのです。


学校でも、友人やクラスメイトから遊びの誘いがあります。
学校側からも、催しやボランティア活動の誘いもあります。


クラブ活動の誘いもあります。サークルの誘いも、直接は知らない人からのイベントや飲み会の誘いもあります。


外へ出れば、ネットを見れば、テレビを見れば、そこは誘いの山です。
広告や芸人、タレントのステルス・マーケティングなどなど切りがありません。


そして社会に出れば、社内でも同様の誘いがあります。
社会人だとその誘いの厳しさがより強まり、断りづらくなってきます。クラスメイトやサークル程度ならともかく、上司や得意先、同僚や関係者など、人間関係の複雑さと信頼関係の大切さは学生の比ではありません。
それ故に少しづつ「飲み会程度なら・・・」と、その誘いを妥協して受け入れていってしまうものです。


しかしそれでも、お金や権利を巡るものとなると当然飲み会とは違いますから丁重に断るでしょう。


ですがすぐにその誘いは、断ることで脅迫へと姿を変えるのです。


選挙の依頼、宗教の勧誘、新聞や雑誌の購読、健康食品の定期購入など、明らかに特定の存在への利益となる行為には誰だって拒否反応を持ちますし、その組織の危険性は多くが耳にしているものです。


初めは飲み会程度ということで多少の誘いは受け入れてきた人が、その後に来る大きな誘いを断ると果たしてどうなるでしょうか?


それは、それまでの小さな誘いも来なくなります。


一見良いことのように感じますが、これが罠です
つまりそれが村八分を意味することにやがて気づき出すのです。


あからさまな誘いが無くなるのは結構ですが、彼らと職場内でよそよそしい距離感が感じられるようになります。


そのうちにまた新しい人が職場に入職し、その新しい人があっさりと飲み込まれてしまった時、あなたは大変な疎外感を感じ、居心地の悪さを知ってしまうのです。


それは職場の数人の人間だけで行われたものであったとしても、誘いを断り村八分を経験した人には、人生の大部分に苦しさとして影響を与えてしまいます。


その疎外感はその人の悩みとなり、その悩みの種は職場の一部だけだったはずが、だんだん職場全体に感じるようになり、やがては起きてから寝るまで、そして平日全てになり、ついには人生のすべてがその苦痛で支配されたように感じるのです。


ですから無関係に思えるトラブルですら、その問題と紐づけて考えてしまい心身ともに疲弊してゆくのです。


磁石に吸い付く砂鉄のように、断りの行為を核として人生の不幸や苦痛がまとめられていく感覚に囚われ心身が消耗していき、耐えられなくなったところで、遂にはその誘いに乗り飲まれてしまうのです。


決してその誘いの内容が素晴らしいからでは無いのです。


その行為から作り出される脅しから解放されたいという思いからなのです。


つまり暴力であり争いです。そしてそれに負けたのです。


苦痛に喘ぎ、苦しみ悩むそのときの本人には、誘ってくる者たちや、その上にいる大きい存在がどうしてこうも執拗に自分を誘って来るのかは分かっていません。


「どうしてこんなに嫌がっているのに、こんなに嫌な思いをさせているのに辞めてくれないのか?」


疲弊した心で怒りに満ちた疑問を浮かべながらも、でもこの苦しみが消えていくのならそれで良い、と考え藁をも掴む思いですがるようにその誘いを受け入れてしまうのです。


そうすると、それまで平日ずっと苦しく苦痛であった生活の全てが、休日さえ鬱々としていた人生が一気に軽やかになり、安堵やよろこびを覚えるようになります。


人によっては涙も辞さないでしょう。


自分の中のわだかまりや悩みが無くなり、気がつくと自分自身も、かつて不気味に思えた誘いを繰り返す同僚や上司と同じようなイビツな笑顔を浮かべるようになっています。


そして、


「なんだ、これほど楽になれるのならもっと早く飲まれれば良かった」


と、思うようになるのです。


ですがそのうちに、今度は自分が大きい存在の指示によって、苦痛から解放された高揚感を引き連れながら誘う側となり、声をかけるようになるのです。


そして、ここからが本当の苦痛の始まりなのです。


この誘う行為の結果は、日を追うごとに少しづつ高く求められるようになります。
そしてそれと並行して、初めのころにあった高揚感や喜びは目減りしていくのです。


大きい存在に飲まれたことにより得られた解放感はすぐに失われ、新たな苦痛や悩みが生まれます。


しかし今度の悩みや苦痛は決して解決しません


何故なら、その大きい存在こそが苦痛の種だからです




後編へつづく

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