【楽園の噂話】 Vol.22 「ドーナツは踊る」(No.0189)

 以前から責任については、いや子供の頃から責任については考えていた。

何かイタズラや悪いことをして問題となっても、当人である子供の私には何もなく、周りがガヤガヤと騒いでいる感じがとても不快だった。

私に直接言ってくれ、と思ったりした。悪気があったわけではないときなどは特に強く思った。


子供なのだからその問題に対して責任を取れない以上、確かに周りが騒ぐしかないのもわかるが、本人の言葉や気持ちをまるで汲み取ってもくれないうえ、本質的なことを迂回している物言いも嫌だった。


何か大事なことであるほどに、そうやって本質を避けた物言いや態度になるのだ。


取り分け大人になる度にそうなっていく。

確かに成長した分だけその責任は大きくなるのだから、その分だけ腰の引けた物言いになるのも解らなくはない。


シュワちゃんの「アフターマス」でも、飛行機事故を招いた張本人には、社長や上司も直接は怒鳴りつけたり激怒したりはせず、むしろ庇っていた。

あれほどの事故だから、誰だって背負いきれる訳はない。それは社長も同じである。

その事故の悲惨さを想像も出来ないのだ。
考えたくもないのだから、その当事者の責任に触れたくなんてない。


それはよく分かる。


でもだからって無視して良いわけじゃない。
家族を失ったシュワちゃんの苦しみは、どうなるか。
結局は誰も謝らないという形になり、悲惨な事件になってしまう。


責任の果てに、無人島生活や自給自足生活があると思うが、そこには別の魅力は確かにあるものの、本質的にこれで責任の問題が解決した訳ではない。

大の男だって、たった1人で暮らすことは大変難しく容易なことではない。場合によってはすぐ死ぬ。

背負いきれるだけの責任までが生きることの権利だとしたら、女性や子供にまでこの過酷な暮らしをさせることになる。


これは愚かしい話だ。
自分で消費するものを自分で作れ、という自己責任論めいた考えで人間が生きていくことなんで出来ない。

水や家や食料を自分で作る?
馬鹿馬鹿しい。なら空気も作れるのか。

どんな男であろうと、それこそ「コナン・ザ・グレート」の頃のシュワちゃんだって出来やしない。

どんな人だって本当に弱いんだ。1ミリの出来物ひとつで苦しみ嘆くのが人間だ。

はなから自分を育て、自分を生かすものは自分の中になんて無い。
徹底的に頼って生きているのが人間だ。


迂回された責任の所在に対する愚かしい振る舞いは、根本的な本質に絶対に触れないぞ、というバカな人達の頑固さが踊っているのだ。


【楽園の噂話】 Vol.22


「ドーナツは踊る」(No.0189)


おわり


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