【特別公開】物語論(ナラトロジー)で「私」という物語を探る 1 ≪本論1-1 小説・物語の冒頭には欠落がないと始まらない≫
次代のプロ作家を育てるオンラインサロン"「私」物語化計画"の本編がスタートした。第1章は『物語論(ナラトロジー)で「私」という物語を探る』。今回のテーマは『本論1-1 小説・物語の冒頭には欠落がないと始まらない』だ。
Webサイト上にテキストの冒頭部分が特別公開されている。以下、主催の山川健一さんによる講義の概要動画とWebサイトのリンクを貼った。まずは、この2つをチェックした上で、わたしの感想を読んでいただければと思う。
以下、この講義を読んでの、わたし個人の感想だ。
わたしの感想
それは、すべての物語は「欠落」「欠如」があるからこそ始まるということだ。あるいは「禁止」でもいい。これは物語論(ナラトロジー)の基本で、ウラジミール・プロップやジョセフ・キャンベルをはじめ、多くの研究者が指摘していることだ。
特別公開:物語論(ナラトロジー)で「私」という物語を探る1 山川健一 より
https://yamakawa.etcetc.jp/lecture1-1/
たしかに、そうかも。
それが、わたしの感想だ。
まっさきに思い出したのが、村上春樹「風の歌を聴け」の冒頭だった。あまりにも有名な一節だ。
「完璧な文章などといったものは存在しない。完璧な絶望が存在しないようにね。」
「欠落」や「欠如」の逆が「完璧」であるなら、文章(小説)なんて「欠落」や「欠如」だらけなんだよと言っているようにも聞こえる。喩えにつかわれている絶望は、おそらくキェルケゴールの「死に至る病」を指しているんだろうけど。
これまでに読んだ、日本の小説でもっとも好きでもっとも影響を受けた村上龍「コインロッカー・ベイビーズ」にも「欠落」や「欠如」が存在していた。冒頭は主人公キクが母親にコインロッカーへ捨てられるシーンだった。「コインロッカー・ベイビーズ」は、ざっくり言ってしまえば、生まれたときから「欠落」や「欠如」を背負わされた主人公たちが、それを埋めようとする物語だ。
その他にも、いろいろな小説の冒頭に「欠落」や「欠如」がないかどうか思い出してみた。たしかに、ある。純文学でなくても、SF、ファンタジー、歴史、現代ドラマなどなど。どのようなジャンルであっても、たしかに「欠落」や「欠如」が存在している。それは映画でもTVドラマでもマンガでも同様だ。
まあ、ニンゲンを題材にしている限り、これはしかたがないことなのかも。ニンゲンが完璧な存在ではないからね。逆にいえば、完璧ではない存在だからこそ、物語が誕生した。そう言ってもいいのでは?
と思ったりする。
講義テキスト中に出てくる名前。ウラジーミル・プロップとジョセフ・キャンベル。どちらも読んだことがなかった。
「昔話の形態学」のほうが興味を引くけれど、絶版になっているようで中古でも値段が高い。紹介文にはこのような文面が。
構造言語学におけるソシュール『講義』にも比すべき位置をもつ記号学の第1の古典。
『講義』って、「一般言語学講義」のことだよね。昔に読みかけて、その解説本の段階で断念したわ。ソシュール関連の本は何冊か買ったのだけどね。もう一度、読み直してみようかな?
2019年の幕が開けて、"「私」物語化計画"の本編が始まった。いきなりの濃い内容に少しばかりのめまいが。ひさしぶりに脳みそを動かしたのでくらくらする。とても嬉しいめまいだ。このあと、講義のテキストがどこに向かっていくのか、楽しみ、楽しみ。
Text:Atsushi Yoshikawa
(注)感想はあくまでも、わたし個人の感想です。決して、"「私」物語化計画"の講義に対する正答や正解ではありません。
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