シャルトルへ行きました。①

一、不幸ドミノ

 今思えば、一連の不幸が始まったのは三年前のことだ。あのときのことはよく覚えている。出汁のきいた姉の雑煮を啜りながら、「さっちゃん、今年何歳になるん?」「お姉ちゃんの五つ下や」という、毎年繰り返される姉との遣り取りがあった。そのあとだ。
「あら、さっちゃん、あんた今年厄年よ」
 と、姉は取引先の寺社から貰った厄年表を早紀子の横にポンと置いて「ほら」と指さした。伸びのよい丸餅を箸で引きながら横目で見ると確かに三十六、数え年で三十七歳というのは、女の本厄とあった。
「そんなの迷信やん。大丈夫よ」
 と笑い飛ばしながらも、毛筆で書かれた「厄」という文字が妙に脳裏に残った。そのあと、初詣で引いたおみくじは大凶。東京に戻る飛行機は欠航となり、大急ぎで新幹線に切り換え岡山から三時間半立ちっぱなしで帰った。
 思えば、あのときの姉の「厄年宣言」をもって、不幸ドミノのコマは押さ れたのだ。

 次にドミノのコマが倒されたのはバレンタインデーのことだった。
「サキはいい女だよ。ほんと。でもさ、もういい歳だろ? オレ、ダメだ、結婚。どうしてもイメージが湧かない」
 血の気が引くとはあの時のことである。「今回は指輪をくれるのかな。プロポーズもあったりして」と期待していた。それなのにこうきた。「女のくせにバレンタインに物を貰おう」なんて図々しいと思われるかもしれないが、前年のこの日、仲野はペンダントをくれたのだ。あのとき、丸い目をさらに丸くして驚く私に、
「そんな顔すると、サキ、ほんとバンビみたいだな」
 と目を細くし、
「あのね、アメリカではバレンタインズ・デーっていうのは男性が女性にプレゼントする日なんだよ」
 と照れくさそうに「言い訳」をした。久々に男からアクセサリーを貰って、私も陶然となった。その後、誕生日にはこのペンダントと対のブレスレットを貰った。誕生日の直ぐ後にクリスマスがあり、「今度はリングかな」、と期待したのだが、それは外されてボッテガ・ベネガのミニ財布を貰った。「サキ好みのピンクだったから」と言葉が添えられたが、出張先のデューティーフリーで買った財布など興味なかった。
「もっと特別なものが欲しかったの」
 と上目遣いでサインを送ると、
「わかった、わかった」
 と仲野は私の頭をポンポンと撫でるよう叩いて笑った。でもあの時、仲野は「わかった」と言った。笑いながら、だったけれど、言ったのだ。だから今度こそリングを貰えると信じていた。バレンタイン当日は髪も気合いを入れて巻き、いつも着けているエルメスのシルバー・リングも外して挑んだのだ。それなのに。
「サキは早く結婚した方がいい。子どもも今なら間に合うし。オレなんかで時間潰すな」
 呆然としている私の両腕を、仲野はテーブル越しに軽く掴み、
「大丈夫だよな?」
 と覗き込む。額にはうっすら汗が滲んでいた。焦っているのか、ラウンジの暖房が効き過ぎていたのか。でも私はショックで暑いどころではない。奥歯はかちかちと小刻みに音を立てていた。
「何だか寒い。ほら、指がこんな冷たいの」
 と裸の手指を仲野に差し出す。温めて欲しかった。仲野は一瞬私を見つめた。が、直ぐに視線を外した。仕方ないから、私は氷のように冷たくなった指先を、右手で左手のを、左手で右手のを、代わりばんこに包んでは温めた。窓の外では、海浜公園の向こうに見えるレインボーブリッジがピンク色に光っていた。

 不幸のドミノ倒し、その次にきたのはコロナ禍だ。新型ウィルスは既に年明けから話題になっており、一月末には武漢より邦人を退避させるためチャーター便が出されていた。幸い私はその便にはアサインされなかったこともあって、あの時点ではコロナの恐ろしさを認識していなかった。こんな大惨事に至るとは誰が思ったことだろう。
 そう、私は最も打撃を受けた業界の一つ、航空業界に身を置いている。乗務歴延べ十七年のCA(キャビンアテンダント)だ。こんな予定ではなかった。大学出てCAになった時は、何年か働いたら結婚して、そのあとのことはその時考えよう、と安易に考えていたのだ。だが肝心の結婚のチャンスが思うように訪れず、気づくとベテランCAとなっていた。コロナ禍が始まった年はマネジメント職を目指して社内の等級試験を受ける予定でいた。
 だがコロナ禍の火ぶたが切られると全てがストップした。いや、ストップどころではない。カオスの渦に突き落とされた。組織再編があり、狙っていたポストが消えた。年収も大幅に減った。減便に継ぐ減便で乗務できず、会社に言われるがままに彼方此方に駆り出された。ミシンを踏み踏みマスクも縫ったし、アルコール消毒液を片手に、空港内をスプレーして回ったこともある。
 コロナ禍が二年目に入ると、ついに長期帰休を迫られた。どうしようか、と悩んだ。乗務への情熱などなかったが、長期帰休に応じてしまうと、もう客室部に戻れない、という噂が流れていた。子会社や外へ出向させられるらしい。それは勘弁して欲しかった。何しろ大学出てからこの仕事しかしたことがないのだから。
 それで、思い切って家業に入ろうか、と考えたのだ。実家は代々続く和菓子屋を営んでいた。父が亡くなった後、屋号は姉と義兄が継いでいた。近年は店舗数も増やし健闘しているというが、姉は何かと義兄に良いようにされているところがある。取り敢えず会社は二年ほど休職することにして、姉を助けてあげるのも悪くない。そんな青写真を頭に岡山に帰った。実は厄年宣言されたあの正月以来、岡山に帰らせて貰えなかった。
「田舎だから東京から誰か来ると色々言われるのよ、コロナ菌持って帰ってくる、とか」
 と姉が私が戻ってくるのを嫌がったのだ。
 だが本当の理由はそれではなかった。二年ぶりに帰省すると、家業は経営不振で倒産するほかない状態に追い込まれていた。元々ギリギリのところで回していることは知っていたが、そこにコロナ禍が来て持ち堪えることができなくなっていた。よもやあんなに負債を抱えていたとは。清算のために、私も貯金からかなりの額を出させられた。
 結婚するつもりでいたのに仲野に振られ、仕事は見通しがつかない、その上実家と貯金という二つのセーフティーネットも消えた。だがパンデミックは続いている。もし感染したら、もし重篤化したら、もし解雇されたら、もしーー。夜中に目が覚めると無数の「もし」が頭の中を駆け巡り、眠れなくなった。そのうちには胸もバクバクし出したので、かかりつけの医者にいつもの睡眠サプリを貰いにいくと、「いや、それは軽いパニック障害でしょう」と抗不安薬を出された。気が強く、根アカなキャラでメンヘラとは縁がない私が、パニック障害だなんて、ショックだった。
 それでも何とか息を繋いで新年を迎えた。コロナ禍はようやく収束の気配を見せており、徐々に便数も増えてきている。それに合わせて私も乗務に復帰させて貰えた。そこでも諸々の問題はあるのだが、トンネルの向こうに薄明かりが見えてきたと胸を撫で下ろしていたところだった。

 そこに、だ。

 まだ現実を受け止められない。ドミノ倒しにまだ続きがあったとは。頭は停止したまま身体だけが動いているようだ。だがそれでいい。今はとにかく仕事だ。今の私には泣き崩れて倒れるという選択肢はないのだから。

つづく

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