見出し画像

ベルサイユへ行きました。⑧

負けたよ、負けた

 少し歩くことにした。太陽は先ほどより高いが、木陰にいれば十分涼しい。ハートの形の葉が繁るこの木は何という名なのだろう。芳しい香りが漂う。
 歩きながら、エリと私は喋り続けた。やがて、「王妃のゲート」にたどり着いたので、そこから出て、ベルサイユ市の旧市街に入った。それでも二人の口は休むことを知らなかった。
 時折、樹齢重ねた巨木や、宮廷貴族の館跡に気づくと、「わぁ」「すごーい」と声を上げるのだが、少しすると、再び「あの時の話、あの人の話」に戻る。時を巻き戻したようなベルサイユの街は、昔話に耽るにはぴったりなのかもしれない。
 古い話が一段落すると、話題は現代(いま)に近づく。それに合わせるように、私達の足取りも、振り出しのプラタナス並木のアーチまで戻ってきた。ここを抜けると駅だ。目の端でそれを確認しながらも、話題は尽きない。途中ベンチに腰掛け喋り続ける。コロナの対応、客室部のゴシップ、エリの子どものこと、日本の福祉について、そして、私の母のこと。

「ようちゃんのお母様、ご自分のことで一杯なんだろうね」
 日の陰は濃く、秋が近くまで来ていることを感じる。エリはサングラスが邪魔になったのか、額の上に乗せた。
「ようちゃんもそれを感じたから、お母様が安心して過ごせる施設に入れてあげたんでしょ? つらい決断だったね」
 そうなのだ。今の母は娘でなくてもよい、助けてくれる人なら誰でもよいのだ。だから施設に入れた。その方が母も安心すると思った。親戚すら理解してくれなかったのに、エリはどうしてそれが分かったのだろう。
「家の売却も、そのお金を、今後お母様に何かあった時のために取っておきたかったんでしょう? 今は、家が売れない時代だもんね、先手を打ったようちゃんは賢い!」
 エリの言葉で、家を現金にしておいた方がよいのでは、と漠然と感じていた理由がはっきりした。
 エリは、ベンチから立ち上がりながら、踏み込んだことをさらっと言ってのけた。
「これでお母様との関係も整頓できたんじゃない? 私、ずっと気になってたんだ。ようちゃん、お母様に縛られてるなぁ、可哀相だなぁって」
 さすがにこれはカチンときた。
「やだ、エリ。相変わらず上から目線」
 だが、エリはそれには反応せずに、優しく微笑むと、サングラスをかけ直し、私から視線を逸らすように、ゆっくりと歩き出した。私もそれで、自分が涙を流していることに気づいた。エリから顔を背け、ハンカチで涙を拭った。
「でも、周りの人達に色々言われたでしょ」
 と、頃合いを見計らってエリは話を継いだ。
「私もさ、羽村と離婚する時は、病んでいる夫を見捨てるのか! って大ブーイングだったもん。羽村の鬱の原因が、私の存在や子供の障害にあると知っていたから離れてあげたのにさ。田舎だともっとすごいでしょう。あ、宇都宮は田舎じゃないけど・・・・・・」
 私も、これについては言いたいことがたくさんあった。
「ううん、田舎よ、田舎。私もねーー」
 エリとなら、幾らでも喋っていられた。まるで、あの頃のように。二人で暮らしていた、あの頃のように。

←前の章

つづき→

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?