ベルサイユへ行きました。⑦

幸せって何よ

 王妃の離宮、プティ・トリアノンに辿り着いた。宮殿からずいぶん歩いたと思う。気がつくと、一帯は田園風景に変わっていた。エレガントな宮殿庭園の中に羊が群れる牧場があるというのも酔狂な感じだが、これはマリー・アントワネットが造らせたそうだ。
 併設されているサロン・ド・テのテラス席に落ち着くことにした。歩いていると汗ばむが、パラソルの下に腰を降ろすと涼しく感じる。欧州の夏は空気が軽い。正午を過ぎていたので、エリはチーズやハム類がふんだんに盛られたカンパーニュ・サラダを、私はクロック・ムシューを頼んだ。
母の話をしたら何となく心が軽くなった。クロック・ムシューが美味しくて舌鼓を打つ。
「ようちゃん、大変だったね」
「ん、しょうがないよ」
 そう答えるとエリは軽く笑った。
「ーー私のことはもういいから。エリはどうしてんの」
 聞きたくないことはさっさと聞いてしまった方が楽だ。全てを聞いた後に、「幸せそうでよかった」と言えばいいのだろう。そのくらいの演技はできる。
「パリのどの辺に住んでるの?」
 覚悟を決めて尋問を始めた。
「羽村さん、お元気? お子さんは何人いるんだっけ。もう大きいでしょう」
 と一気に聞いた。エリは、ストローでアイスオレの氷を拾うのに忙しく、すぐには答えない。やがて氷を口に収めると、
「私、離婚したよ。もう十年は経つけど」
 と答えた。その怪訝な表情が、本当に知らなかったの? と問いかけている。そんな話は聞いていなかった。エリの話題は避けてきた。聞けばもやもやする自分を知っていたからだ。
「え、じゃ、一人でパリに住んでいるの?」
「ううん、川崎に住んでいる」
 思わず目をぱちくりさせながら、状況を理解しようと試みた。
「ふーん、そうなんだ。じゃ、今回は旅行か」
 エリの実家は、白金で造園業を営んでいる資産家だった。ビジネス・クラスで旅行もできるのだろう。
「ううん、仕事で来た」
 それで合点がいった。
「ああ、だからビジネス・クラスで」
「ううん、格安。今の時代、ビジネスのチケットを出す会社なんてないよ。でもパリには仕事で結構往き来しているからなのか、アップグレードされた」
 そう言えば、昨日のエコノミー・クラスはオーバーブッキングだった。そのためビジネス・クラスに押し上げられた旅客が数名いた。
「へ、へえ。仕事って?」
「色々やってるんだけどね、フリーよ、フリー。今回は、フランスの福祉システムに関する取材」
 あのチャラチャラしたエリが福祉?
「随分堅いことやってるんだ」
「うん、下の子がちょっと障害があってね。それで私もそっち方面について調べたりしているうちに、記事を書いたり、シンポジウムをコーディネートするようになってさ」
 そういう仕事は低収入と聞くが、実家があるから大丈夫か。
「実家もね、あのあと、どんどん不景気になったでしょう? ようちゃんとシェアしたあのマンションも担保で取られちゃったし」
 エリは顔を歪めて笑った。エリのこんな表情は初めて見た。
 ジローの兄、羽村太郎とは、初めの頃はそれなりに上手くやっていたそうだ。
「だけど、ようちゃんに言われた通りだった」
「私、何か言ったっけ?」
「うん、『あんな真面目な人で、エリ、いいの? つまらなくなるよ。飽きちゃうよ』って。でね、ようちゃん正解。つまんないのよ、羽村。考え方とかも小さくて」
 そんなことを言ったのだろうか。覚えていなかった。
「失敗したなぁ、と思ってた矢先に、娘の障害が分かってね。そうしたら、羽村、思い詰めちゃって、鬱っていうか。それで別れた」
「へえ、へえ」
 障害、鬱、離婚ーー。私は、こんなバカみたいな相槌を打つほかなかった。
「ジローさんはどうしてるの?」
 ジローのことは聞かない、と心の中で決めていたのに、気づいたら問いかけている自分がいた。
「ジロちゃん? あの人は、例の改ざん問題で経産省を追いやられたじゃない?」
 私がよほど間抜けな顔をしたのだろう。
「ーーようちゃん、それも知らなかったの?」
「うん。改ざんのニュースは知ってるけど、あれってどういう事件だっけ。具体的なことがよく分からなかったんだ」
 テレビでニュースは見ているので新聞は取っていない。フライトがあるときには、機内で余ったものがあれば貰って読んでいるが。
「最近の大手メディアは、政権に都合の悪いニュースだと扱いが雑だもんね。でもネットでは実名も出ちゃったのよ」
 私は、ネットニュースは怪しいので見ないようにしていた。SNSの類いも恐いのでライン以外は使っていない。
「経産省辞めたあとはどうしているの?」
「外資のコンサルティング・ファームを渡り歩いていたんだけど、お酒が祟ってね。そう、アル中。リハビリしたみたいだけど」
 あまりの壮絶さに、もう相槌を打つことすら忘れた。確かにジローは留学時代も会う度にワインをボトル一本は飲み干していた。それでも酔うことはなかった。
「時折、『今、ペルーにいます』とか、『西端の街に来ました』なんて言うメールが来るから、元気なんだと思う。結婚? 知ってる限りでは一度もしてないけど。結婚はいいんだって。風来坊を気取っているんでしょ」
「あ」
 思わず声を漏らしてしまった。
 直感が走った。私と会っていた頃、ジローが恋していた人妻。あれはエリのことだ。当時は入籍前だったが、兄の婚約者は人妻も同然、と考えたのだろう。
「ーー手に負えない人だから」
「ん? 何それ」
 とエリは新しい氷を口に含みながら問い返す。
「ーー昔、エリに、ジローさんのことでそう言われた」
 エリもジローの想いに気づいていたのではないか。
「ハハハ。ようちゃんは私に、太郎は『真面目過ぎるから』とダメ出し、私はようちゃんに、次郎は真逆の理由でダメ出しをしてたんだ。笑える」
 エリはカラッと明るい笑い声を立てた。
 私は、しばし茫然とした。エリの笑い声が遠いところから聞こえるようだった。
 何ということだ。エリも、羽村兄弟も、そして傍らにいた私までも、運命に弄ばれたというのか。さっき、ジローのことはもう遠い昔のことだ、と片付いたふりをしたばかりだが、認める。私は、ジローのことがあってから、男というものが分からなくなった。ジロー以降、まともに付き合った人もいない。
 手に負えない人。
 エリ、アナタもその一人よ。もしジローの横恋慕の相手がエリだと分かっていたら、私もはじめから諦めていただろうに。だってエリには敵わない。そんなことは出会った時から分かっていた。だけど、私にもプライドがある。勝ち負けなんて線引きするような詰まらない人間ではない。そう思って頑張った。でも、ダメだった。そのうち、エリの笑い声を聴くと、自分の負けを擦り込まれているように感じられた。胃がねじれ、胸の中に濁ったものが上がってきた。エリと暮らした最後の方はそんな苦しさを耐え忍んだ。
 だから部屋を出たのだ。封筒には、家賃を日割りしたものと、短い手紙を入れた。「もうアナタの無神経さには耐えられない」。部屋のドアが閉じた時、胸がすーっとした。
 もう二度と会わないで済む、と思っていた。また会いたい、と思ったことは一度もなかった。あんな手紙を書いておいて、会えるわけないではないか。
 それがこうしてまた巡り会った。まるで人生ゲームのコマを動かすように、運命のサイコロが二人を再会させた。
 ふと、笑ってやれ、と思った。
 笑うしかない。笑ってやれ。大いに笑ってやれ。
 お互いずたずたじゃないか。私は、結婚もせず仕事一本、鬼となって働いてきた。それなのに職場では邪魔者扱いだ。もはや親もない同然で帰る家すらない。でもエリ、アナタだってきつそうよ。笑って誤魔化してもだめ、私にはわかる。口元の皺が、ふと見せる空っぽの瞳が、つらい、って言っているよ。
 それでも笑っている。二人して笑っている。本当、おかしすぎるよ。それなのに、なんで涙が滲むのよ。

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