シャルトルへ行きました。⑧

八、シャルトル大聖堂に入る。

「ここが入り口か」
 ようやくたどり着いた、という思いに駆られていた。前もって計画したわけでも、どうしても来たかった場所でもない。それなのにこの感慨深さは何? と思わず失笑を漏らしつつ、ガリバーが通るために作られたような背の高い二重ドアを両手で押し開け、足を踏み入れる。
 聖堂内は晩秋の淡い陽射しが照らし込み、イメージしていたよりずっと明るい。光が降り注ぐ中を数歩進み、あらためて聖堂を見渡す。すーっと息を吸い込むと、鼻孔を通る空気が冷たくて、何か神聖なものを身体の中に入れたような気持ちになった。太陽に雲がかかると、聖堂内もふーっと暗くなるが、その薄暗さすらも美しい。太陽と雲の動きがステンドグラスを通してオーロラのようにゆっくりと降りてくる。その光に釣られるように前へ踏み出した。が、数歩進んだところで、自分が歩いている通路はいわゆるバージンロードだということに気がつき、慌てて右脇の椅子の列に飛び込む。もちろん、そんな遠慮は不要だ。バージンロードも普段はただの通路。実際、私の脇をジーンズ姿の観光客が通り過ぎていくではないか。

 バージンロードーー仲野と歩くことを夢にみていた。ふと付き合っていた頃、仲野と「結婚論」を交わしたことを思い出す。仲野は物事を小難しく考えるところがあり、時折そういう「議論」を好んだ。あの時、仲野は結婚というシステムがよくわからない、と言っていた。今思えば、結婚する気がないと匂わせていたのかもしれない。
「愛情で繋がった人を法的に縛るっていうのが結婚だよね。 それって何か違わないか」
と仲野は言っていた。私は結婚について、そんな風に客観的に考えたことがなかった。だが私は口から先に生まれたような人間だ。あの時も結婚を否定するような仲野の言葉に警戒して、「法的に認識されることで社会にも認められるし、安定した関係になるのよ、子どものためにも安定って大切だし」とか、そんな言葉を並べて結婚のメリットを主張した。だが仲野は、
「う~ん、そうなのかもしれないけど、それだと愛と安定が入れ替わっちゃったみたいで、やっぱり分かんないんだよな」
と笑い、酎ハイを呷ってこの話は終わった。
 仲野は答えが見つかったのだろうか。だから結婚したのだろうか。

「バッカみたい」
 どうせ振られるのであれば、もっと正直に応えればよかった。「一人は嫌だから結婚したいのっ!」と。一人で不安な時に隣に誰かがいるとほっとする。頑張れる。だから結婚したいの。そう言ってしまえばよかった。
 長椅子に掛けることなく、むんずと立ち尽くしていたが、バージンロードに戻ることにした。反対脇から出てもよかったのだが、そうではなく、バージンロードを歩いてやる、と思ったのだ。一歩一歩踏みしめるように、しっかりと歩を確認しながら前に進んだ。結婚式ではこの道を父親と歩き、夫となる人に渡される。そこを私は一人で歩いた。最後まで歩いた。当たり前だが何のことはなかった。
 そのまま聖堂内の見学を続けた。それにしても広大だ。天井は、なるほど天にも届きそうに高く、その際までステンドグラスが埋め込まれている。何という精微さだ。ここのグラスは、中でもシャルトル・ブルーと呼ばれる青が美しいと聞いたがどれのことだろう。しばらく見上げながら探し歩くが首が凝ってきた。祭壇辺りで一旦立ち止まり、首を揉みながらあらためて全体を眺める。すると、身体が持ち上がったような気がした。天井の方を見上げていたせいか、自分も少しだけ上から「下界」を見ているように感じられたのだ。これもゴシック様式の為せる技なのだろう。ちょっとした錯覚なのだが。それでも心の眼の視点が変わるのか、目の前の光景が先ほどとは微妙に違って見える。

 気づくと薔薇窓の袂にいた。
「これがシャルトルの薔薇窓か」
なんと大きいのだろう。色とりどりで荘厳だ。薔薇窓の下部には三本のランセント窓が並ぶ。その青の美しいこと! あゝシャルトル・ブルーはこのことを言うのか。聖堂内が薄暗い分その青さが映えて、じっと眺めていると目が離せなくなる。
 どのくらいそうしていただろうか。近くの長椅子に呼ばれるように腰かけた。座ってみると膝の裏が喜んでいることに気づく。再び首や付け根の辺りを手で揉みながら、ぼんやり前方を眺めると、お祈りしている人達の背中が青・赤・黄と色のついた光で照らされていた。ステンドグラスを通すからそうなるのだろう。空中に浮かぶ埃も、光を受けてダイアモンドダストのように反射している。雲が動くと光も動く。まるで光の舞のようだ。
 こういう時間を持つのはいつ以来だろう。考えてみるが思い出せない。ずっと忙しかった。引きこもった生活をしていた癖に何を言っている、と苦笑いが浮かぶが本当のことだ。いつも頭の中は忙しかった。仲野のこと、実家のこと、仕事のこと、これからのこと。考えても答が見えず堂々巡りを繰り返していた。ため息を一つつき、うつむきかけた顔を上げて、再び光の動きを追う。
 すると雲間から太陽が覗いたのだろうか、光がカーテンのように降りてきた。余りの神々しさに心の中で感嘆の声を上げる。見上げる頬に、額に、光が当たる。なんて温かいのだろう。この温かさ、遠い昔に知っている。日向の匂いがする温かさ。
 幼い頃、布団を取り込むのは姉と私の仕事だった。取り込んだ布団にくるまって遊ぶ私を姉がたしなめるが、私はいうことを聞かない。姉は「こらっ」と叱るが目は笑っている。
 姉は優しいけれど弱い。五歳も上なのに、押し売りや隣の小うるさいオバサンが来ると、追い返すのはいつも私の役だった。姉は従順過ぎるのだ。母に良いように使われ、勝ち気で言うこと聞かない私の面倒をみさせられ、今は義兄に利用されている。昔から姉のようにはなりたくない、と思っていた。自分がなさ過ぎる。そんな人生、つまらないではないか。
 私は親にごり押しして地元の女子大に進学した。だが大学で得たのは「知」ではなく「賢」だ。健康な身体、そしてそこそこの頭とそこそこに愛らしいこの顔を最大限に生かせるのは何か。そう考えて日本空輪に志願した。上京し、訓練し、初フライトする。ニューヨークへ行く、パリにも、ロンドンにも行く。東京スゴイ、外国スゴイ。だが二、三年もすれば慣れてくる。それよりも旅ガラスの生活に身体も心が疲れてきた。私のように気が利くタイプは接客業に向いているが、一方で自分を擦り減らしてしまう。早く結婚しないと。この辺で人生のターニングポイントが欲しい。
 ーー一人芝居の舞台を観ているかのようだった。観客は私、スポットライトを浴びて演じるのも私だ。
 だがここからの道のりは観たくない。思わず顔を背け、目を伏せる。不毛な 道。紆余曲折の道。孤独な道。結婚相手も見つからず、仕事も周りに歩調合わせてきたが先行きは暗い。頑張って貯めた金は姉達に使われた。振り返りたいことなど一つもない。思わず両手に顔を埋める。
 すると、仲野の姿が瞼の裏に浮かんだ。シャルトル・ブルーのように澄んだ青い空。二人で上高地に行ったときの光景だ。仲野の奥目は私を見つめている。心臓が高鳴り痛い。指先を絡めると身体中が痺れた。あの瞬間、二人は繋がっていた。
 好きだった。あゝ悔しい。でも好きだった、わかっている、終わったんでしょ。さすがの私ももう分かったわよ。涙がわっと溢れる。大聖堂の片隅で、ハンカチで顔を覆う。誰かに見られているかもしれないと気になったが、どうしようもなかった。

 長いことそうしていた。
 ハンカチもすっかり濡れてしまったので、途中からティッシュに切り替えて三枚も使った。
 三枚目のときについでに鼻をかむと、それをきっかけにようやく涙も引いてきた。そのうちに息遣いも落ち着いてきた。
 ふと周りをみると、光のカーテンは消え、辺りは暗くなっていた。不思議と人の気配は感じられず、長椅子に一人ぽつんと残されていた。鼻を啜る落としか聞こえない。静かだった。真空のような静けさだった。この静けさに吸い込まれ、自分もその一部になったように感じた。それが心地良くて、再び瞼を閉じ静謐に身を委ねた。そのまま眠ってしまいそうだった。

 だがそういうわけにはいかない。皆を待たせていることだろう、いい加減にしないと迷惑もいいところだ。「よっこいしょ」と立ち上がる。すると、向こうの方でガイドツアーの一行が地下に向かう様子が見えた。若田や村上の顔も見える。まだツアーは終わっていないようだ。怪訝に思い時計を確認すると、待ち合わせまでまだ時間がある。随分長いこと泣いていたと思っていたが、実際には十分程度のことだったようだ。ほっとしたが同時に、首を傾げずにいられなかった。三十分、いや一時間くらい泣いていたと思ったのだが。いずれにせよ、もうここは出よう。すべきことは済ませたのだから、と考え、直ぐに「すべきことって何のことよ」と自分に突っ込む。何もかもが腑に落ちない。狐につままれたようだ。そもそも何で私はシャルトルにいるのだ? いやいや、それは片山に誘われたからでーー。
 首を振る。もうそんなことはよい。それよりも、と、献金箱を目で探しピンクのミニ財布を開いてユーロ・コインを幾つか落とす。出る前には、ふと思い立って正面へ向き直ると、深くて長いお辞儀をした。

つづく

 

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