解放と神学の微風その4 〜ブラジル アマゾン〜


お気に入りのハンモックをバックパックにセットして、一週間かけてアマゾンの中心マナウスへ向かうアマゾン川を上る船旅が始まった。
船に乗り込むとまずどこにハンモックをぶら下げるかでその後の人間関係が形成されるので慎重に位置を決めてハンモックを吊り下げる。船旅の間だいたいはハンモックに揺られているか、食堂のテーブルに腰掛けているか、はたまた2階の広場で踊ったりマージャンのようなゲームかカードゲームをするかだ。
その頃私は旅の途中どこに行っても暇つぶしでスケッチをするようになっていた。まるで画家の卵気取りでいろいろなモチーフをスケッチしていた。子どもの頃から教会で女流日本画家の先生に絵を習っていたので、それなりに雰囲気を漂わせることができた。その先生は日本画で茶色いマリアを描くことを得意としていた。そして彼女の亡くなられたご主人はひまわりを描くことを得意としていた。彼女は私が美大に行くものだと思い、高校も後半に差し掛かるとアトリエに行く話をそれとなく切り出したりした。一方で美大に行かなくても素晴らしい画家はたくさんいるとも教えてくれた。とにかく絵を描き続けることを私に勧めてくれた。
一方で自分の父親は芸術家なんて職業はないという考えだった。また当時にしては兄弟姉妹が多かったので、アトリエなどの費用や美大進学の資金はあるはずもなかった。結果的に実家から歩いて通える国公立の商学部経済学科に入学した。通学は歩いて10分ほどで、一生のうちで一番短い通学時間だった。
なので南米で絵を描き続けるのは、少しその時のポッカリあいた心の穴を埋めるような行為でもあった。

船旅では乗客みんなで一緒に食事をした。毎回ふりかけのようなものが出てくるが、それは歯が欠けるほど硬かった。
船の上で食事を何度か繰り返すうちに、ある女系家族と仲良くなった。構成は母親と娘三人と姉二人とその子どもたちだった。
一番下の娘が面白がっていろいろ話しかけて来たが、どうやら私が慣れ親しんだ南の方のブラジル語と少し発音など違うようで、あまり聞き取れなかった。そこで話しかけてくる彼女をスケッチすることにした。彼女が話しかけてくるのを適当に頷き流しながらスケッチに没頭しているような感じで、その場はなんとなく成立した。
絵が完成すると彼女に見せてやった。彼女は喜んで母親や姉たちを呼んできてその絵を見せた。彼女はどちらかというとキツネ顔だったので、キツネっぽい吊り目で細長い顔になった。するとそれを見て彼女の家族はみな美しいと言った。そして彼女の姉も自分を描いて欲しいと言ってきた。彼女はどちらかと言えばタヌキ顔だった。なのでタヌキっぽい丸い垂れ目で丸い顔になった。完成すると彼女に見せてやった。すると彼女はちゃんと美しく描きなさいよと怒り出した。私には可愛らしく描けて見えていたのだが、どちらかと言うとブラジルではタヌキ顔よりキツネ顔の方が人気があるようだった。

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