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哲学と瞑想の川風〜インド プーナ〜


最初にインドを訪れたのは確か大学3年の春休み1992年頃だったと思う。その時はまず始めにボンベイ(今のムンバイ)の近くのプーナという所を訪れた。私の友人であり先輩であるカトリックの神学生がそのプーナにあるデノベリカレッジという神学校に留学していた。プーナにはサダナというアントニオ・デ・メロの作った霊性研究所もあった。彼はイエズス会の神学者で霊的指導者で東洋と西洋の霊性の融合について研究して紹介した人だった。有名な著書に「小鳥の歌」という本があり、私を含め多くの悩める若者が彼の著書に救われたことだろう。特に西洋の宗教的規制に苦悩していた若者にとっては金言が詰まっていた。自分が創造の踊りの一部である話やリンゴは自分で食べて味あわない限り本当の味は分からない話や、服に合わせて人を切るのではなく、人に合わせて服を着るべきという話などなど。
プーナには他に瞑想の指導者Oshoの拠点もありサニヤシン達も集まっていた。当時第二バチカン公会議以降パウロ6世やヨハネパウロ2世によりカトリックの指針としてOption for the poor(貧しい人、貧しさに開かれること)や他宗教との対話(対立より対話)が打ち出されていた。また聖霊の動きが自由であり南米の先住民族の価値観に対し無知であり、むしろキリストは先住民族の側に立っていたということで、南米の先住民族に対しての謝罪がおこなわれた。そんな中で日本でも東洋の霊性、土着の霊性ということが言われており日本のカトリックにおいても禅や瞑想などを取り入れたりする動きがあった。
キリスト教はかつて、ギリシア人でローマ市民であったパウロによってローマ帝国に広められたが、当時ローマ帝国はギリシア哲学の特にストア派が盛んであった。そして彼はキリスト教にストア派の哲学を取り入れていた。さらに2世紀後半のキリスト教が広がって行った時代はローマ帝国最盛期でもあった。この時の皇帝、五賢帝の5番目の皇帝マルクス・アウレリウス・アントニウスは、ストア派の哲学者でもあった。つまりキリスト教はギリシア哲学のストア派と共存しながら取り入れながら広がって行った。その過程でストイックな側面やプラトニックな側面を持たざるを得なかったのだろう。そうしてヨーロッパのキリスト教が日本に入って来たのだが、ジーザスの生き方、教えがそのままヨーロッパを通らず、ダイレクトに日本に入ってきたら違ったものになっていたかもしれない。

プーナはボンベイの隣であるが、ネパールから売られたり騙されたりして連れて来られて売春街で働かされている子も多く、そういった所に時間があると私の友人とネパール人の留学生は足を運んでいた。そこで話を聞いて、必要があれば必要な支援をしていた。まだ年端も行かないような幼い子ども達も手を握り合って震えながら立っていた。ヒンドゥー教のしきたりや考え方、土着の風習やシンジケートの影響もあり、難しい問題のようだ。タイのチェンマイで女の子が売られないように教育と技術を身につけさせるプロジェクトを尋ねてみたことがあったが、そこで聞いたのは、輪廻転生で女は男に使えてから男に生まれ変わって、それから成仏できるという考えがあるとのことだった。そのため女の子が男性に奉仕するという名目で簡単に売られてしまうとのことだった。風習や宗教の名の元の偏見や差別、ハラスメント等の社会悪もあり、解決しなければならないのはやまやまだが、根深い問題のようだ。やはり、男性の性欲をそのまま野放しにするのではなく、ある程度は鍛錬や修行により規制すべきか。或いは社会システムや法で規制すべきか、もしくは教育によってコントロールすべきか、一方でカトリックの聖職者やアイドルの養成者など少年愛好家などの社会悪もある。歪んだ性のエネルギーが変質的な形で放出されてしまうこともある。性欲のコントロールと解放は難しい課題であるが自然界ではどうなのだろうか?やはり自然のままが良いのだろうか。エネルギー問題のように自然再生エネルギーやクリーンエネルギーのように自然のままのエネルギーがやはり一番良いのだろうが、今や人間の社会構造やシステムそのものがそれでは賄い切れなくなっているのだろうか。
プーナを離れると、アジャンタやエローラ、アーグラ、タージマハル等の遺跡を訪ねたり、釈迦が悟りを開いた聖地ブッダガヤの菩提樹の下で瞑想したり、スジャータ村の木陰でボーッとしたり、お決まりのようにバラナシーのガンジス川で泳いだりした。岸に上がると川風が気持ち良かった。河岸では遺体を焼いて灰にして川に流していた。そのすぐ横でたくさんの人達が夕陽を浴びながら沐浴していた。川の流れは全てのものを飲み込み海へと流れ込み、全ては浄化されまた地に降り注ぐ!

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