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共感する心がこの世を平和にしたのかな?

私たちは日々、様々な人々と関わりながら生きています。時に喜びを分かち合い、時に悲しみに寄り添い、そして時に意見の相違に直面することもあります。そんな中で、人と人とがうまくいくためにはやはり「共感する力」が必要なんだろうと思ったりしてます。

Webであるコメントを目にする機会がありました。「ペットは殺処分しても構わないと思う」と。あけすけにひどいことを書いているので、これは一石を投じるというような意図があっての投稿かと感じました。悪意あってのものではないようにも思ったのですが、さて、殺処分してはいけない理由ってなんなのでしょうか。

私はにゃんと暮らしていて、チューチューちゅぱちゅぱしなが過ごしています。なので、その命がいては困るからなどという殺処分の現状には痛みを覚えます。しかし、過去にはそんなこと思う人のいない時代が延々とあったことを、下記の書物で知りました。

真辺 将之 著 「猫が歩いた近現代」

この本を読むと、明治や大正の時代でも猫や犬が、かわいそうな扱いを受けていたことが分かります。近世以前はなお悪く、今のように大切に扱われるようになったのは、ごくごく最近です。

かつて動物たちの地位は実に低く、このため動物たちを愛する人々も、世間から好奇の目にさらされたりしたそうです。
"動物に愛情を注ぐなんておかしいよ。動物は人より下位にあるもの。それこそが童話の桃太郎より連なる人と動物の関係だ"、などと新聞で批判されたりもしていたようです。

なんで変化したのでしょうか。グローバル化により西洋から動物尊重の思想が入ってきたんですかね。

共感が生み出した、人へ優しくなった歴史

そもそもどうしてそうなったのでしょうか。共感する力が社会を大きく変えてきた証拠があるようです。18世紀半ばまでのヨーロッパで行われていた拷問が、わずか半世紀ほどで姿を消したそうです。

上記のページによれば、18世紀に流行した「書簡体小説」が大きな影響を与えたそうです。手紙の形式で書かれたこの小説は、読者が主人公の立場になって物語を楽しむことができました。そうすることで、自分とは違う境遇の人の気持ちを想像し、理解する力が育まれていったと。なので拷問を楽しむ気がなくなったのだと。

共感が導く動物への優しさ

この「共感」が動物への扱いも変えたのだと思います。人間が動物の気持ちを想像し、共感できるようになったからではないでしょうか。
端緒はやはりヨーロッパです。19世紀初頭にイギリスで動物愛護に関する法律ができたそうです。


動物たちも、私たち人間と同じように、痛みを感じ、恐怖を覚え、生きることを望んでいます。そんな彼らの気持ちに寄り添えるようになったからこそ、「殺してはいけない」という考えが広まったのだと思うのです。

日常にある共感の力

朝、ゴミ収集車の音を聞いたとき、どんな気持ちになりますか?
ヘンなのですが、私は毎回、「ありがたいな」と思います。なぜなら、私たちの「清潔にいたい」という欲求を満たしてくれるからです。きれいがいいよね、そうだよね、という共通する思いが仕組みを作り上げた。今の各種制度も、そうやってできたのかなと。

「死にたくない」「安全に暮らしたい」「子供を守りたい」といったことが共感されたから、みながそれを「善」として、そうあることに協力したから仕組みなり、道徳なりの形になって維持されているのかと、つらつら思ったりします。

共感する力はなんとも良い力です

人と人とがうまく力を合わせて生きていくために、共感する力がとても大切なんでしょうね。これさえあれば、反感を感じても、相手の立場や気持ちを推測することができるので、ちょっと立ち止まれますね。

自分と相手、自国と他国とか、分けてしまいがちですが、こういうのはなんかの心理なんでしょか。不思議とそうしたがるような。
生理学的とまで言うまでもなく、見た目で男性と女性、人と動物とか分けていて、学術が発展して心理学的に内向と外向、LSPとHSPとか分けちゃってますが、分けると対立することもありますよね。

素朴に「思いやり」が必要ですね。割れないように対立しないようにしないと。人対しては「笑顔」もよさそうですね。最近はほがらかを意識しています。
性格診断は自己理解にはいいですが、それを、こういう自分だから、とか隠れ蓑に使うのではなく、共感するための相手の理解に使いたいものですね。

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