憑羽に寄す:十三 岐路
草の擦れる音、自分の足音が、上滑って耳に届かない。
すでに馴れてしまった森の道を歩きながら、イスラの世界はひたすらに静かだった。
音がしていることはわかる。自分が歩いていることもわかる。それでも、自分の足が地面を踏んでいるとはどうしても思えない。離れた場所から、前をゆく歩く誰かの背中を、眺めているときの感覚だった。たとえば足跡の持ち主が、このまま崖の切っ先に向かっていたとしても、止められるかどうかは怪しかった。
ようやくと廃村にたどり着いたときにも、イスラの靴底は、地面から浮き上がったままだった。
既に懐かしさを覚えるようになった、廃屋の前に立つ。
薄暗い中に埃が漂っている。荷物はない。
後片付けは自分ですると、ヤノシュへの言づけに中身はない。荷物は持ち歩けるものばかりだ。
イスラはよろめいて座り込んだ。
草についた左手に冷たい痛みがはしる。人差し指の先、爪の外側に紅色の線が浮かぶ。糸のような線の上、赤い滴が珠を結ぶのを、イスラはぼんやりと眺めていた。
ルチアを連れてこの廃村を出たとき、自分はもう迷っていた。
自分の正しさを疑ったのではない。自分の目的が正しさではなく、己の身の安全だということ、それを突きつけられたことに今更戸惑ったのだ。
……打ちのめされたのは、ルチアが、見抜いたからでも、信じたからでもない。
イスラがどう動こうと、ルチアの心は変わらなかった。
わずかな時間を共に過ごして、ひとすじの疑問を抱いて、その上で可能な限り、廃村での生活を続けることを選んだ。信じた結果に何が来ようと、容れるつもりだった。
ルチアは……彼女の言った通り「かまわなかった」のだ。ほんとうに。
人のゆく道に勝敗があるものなら、自分は最初から負けていた。
……かつん。
イスラはのろのろと首をめぐらせる。
小さな石の傍に、光るものがある。緩んだ荷袋の口から、彫刻石が滑り落ちていた。
イスラは左手を伸ばして、彫刻石を左手に掬い上げる。飾り枠と、飾り枠の輪に連なる鎖が、銀色に光る……ふと、陰る。
顔をあげた瞬間、イスラの体は吹き飛んでいた。
上体が反転する勢いでねじられる。両腕は腰のあたり、後ろ手にまとめられ、首の裏を掴まれ地面に押しつけられる。
細い葉に頬を刺されながら、イスラは上になっている右目だけで背中側を見上げた。
狐わなのように、首に回っている太い指の感触。そこから続く、筋の浮いた腕をたどった先に、日を陰らせるほどの大男を見つける。
「ご令嬢はどこだ」
イスラは小さく笑った。
「ネストレさんですね。腕のお加減はいかがですか」
「質問に答えろ」
ぐ、と指に力がこもる。イスラは咳き込んだ。
力加減がされていることはわかる。それでも骨の太さだけで気道が圧迫されていて、今にも締め落とされそうだった。
「ケレスト領内です」
「連れていったのか」
「僕が案内しました」
ネストレの指に力がこもる。
「ご令嬢の、枝のことを知っていて、連れて行ったのか」
「放し、なさい」
視界が暗む。イスラは痙攣のようにもがいた。
両手をかけても、鋼の塊のようなネストレの腕は小ゆるぎもしない。
「……放せ!」
イスラの周りで空気が震える。ネストレの膝の下で赤がひらめく。
枯野に炎が燃え広がるときのすさまじさで、それは外套の裾をはねのけ、ネストレめがけて飛びかかった。
ネストレが、火に触れたように、イスラの上から飛び離れた。
急に解放された気管に、空気が流れ込んできて、イスラは噎せこんだ。石を握った左手を敷いて、手足を投げ出して横たわる。
イスラをとりまいて、ゆらめくものがある。
肩を波打たせるイスラのそばで、ネストレは凍りついていた。外套の下から生え出る幾筋もの赤が、蛇のように切っ先をもたげるさまを、食い入るように見つめている。
「そうか」ようやくといった調子で、こぼれた声はかすれていた。「妙な出で立ちだとは思ったが、おまえも、枝つきか」
「……同じように、言ったのですか。ルチアにも」
咳の名残を引きずりながら、イスラは肘をついて体を起こした。
「枝つきと呼んで捨てたのですか。生きて他国に渡るくらいなら、確実に殺したかったのですか」
起き上がるイスラの周りで、枝が宙に広がり静止する。
赤い針を継ぎ合わせたような枝を、ネストレはじっと見守った。そして頭を振る。
「そのほうが、あの方のためだったかもしれないな」
イスラは黙って、ネストレの言葉に耳を傾けていた。
「結果が同じなら、先に知っていたほうが苦しまずに済む。淑として受け入れることを良しとする。そういう方だ」
「おかしなことをおっしゃいますね」
イスラの口の端が吊り上がる。目を見開いた、執拗な笑みが、青ざめた頬に浮かんだ。
「死の苦しみなら一時だと?
あなたは死んだことがおありでしたか。死んだ後が、今より楽だと、いったいどうしてご存知ですか」
ネストレが手のひらを握りしめる。イスラの口はなめらかに追い打ちをかける。
「なんならケレストで、あなたのご令嬢がどうなるか、想像したことはおありでしたか?
ひとつ。捕獲の上でシウスとの交渉材料にする。仮にもご令嬢ですからね、生きて捕まえられたとしたら、この方法を選ぶでしょう。
ふたつ。解剖の上で臓器を保管。ケレストにも腕の立つ医者はいます。憑羽の患者は貴重です、病根がはっきりすれば、憑羽がほんとうに、幻の病になる日も近いでしょうね。
みっつ」
立てた指をわし掴まれる。イスラは意識して眼を細めた。
いつの間にか正面にまで近づいていた、ネストレの顔には、隠す様子もない憤怒があった。
「どれなら楽だとお思いですか」
「馬鹿を言うな」
ぎりぎりと握りしめられる。ふりほどこうとして失敗し、三度目で諦めてイスラはネストレを見上げる。
「ケレストの辺境伯は畜生の類か」
「そういう反応をしてくれる方でよかった」
「聞いているのか!」
怒声を浴びながら、イスラは唇をひらいた。
「あなたは、ルチアを助けたいと、思ってくださるのではないですか」
鉄の輪のようだった指がゆるむ。
「ルチアの身柄が、ケレストにわたったことを問題視するなら、敵国の若造の言葉にそんな反応をするはずもない。
邪魔に扱いこそすれ、扱いを案じるようなことはなさらない。違いますか」
ネストレの腕が完全に下がる。イスラはしびれた指を軽く振った。
「私は医者だ。助けられるものなら、そうしていた」
「では助けてください」
ネストレが口を開きかける。今しも怒鳴ろうと唇を振るわせ、イスラの口調に何を感じ取ったのか、結局声を飲み込む。
「ルチアは今、ティーア辺境伯の配下によって護送されている最中です。彼女を生かして助けてくださるなら、あなたをケレスト領にご案内する」
「何を言っている?」
「協力しますから、ルチアを助けてほしい、と言っています」
ネストレのまなざしがぶれる。真っ黒な両の目が、細かくさまよって、下に逸らされるのを、イスラは間近で見返した。
「信用ならん」
ネストレは唸る。
「手引きしたとのたまう口で……ああ、畜生。おまえ一体、何を考えている」
「ではどうしますか。このまま放っておきますか」
イスラはいいつのる。
「疑われるのは無理もない。ですが事情が変わりました。僕はルチアを連れ戻す。
行かないのなら、邪魔をしないとだけ約束してください。あなたが行かなくても僕は行きます」
「否といったら」
ネストレと向き合いながら、イスラの心臓は、奇妙に静まり返っていた。
何を考えているのか、説明はできない。できないのは当たり前だ。イスラにだってわけがわからない。無理やりわかろうとすれば今度こそ、致命的なまでに立ち止まってしまう。かろうじて思考に名をけるとしても意地でしかないし、聞いたところでネストレも、イスラ自身さえ納得がいくはずもない。
こんな、こんな惨めったらしい、馬鹿みたいな有様で、ルチアの足を引っ張ってたまるものか……などと。
イスラはおもむろに右腕を伸ばす。包帯に覆われた、痩せた腕を追って、赤い枝が広がる。
「護送がすむまで、ここにいてもらいます」
ネストレは赤い軌跡を目で追う。イスラに視線を戻し、深々と息をついた。
「……断りでもしようなら、また、とんでもないものを投げられかねないな」太い声にあきらめと苦笑が混じる。「わかった約束しよう。ご令嬢には生きてお救い申し上げる」
差し出された手をイスラはとる。握りあった手を上下にゆすりながら、左手に握り入んだままだった飾り石を、荷袋の底に押し戻した。
「手始めに、君の名前を聞きたい」
「イスラとお呼びください」
簡単な握手を終えて離れていこうとした、ネストレの指先が跳ねる。
「イスラ。君の名前か?」
「何か」
「いや。なんでもない」
口では否を答えながらも、ネストレの視線は動かない。
「どこぞで聞いた気がしたんだが」
「そうかもしれませんね」
手を放してイスラは微笑む。
「同じ名くらい、ケレストにもいくらでもありますよ」
ネストレは怪訝そうだったが、それ以上の追求はしなかった。
「日が落ちる前に、ケレストに入りましょう。ほとりの街の外門が閉じられたら朝を待つほかなくなる」
「あてはあるのか」
イスラはうなずく。
「国境に一番近い町で、足を借ります」
「待ってくれ。私もケレスト領内に同行するということか」
「不都合でも?」
ネストレは外套の裾をつまんで広げて見せる。
「ほとりの街だろう。さすがに名乗った覚えはないが、一度この姿で入っている。顔を覚えている者がいるかもしれん」
イスラは振り返る。三歩ほど離れたところから、ネストレの全身を覆う、暗い色の外套を眺めやる。
細められた目が、口許に添えた自身の右手、ついで羽織る鴉の外套へと視線を落とす。
「少しだけ、任せてもらえますか?」
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