憑羽に寄す:十四 関所への道
日が落ちていく。森の木々と屋根の境を黒々と染めていく、大きな日の夕方はなんとも不気味だ。朝の光が、のびをしたり身繕いをする間にゆっくり昇っていくのに対して、にごりのない橙赤の、巨大な光の塊が沈む夕暮れは、時間の立つのがずいぶんと早く感じられる。
街の中央にある時計台から南門へと向き直ったところで、門衛は眉をひそめた。
森のほうから、足音がふたつ。
足音はすぐに人の姿を結んだ。外套の裾をはねあげて、一心にかけてくる。
門衛のすぐ前で、身を折って立ち止まった。暗色の外套を羽織った肩が大きく上下している。
ざっと見たところ、青色を身に付けている様子もない。門衛は声を尖らせた。
「なんだ、あんたら。ほとりの者じゃないな」
「申し訳ありません」
荒い呼気のまま、ひとりが頭の覆いをはずす。
老人のような真っ白な髪が、夕日のもとにあらわになる。門衛は後ずさりそうになるのを踏みとどまった。
「ご用があって参りました。イスラといいます」
若い声には聞き覚えがあった。
「ヤノシュさんの相方か?」
若者はうなずく。
「恐れながら、馬をお貸し願えませんか。ティーアのご領主に火急の用があるのです」
「火急って、あんた、電信機を借りりゃいいだろう。街長のとこの」
「直接お話ししなくてはならないのです」
「そうはいっても、遠出用の馬はみんな出払ってるぞ」
街全体の共有財産として管理されている、騎乗用の馬は十頭にも満たない。それだって借り受けるには、街長の許可が必要だ。
「どっちにしろ、あとニ時(とき)もすりゃ門は閉じる。諦めて夜明けを待て」
若者は身を引いた。門衛が肩の力を抜いたとき、若者はなにげない風に口を開いた。
「では街長に、あなたの名前をお伺いします」
門衛の眉が上がった。
「どういうつもりだ」
「僕は伝令です。伝達が遅れとしたら、なぜ連絡が遅れたのか、理由も含めて報告する義務があります」
「おい、鴉。いい加減にしておけよ」門衛の声が低くなる。「青も着られないはぐれが、いっちょまえに人を脅す気か」
「僕は職務を遂行したいだけです」イスラは淡々と答える。「必要なことはすべて伝えます。今あなたがおっしゃったことも、無論お伝えいたしますが」
門番が口を引き結ぶ。顎がせり出して、眉のあたりの肉が盛り上がった。
若者は腹の見えない、澄ました様子で、門番を見つめ続けている。
しばらく見合ううち、門衛が、ふと目をそらした。
「遠出用じゃない」
「馬がいるのかと聞いています」
「一頭だけだ。納屋の隣に、走れる年じゃない、鋤引きの馬だぞ、足になるかどうか」
「充分です」
若者は門衛の傍をすり抜けた。頭頭の覆いをかぶりなおして、もうひとりの外套姿ともに駆けていく。
「数日のうちにはお返しします。ご用の折にはオノグルの関に、ヤノシュの名前をお訪ねください」
あとのほうの声は随分と遠く響いた。棒のような細いなりをしてやたらと足が速い。
「なんだってんだ。ありゃ」
門衛はひとりごちて、門へと向かう。日没が迫っているのは本当だ、閉じるにも準備をしなくてはならない。
無礼な若者のことは、愚痴をこぼすうちに、いつしか薄れることを期待した。
「驚いたな」
かろり、ころり。蹄の鳴る合間に、ネストレの呟きを拾って、イスラは声だけで答える。
「何がですか」
かろり、ころり。ふだんは胸当てをつけて鋤を引く老馬は、毛布を敷いた背に大人二人をのせて、危なげなく道をゆく。
北門をくぐる手続きそのものは簡単にすんだ。イスラが顔を知られていたことに加え、ネストレがひたすら沈黙を通してくれたこと、暗い色の外套姿ということも効を奏したのだろう。
黙っていれば、鴉の外套の中身を、わざわざ覗き込む者はそういない。
「足のあてがあるとは聞いていたが、こんなやり方をするとは思わなかった」
「協力してくださるのでは?」
「そのつもりだ。一度は疑るのを許してくれればな」
ネストレが肩をすくめたのが、外套の衣擦れでわかった。
「ケレストの領内へ引き込んだところで捕縛されるのかとも思ったが、私には、そこまでする価値はないからな」
「そうでしょうか」
イスラは携行灯を包んだ両手へと視線を落とす。手の中にはネストレの携行灯、両側は手綱をとるネストレの腕に挟まれていて、体をひねるにも落ち着かない。
「ユステの家つきの医師とあらば、充分な証言が得られるかとも考えますが」
「それなんだが、君はどこまで知っている?」
「あとはルチアの素性と、あなたがルチアを殺そうとしているかもしれないということまで」
「後半分は訂正してくれ。私はご令嬢を連れ戻しに来ただけだ」
ネストレの声色がこわばる。
「ルチアは、あなたが主家の憂いを断ちたいのではないかと、考えているようでした」
「そんなことを」
ネストレはしばらく黙っていた。沈痛なため息が落ちる。
「それは私が決めることではない。
確かに今まで通りの暮らしはできないだろうが……命まで奪おうとは、お考えでない」
「北方公にも、ルチアを生かすおつもりはあると」
ぎょっと目を見開くネストレを、イスラは横目に見上げる。
「ルチアの主治医であるあなたが敬意を示す、かつルチアの処遇を決められる人といったら、その方でしょう」
ネストレはやがてきまり悪げに頭を掻いた。
「私もどうにもうかつだな。君としゃべっていると、なにもかもばれていそうだ」
イスラは笑い声をたてた。これまでのやりとりで、ネストレがどうやら素直な質であるらしいと、見当をつけたことは黙っていた。
ルチアも、自分を見るとき、こんなふうに透かして見えるものがあったのだろうか。
「状況証拠でしかないが……仮に命をいただくつもりがあるなら、「暇をもらって無断で患者を探しに行く医者」よりも、もっとふさわしい者が送り込まれたと思ってはくれないか。
枝のことを知っているならなおさら、もう少し真っ当な武装をしてきたはずだろう」
「筋は通りますね。別のことが気にかかりますが」
イスラは携行灯の金枠を指先で叩く。
「それならなぜ、ルチアは家を出されたんですか?
連れ戻す必要が出るくらいなら、外に、それも国境の森に逃がすようなことを、あなたがたがなさるとは思えない」
「ご令嬢が、そう言ったのか」
言葉の間に、空白が生まれる。蹄の音をひとつ挟んで、イスラは口を開く。
「言えないことですか」
「君、気づかなくていいことに気がつくと言われないか」
「よくご存じですね」
ネストレがため息をつく。先よりも重い。
「だったら尚のこと、私には何も言えない。
知ったとして、どうにかできることじゃないんだ。知らない方が、君もやりやすい」
「判断をさせては、くださらないのですね」
「君は」
ネストレは何かいいかけて、結局口をつぐんだ。次に出てきた言葉は、別の話へと変わっている。
「悠長に歩いていて大丈夫なのか。今更だが」
「間違いありません」
イスラはうなずく。
「この先に関があります。夜の間は関に泊まって、夜明けに移送を再開すると、同僚から確認をとっています」
「ほんとうに、助けるつもりなんだな」
イスラは沈黙をもって返した。ネストレは言葉を続ける。
「私からも聞きたいことがある。
君はどうして、ご令嬢を助けようと思ったんだ」
イスラは肩を揺すった。外套のずれを正す。
「あなたが納得する答かどうかは、わかりませんが」
「かまわない」
答える代わりに、イスラは体の両側を挟む、ネストレの腕を軽く叩いた。
道の向かい側から、灯りが近づいてくる。ネストレは手綱を引いて、馬体を道のわきへと寄せた。
ほどなくして、荷を積んだ二頭立ての馬車が、薄闇の中に浮かび上がる。すれ違いながら、御者が携行灯を持ち上げてみせる。イスラも携行灯を振って挨拶を返した。
老馬が歩みを再開する。しばらくいったところで、イスラは口を開いた。
「ルチアは、僕がティーアの者だと、感づいていました。
感づいた上で、捕まってもいい、信じたかったから信じただけだと、そういうことを言ったんです」
イスラは片手で、外套の裾をかきあわせる。
「そんな助け方をされて、ありがとうございますと、受け取れるはずがないでしょう」
「矜持の問題か?」
「主義の問題です」
しばし沈黙があった。
後ろ頭のあたりで空気が震える。ネストレが笑いを噛み殺しているのを感じ取って、イスラは肩を震わせた。振り返りかけて、それとわからない程度のところで踏みとどまる。
「なにか」
「いや、なに」
とうとう吹き出しながらネストレが答える。
「はじめて会ったとき、君にカタミササゲを投げられただろう?
あのときは……今もだが、冷静というのか、えらく肝の太い若造だと思ったんだが、そういう気性の激しいところもあるんだな」
イスラは黙り込んだ。
かろり、ころり。蹄の音はいたって変わらず、夜の匂いは暗がりとともに濃くなってくる。
「もうひとつ尋ねたい」
「なんでしょう」
「君は何者なんだ」
イスラは目を瞑った。ネストレは続ける。
「ティーア辺境伯の部下だとは想像がつく。兵らしからぬ見目も、ご令嬢とかかわったくらいだ、秘密裏の役目を与えられているからだろうとは納得できる。
だが君は憑羽だろう。どうやって、今の立場に収まったんだ」
「聞いて、どうなさるおつもりで」
「ご令嬢にも、生き延びる道があるなら、そうしてさしあげたい」
イスラは目を閉じたまま、息を吸って、吐いた。肺の腑が裏返るくらいに吐きつくしたところで、首だけで後ろを振り返る。
目を丸めたネストレの顔が、ぼんやりと見える。
「人目から隠していただけです。主人は最初から、僕の病を知っていましたから」
ネストレが何か喉につかえたような顔をする。
「ルチアが憑羽であることが、何故そんなにも問題だったのか。彼女のお父上が、シウスの北方公だったからですね。
生まれるはずのない血筋に怪物が生まれた。どんな方法を使っても隠したい。
幽閉か暗殺か……僕の主人は、信頼の影に僕を隠しました」
「それは」
「分け隔てなく慈悲深い方、辺境伯のお膝元に、まさか怪物がいるはずがないと」
沈黙が落ちた。蹄の規則的な音が響いている。
やがてイスラの背中で、ネストレが身じろぐ気配があった。
「すまなかった」
イスラは思わず口を開けた。
「なんだ?」
「あなたが、そんなふうにおっしゃるとは、思いませんでした」
「私にも、人並みに思うところはある」
自身の感情を捉え損ねたような、奇妙な表情でネストレは唸る。
イスラは前を向きなおす。
「僕からも訂正します」
鼻梁のつけ根、眉間の奥が、じんと熱くなる。きつく目を閉じたまま、イスラは笑い声をあげた。
「お会いしたときは熊だとも思った方の実際が、心ある方で本当によかった」
「熊はやめてくれ」
腹からくたびれた声が返ってきて、イスラの笑い声が少し大きくなる。
かろり、ころり。ゆるやかな足音を立てて馬は行く。
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