20190925序章表紙

憑羽に寄す:五 行動

 水面を見つめて、イスラは細く息を吐く。
 緑のかったような薄青い流れが、さらさらと岩場に跳ねている。水源に近いとはいえ、中ほどにもなれば体を洗えるくらいの深みがある川だ。岸から遠く離れるにつれて、幾筋も塗り固めたように、水の色は影を濃くしていく。
 ひとときもじっとしていない流れのさなかに、ところどころ、細長い影がとどまっている。
 そんな影の真上、水面をすべるように伸びる赤い枝がある。
 影が大きく体をくねらせた、瞬間、水しぶきが跳ねる。
 赤色が閃いたのはほんのいっとき。翻った枝先が、川底を突く寸前で、水面を割って立ち戻る。
 イスラの背から伸びた枝の先では、胴を串刺しにされた魚が、びちびちと体をのたうたせている。
 イスラは岸に上がった。銛代わりの赤い枝から抜いて、岩の上に取り置いた木の枝の先に、魚を通し直す。畳んだ外套の端を踏み踏み、つまさきをぬぐって靴にさしこむ。
 いくぶん弱ったものを含めて、きっかり六匹分。外套と、魚の刺さった枝を抱えて、イスラは川沿いを上る。
 ひとかかえほどある大きな岩のそばを目印に、右手に逸れて、三十歩も木の間を分け入れば、廃村の広場にたどりつく。
 井戸と廃屋の群れのちょうどなかほど、うすい煙がのぼっている。緑色の下草がむしられて、こぶし大の石をつみあげた即席のかまどが、むき出しの土の上に鎮座している。
 少し離れたところで膝を抱いていたルチアが、半身をひねって振り向いた。
「おかえりなさい」
 傍らには、枝を払って節をととのえた、木の串が等間隔に並んでいる。
「火の番助かりました。すぐに支度します」
 魚の連なった枝を持ち上げて見せると、ルチアは魚と、イスラの顔を交互に見やる。
「これも魚なんですか?」
「食べたことありませんか」
「初めて見ます」
 はらわたを絞り出し、えらの隙間を通して二度、魚の胴に枝を通す。イスラが串をととのえている間にも、ルチアは不思議そうに目をまばたいている。
「魚って、もっと大きいものだと思っていました。食べるときは、背中のところを切り身にとるものだって」
「上流に泳いでいるものはこれくらいの大きさです。川下に行けば大きな魚もいますね」
「育つのですか?」
「人間だって時間をかけて大きくなるでしょう」
 ほう、とルチアが感嘆のためいきをつく。
 イスラは火のそばに立てた串を返す。川魚は腹に虫を飼っていることが多いのだ。医者もいない生焼けを食べて腹を壊したら目も当てられない。
 ルチアは目をみはって、動くイスラの指と、炙られてはぱちぱち音を立てる魚の皮とを見守っている。
 やがていくぶん黒くなった木の枝が、縁石に立てかけられて並んでいく。
 イスラはさっそく取り上げて魚の腹にかぶりつく。ルチアはイスラの手元を眺めたあと、同じように魚に手を伸ばした。魚が通された枝の両端を、指三本だけでつまみ上げる。もくもくと口を動かすイスラの様子をうかがいながら、魚を顔の正面に据えて、口をあけて、噛みついた。
 途端に唇が真横に引き結ばれる。
「苦いです」
「そっち側ははらわたが入っていますから。反対側から、白いところだけ齧ってごらんなさい」
 ルチアはいかにも恐る恐るといった緩慢さで、魚の腹と背をひっくり返した。唇をとがらせては皮の端をついばんでいる。
 イスラも二匹目に口をつけながら、金色の頭の向こうを横目に見やる。住まいにしている小屋の屋根の端が斜めにずれている。盛られた土が落ちかけている。近いうちに補修が必要だ。下水路に積もった土の掃除もまだ途中だ、蓋板が朽ちかけているのも取り替えたい。
 イスラは頭の隅にかきつけて……我に返って苦笑いした。だいぶ気がそがれている。
 ルチアと出会って既に十日。人手のない森の生活は、衣食の手間に追いかけられる生活だったが、得るものもまた多かった。ルチアの言葉に、どうやら嘘はないとわかったことも、そのひとつだった。
 この廃村での暮らしにおいて、イスラを疑い、取りつくろう嘘をつくほどの余裕が、彼女にはない。
 なにせイスラがやってくるまで、服はほとんど着の身着のまま、食事は外から持ち込んだ干し果物に押し麦で過ごしていたという。その食料すら尽きかけていたというから、聞いたときには頭を抱えた。廃村の古井戸が生きていたこと、清水の川が近くにあったことは、ただただ幸運だったのだろう。
 かといって、生活の術に汲々としている様子もまた、ルチアにはない。
 言葉のとおり瑪瑙入りの石を集めたり、雪いちごの藪を見つけたりして、イスラが廃村に戻ってくると、ルチアは大抵何かを眺めている。
 何かというのは、顔を洗ううさぎの親子だったり、小枝のような足で木の幹にとりつくカラの灰色の背中だったりする。イスラにはどれも、明日の食事ほどには差し迫ったものには思われない。状況にそぐわない振るまいと、森の濃い緑に浮き上がる白い服が、ルチアをことさら異質なものにしているようだった。
 身に着けるものにとどまらず、荷物一式を収めた鞄も尋常ではない。なめした皮を全面に張った飴色は、いくつかの引っ掻き傷まで含めて、見るからに時を経た高級品だ。合わせてルチアの口から紡がれる言葉は、こうした鞄の持ち主にふさわしく、流暢な大陸公用語。
 ルチアは何者なのか。なぜ国境の森などという剣呑な場所で、見るからに慣れない独り暮らしを試みているのか。短い間にうかがえることからは、謎は解けるどころか深まるばかりだ。
 新しい串を手に取りながら、イスラは家々のさらに遠く、木々の間を透かし見る。
 若木の幹の向こうに、赤い毛皮の鹿が数頭、立っている。一心に若葉をむしるものに交じって、首を上げている一頭が、廃村の広場をみつめていた。
 黒く濡れた目がイスラをうかがう。イスラが動かないと見て取ると、他の一頭と入れ替わる形で、頭を下げて草を食みはじめる。
 奇妙と言えば、ここの獣も奇妙だった。
 猟銃が出回って以来、人食い狼の伝承も今は昔、人間と見れば姿を消すのが獣の常だ。とはいえ森の中で、期せず出くわしたりでもしようものならかえって危ない。飢えた狼にしろ子連れの雌鹿にしろ、戦いを思い定めた生き物相手に、丸腰の人間が殴りあって勝てることはそうないからだ。
 ここの獣には、そうした極端さが見受けられない。
 廃村の周囲に姿を見せる、動き回りくつろぐ様子さえある。けれども近づいてくることはない。遠吠えの聞こえた夜など、イスラは木の上で夜を明かしたこともあったが、狼の群れが廃村に入り込んでくることはついぞなかった。
 ルチアは自分の枝をして、警戒されていると考えているようだったが、イスラには違うものと見えている。つかず離れずの距離で、それぞれの生活圏を守りながら過ごす様は、注意を払うに値するものへの……ある種の恐怖をもっての振る舞いにさえ思われてならなかった。
 ……ぱちん。
 手の甲に痛みが走る。枝の燃えさしを払い落として、イスラは魚の背に口をつけた。
 イスラが三匹目を骨だけにするころには、ルチアのほうも食事を終えたようだった。
 指を組んで短い祈りをつぶやく彼女の前で、石の上に並ぶどの魚も、背中のところだけきれいにかじり取られている。イスラは噴き出しかけて無理やり咳に切り替え、残り火に土をかぶせる作業に努めた。
 揉んでやわらかくした木の葉をとって、ルチアは指先を拭っている。
 こうしたいくつもの疑念について、イスラからルチアに訊ねたことはない。仮に訊ねることができ、どんな答があったとしても、イスラのすべきことは変わらないからだった。
 ルチアができるだけ遠くから腕を伸ばして、葉を残り火にくべているのを見守りながら、イスラは口を開いた。
「近く、いちど町に戻ろうと思うんです」
 ルチアが葉のふちをつまみ上げた、半端な恰好のままでイスラを見る。
「細工師のお仕事ですか?」
「仕事と、買い物です。雪いちごの茂みも見つかりましたし、糖蜜漬けを作るなら、傷む前に容れ物をもらってこないと」
 小指の爪がめくれるほどに厳しい冬を越すケレストでは、糖蜜漬けの果物は貴重品だ。白い怪物のことが片付けば、森のもっと浅い場所では、雪いちごを集める子どもが見られるはずだった。
「ご用がなければ、明日の朝にはここを経ちます。欲しいものがあったら、早めに教えてもらえますか」
 ルチアがうっすらと微笑む。
 大きな目の焦点が、静かにぶれていく。ルチアの意識が、目の前のイスラを通り越してはるか遠くへと投げかけられていく居心地の悪さを、イスラはつかのま味わった。
「必要ありません」
「なにも?」
「ええ。なにも」
「そんなはずはないでしょう。着替えはどうなさるんですか」
 草の上に広がった、ルチアの服を指す。
 細かな糸細工の縫い付けられた、丈の長い白い衣の裾は、くすんだ緑に染まりつつある。
「いいんです」
 イスラの視線を負ったルチアは、裾をつまんで、隠すように膝の下へ押し入れた。
「着替えなら、鞄に、いくらかありますから」
 イスラは息をつく。
 ルチアの服は重い。空気を含む幾重ものひだ、重心を後ろへ引っ張らんばかりに長い裾が、傍目の想像以上に踏み出す足の邪魔をしている。着たことのないイスラが詳しく知っているのは、折れた藪の一部を引っかけて帰ってきたルチアが、そのまま家に入ろうとするのを捕まえたことがあったからだ。裾の刺繍を破かないよう、たっぷり半時かけて、枝を外したことを覚えている。
 あの服は、絨毯じゅうたんが敷きつめられ掃き清められた床、あるいは朝一番に庭師の掃除した石畳の上を歩くためのものだ。人手の入らない森を歩き回るには向いていない。
 とはいえ、この上食事がどうのと言い募ったところで、聞いてもらえるとは思われなかった。
「ではルチア。僕からお願いします。留守の間、その服を洗っておいてもらえますか」
 僕が洗うのは問題があるでしょうから、と付け加える。
「ザパンの葉は置いていきますから、水につけて生地と一緒に押し洗いしてください。干すときはそうですね、真昼はよくない。月の出ている夜に、夜風のあたる高いところで明かりにさらすんです。驚くくらい白くなりますから」
 ルチアは黙って微笑んだままだ。
 事情がどうあろうが、どれだけ森に暮らそうが、ルチアは見るからに貴人の娘だ。今のまま、人の世と離れて長くは暮らせない。
 とはいえ今や彼女の傍には、洗濯女中のひとりもいない。わからない娘ではないだろうに。
 どうにも掴めない、ルチアの希薄さに、イスラはかすかな焦りを覚え始めている。
「戻ったら見せてくださいますか」
 念を押せば、ルチアは小さく頷きを返す。
 はぐらかすような沈黙が落ちる。問い詰めるのを諦めて、イスラは残り火に被せる土をすくった。

 日が落ちる前に、ほとりの町の門をくぐったイスラを、ヤノシュは小走りに出迎えた。
「無事だったのか」
 丸められた目が、イスラの外套の上を爪先までを眺め回す。降りた視線がイスラの顔まで戻ってきて、ヤノシュはやがて、大きく肩を落とした。
「あと三日遅かったら、邸に戻るところだったぞ」
「ええ。そのおつもりで構いません」
 イスラは外套の合わせを割って、数珠を探り出す。青く連なる珠を鼻先につきつけられて、ヤノシュは顎を引いた。
「本邸に戻らせてください。ご領主に報告したいことがあります」
「報告ったっておまえ、まだなんも」
 ヤノシュが口をつぐむ。
「イスラ、おまえ、白い怪物を見たのか?」
 イスラはうなずいた。

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