20190925序章表紙

憑羽に寄す:十 子どもの訊ねたかったこと

 手元を照らす橙が暗くなる。手元から顔を上げて、イスラは部屋の隅の薪へと左手を伸ばした。
 楔のかたちに割られた木片を並べてくべ、ついでに木の皮を細く裂いて暖炉へと放り込む。
 火の勢いが戻るにつれて、埃の焦げる臭いがする。夜半になって雨が降り始めたらしく、どこかしらおぼつかない空気は湿っていて、静かだった。
 イスラは改めてひざの上に乗せた長靴を持ち上げる。
 靴の底に仕込まれた薄い鉄板と、ばね仕掛けの刃が左右ひとつずつ。靴に沿う細い鞘に収まった、手先から肘ほどまでの刃渡りの短刀。検めてはひとつずつ、柔らかな布でぬぐっていく。
 渋皮色の靴下の上に、火の橙の灯りが重なって、爪先からくるぶしにかけてのこわばりがゆっくりと解けていく。
 長い一日だった。
 なにもかもが怒涛のように過ぎたせいだろうか。望みどおりに物事が進んでいることは理解している一方で、どこか地面に足のつかない心地がする。ちょうど今のような、霧混じりの夜に、遠くを透かし見ようとして目を細めるときの、言いようのないもどかしさを思い出す。
 まずい、と思ったときには咳き込んでいた。
 刃物から手を離す。しゃりん、と床で澄んだ音が散る。短刀の腹を爪先で押し退けて、イスラは帯の荷物を探った。
 あおった薬液が頬をはねて首筋を伝う。ひゅうひゅうと鳴る呼気をできるだけ絞りつつ、ぞんざいに頬をぬぐう。
「……大丈夫ですか」
 イスラは振り返った。
 廊下の暗闇と、明かりの境目に滲み出るようにして、ルチアが立っている。金色の髪は解かれ下ろされているものの、外套は律儀に体に巻きつけられていた。
「なんでもありませんよ」
「お側に行っても」
 よろしいですか、と、断りが入る。上向けた手のひらを持ち上げると、ルチアは微笑んで椅子にかけた。
 そして黙っている。
 横目で視線を投げたイスラにも、目元で微笑み返してくるだけだ。
「楽しいですか」
「とても」
 ルチアはイスラの拾い上げた短刀を眺めている。
「何かに熱中しているのは楽しいし、熱中している人を見るのも楽しいですよ」
「そうですか」
 イスラは作業を再開した。ルチアも飽かずイスラの手元を観察している。
 ほどなく短刀の腹に、イスラの淡い色の目が映る。
 艶を取り戻した短刀を鞘に滑り込ませる。靴を揃えて椅子のそばに並べ、イスラは一息ついた。
「なんのご用ですか」
「目が覚めてしまって」
 イスラはあからさまに肩を竦める。
「それでわざわざ起きて出て、髪も結わずに、ずいぶんの間ここに待っていらっしゃると?」
「容赦のないこと」
 ルチアが目を伏せる。わずかにうつむいた口元に、握り込まれた指が押し当てられる。
 イスラは黙って、ルチアの言葉を待った。
「ひとつ、聞かせてもらえますか」
「内容によります」
 イスラは膝の上で指を組み直す。ルチアが何を聞きたいのかは、なんとなくわかる気がした。
「憑羽(つくばね)の病は、ここでも、明かせないものなのですね」
 イスラはうなずいた。
「見目が変わりますからね」
 病が癒えたのち、残った痕が別の形で尾を引く例は、皮膚病の類に特に顕著だ。治療方法が発見されている今でも、病の名を聞く人の怯えはそう変わらない。
「まして憑羽は、存在していないはずの病です。ルチアに会うまで僕は、自分以外に憑羽がいることを知りませんでした
 滅多なことでうつらないのは、かえって幸いでしたけれど」
 イスラを長年診てきた片足の薬師は、憑羽を発症することなく、今もティーア邸で鴉の庭の医師を勤めている。
「誰ひとりも、ですか」
「知る限りでは。僕がこの宿場で行き合った方にも、憑羽は見つかりませんでした」
 イスラは黙った。ルチアは口元に指を当てたまま、外套に顎をうずめるようにして俯いている。
 ぱちり、ぱち……火の音が耳に戻ってくる。
 イスラが靴へと手をのばしかけたとき、ルチアが身じろぎした。
「もしかしたら、誰も。明かすことができなかったのかもしれません」
 イスラはルチアの横顔を見た。ルチアの赤い目が、橙色にとろめいてちらちらと光っている。
「イスラは、誰もいないとおっしゃいました……見てわかる憑羽はいなかった。だからご自身の枝のことも、黙っていたのでしょう。
 イスラと同じです。もし誰か、他に憑羽がいたとしたら……自分も明かそうと。そう考えていた人が、どこかにいたのかもしれません」
 なにか……とても大切な、己のうちに根を張る何かに、触れるものを、イスラは聞いた。
 けれどはっきりと見定める前に、それはルチアの言葉が消えると同じように、するりと指のあいだを滑り落ちて、暗い場所に沈んで見えなくなった。
 イスラは目を伏せて、残る一本の短刀を、靴の鞘から引き出す。
「もうお休みなさい。寝台のほうが落ち着けますよ」
「ええ……」
 いらえはあれども立ち上がる気配はない。
 顔をあげると、ルチアはふらふらと左右に揺れていた。軽く肩を叩くと、大きく揺れて、芯を抜いたようにずるずるとわだかまる。
 イスラは眉間を押さえた。しばらくそうしてから、残っている椅子へと腕を伸ばす。指先に引っかけて引いてきて、外套の形に丸まっているルチアを横たわらせる。
 静かな寝息が聞こえてきた。
 椅子にかけなおした、自分の膝を見つめて、イスラは深々と息を吐く。
 ……有り難い。まずその言葉が浮かび上がってくる。
 今やルチアの心に、不安の種は充分に撒かれたはずだ。落ち延びた先は勝手のわからない異郷の地、暗殺のために襲ってきた同郷の医師。今ならば、ルチアはイスラを信じるだろう。頼るだろう。疑うことなく。
 昼間に行き会った、鴉の同僚たちのことを思い出す。ああした朗らかな忠実さは、なるほどイスラには足りないものかもしれなかった。
 居場所と日々の糧を受け取って、鴉はティーア辺境伯の羽を務める。不満を口にする者はいない。皆、ティーア辺境伯の温情と徳を讃え、感謝を足場に日々の務めに励んでいる。
 同じものを与えられながら、イスラひとりが、違う場所を眺めている。 
 イスラ自身が、表向き静かにふるまっているつもりだ。それでもふと、アンゼルムが自分を見るとき、三日月のかたちの緑の眼が恐ろしくなる。微笑んだかたちの目は、不忠を見透かしているのではないかと思わずにおれない。見透かした上で、考えるだけなら自由だと、好きにさせているのではないかと。頻度は、年々増している。
 誰かに話したことはない。常ならぬ身を厭わずに、望むまま、行けるところへ行ってみたい……わきまえない欲深だと嘲笑される姿を、市政の常ならぬ者に見てからは、口をつぐむことを覚えるようになった。
 学舎に通い始めてまもない子どもみたいに、イスラは夢を見た。夢とわかっているからこそ、美しいものばかりを並べて留めつけた、額縁の中身を思い描いた。
 いつか。ほどよく雲のある晴れた日がいい。同じ憑羽に会うだろう。枝が生えていて、枝で腕のように伸びをして、皿を並べたり筆を執ったり、ときどき横着をして椅子から外套を取り上げたりする誰かに。
 男か、女か。歳はいくつくらいだろう。なんだっていい。犬や猫、枝の生えた馬だとしてもかまわない。怒鳴ることも冷笑することも、馬鹿げた威嚇もしてこない……友達になれると、ひとめでわかる誰かなら。
 なにを話そうか。どこを訪ねようか。これまで何を見てきたのか。何が嫌いで、何が好きか。もし手に入るものなら、好きなもの目の前に並べてみせて、どんなふうに喜ぶのか飽かず眺めるのもいい。
 そうして夢に見たものが、傍らにいる。
 くたびれた外套にくるまって、丸くなって眠っているルチアは、イスラの描いてきたどんな想像よりも明瞭だった。
 そしてイスラはルチアを騙す。見つけたものを、手放そうとしている。
 ぐうっと喉奥の狭まる感覚があって、イスラは仰向いた。手のひらで閉じた瞼を覆う。
 ……見ないように、胸底深くに沈めていたものがある。
 輪郭の定かでないそれは、持ち上げようとするたびに指にねばつき、声に出そうとするたびに喘鳴になる。
「イスラ」の名前を受け取った日から、胸苦しさのどこかに凝り続けているなにかを、イスラは今もうまく声にすることができないでいる。

 ……僕は、生きていることを、謝らなくてはならなかったのですか。

 それは折に触れて芽生える疑念だった。芽生えるたびに、むしりとっては火にくべて打ち消してきた、どろりと重だるい暗闇だった。
 イスラは目を閉じた。いつの間にかきつく寄っていた眉根を押さえて俯く。
 耳鳴りがする。金属を長々とすり合わせるときの、きぃんと高い異音の奥に、すすり泣く声が混じっている。
 ……ごめんなさい。
 ……君のせいじゃない。
 ……ごめんなさい。
 泣く女。宥める男。常ならぬ子を産んだ妻。支える夫。重々しくひだをつくる、暗赤色の緞帳。お伽噺の一幕、完成された光景。
 悲劇は香辛料で、涙は水晶の飾り滴。舞台の中央、嘆く両親の役を務める主演のふたりのほか、重要なものはなにもない。飾られるもの……嘆かれるものの意思は、問われない。
 ……幻聴だ。
 襟を引く指がわななく。何度か取り落としかけながら、イスラは青玉の数珠を引っ張り出して、額に押し当てた。
 眉間にぬるい滑らかさが触れる。青玉の触れる眉間を残して、からだの輪郭が溶け崩れていくような錯覚がある。
 目を閉じて、イスラは長いこと動かなかった。

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