20190925序章表紙

憑羽に寄す:七 襲撃

 森に入ってしばし、枝折れの大杉が見えてきたところで、イスラはつと梢を仰いだ。
 半分目を伏せ、努めて息を吐いて、自分の視界と、判断する頭から手を離す。手足の、枝の先から、芽が出づる……新しい蔓草が延びて、あたりの宙を這い始めるさまが、瞼の裏の暗がりに映る。見えない枝先の触れるものを、ひとつずつ追いかける。戻ってくる音、色、匂い……五感を組み立てて、頭の後ろの暗闇に絵を描く。
 何かが……妙だ。絵の中にあるはずの、主だった色が抜け落ちているような、違和感がある。
 目を開いたイスラの行動は速かった。
 足早に川沿いを目指す。これまでに何度か通った藪は、足元の草が倒れ潰されて、いくらか道らしいあとを呈している。駆け出さないよう、歩数と呼気を数えながら、イスラは道の上を踏む。
 歩みを進めるにともなって、被さっている曖昧さが剥がれ落ち、違和感の輪郭が明瞭になる。
 ……静かすぎる。
 人がなくとも、常の森は音に溢れている。風が通れば葉が触れあい、鳥が蹴れば枝がしなる。音の鳴るのが、自分のいる場所からどちらの方角なのか、どれくらい離れているのか。歩きなれれば、見なくてもある程度掴むことができる。
 だのに、今の周囲には音がない。懲りずに騒がしいかけすの声も、ひそやかに動き回る鹿の毛皮に、枝が爆ぜる音もしない。
 どぉん、と、腹に響く音がとどろいた。甲高い耳鳴りが追いかけてくる。
 廃村のなかほどでイスラは立ち尽くす。
 村の最奥、ルチアがふだん寝泊まりしている家の壁から、白いかたまりが吹き飛ばされた。
 ぽん、ぽん……冗談のように地面を転がるさなか、かたまりの中から白い枝が幾筋も伸びる。ちょうど両手をつくように転倒の勢いを殺して、ぐったりと倒れかけた娘……ルチアの体を支え起こして立ち上がらせる。
 と見る間に、新しく分かたれた枝が、真っ赤な口をひらいて一斉に牙をむいた。
 イスラが息を詰めて見守る前で、壁のなくなった廃墟の入り口から、人影が現れた。戸をくぐるに、いかにも窮屈そうに体をかがめている。
 熊、と、一瞬思った。黒衣を羽織った、熊のような大男だった。
「――――」
 イスラは走った。上体を低めて、井戸を囲む家のうち、いちばん近い塀の陰に飛び込む。
 塀に背中をつけて、片目で広場の様子を伺いながら、片手で荷物の紐をほどく。持ち歩いていた、獣よけの守り袋を引っ張り出し、縫い込まれた開け口の糸を手探りで引きちぎる。
 中から真っ赤な、カタミササゲの葉の粉が現れた。
 もう片方の手で、硝子の小瓶も一緒に取り出す。糖蜜漬けを詰めるため、ティア邸近くの商家で買い求めたものだ。
 爪の先が触れないよう、袋の口をすべて瓶の中に差し入れてから袋を傾け粉を流し込む。空の守り袋を片手間に放り、固く固く栓を押し込みながら様子をうかがう。
 男が走った。ほとんど硬直しているルチアに向かって腕を伸ばす。
 白い枝がしなった。
 数本は下草を弾き、飛び跳ねるようにして、迫る拳からルチアの体を逸らす。地に着いた枝を軸に、別の枝が男の足元を払う。
 走る最中の不安定な姿勢を邪魔されて男の巨体が揺らぐ。すかさずいくつかの枝が細く分かれて飛び掛かり……ぴんと、白い紐のように空中で突っ張った。
 空中で、男が枝を掴みとっていた。冗談のような反射の速さだった。
 男の腕が、枝を掴んだまま自分の体へと引き寄せる。くるんと、ほとんど飛び上がるように一回転して、ルチアが地面に叩きつけられる。金髪がひとすじ、尾を引くように浮き上がり、直ぐに下草に埋もれて見えなくなる。
 男が帯の鞘から短刀をはらった。逆手に握られた短い刃が閃く。ギャアギャアと声を上げて噛みつく枝を、大きな手がひとまとめに掴み直す。
 潮時だ。
 握り拳をつくった左手の甲を唇に押し当て、 イスラはひときわ強く、息を吹いた。
 ビ、ビィ、ィイイイ―――――ッ……
 高々と濁った音が鳴り渡る。鳥が群れごと飛び立ち、枝をとかげや栗鼠が駆け抜ける。息をひそめていた一帯の森が、生きものの警戒をまとって騒ぎ出す。
 牧童が獣よけに鳴らす、カケスの警戒音をまねた音だ。
 男がルチアから視線を外して、顔をあげた。それで十分だった。
 イスラは塀の陰から飛び出す。勢いを踏み込んだ左足に乗せて、ふりかぶった右手の小瓶を、男の顔面めがけて投擲した。
 男は顔面にせまった投擲物を、短刀を握った拳で払い……薄いつくりの硝子の小瓶は、木っ端みじんに砕けちった。
 中身の赤い粉末が、煙のように飛び散る。
 一拍置いて、男は跳ね飛んで距離をとった。
 イスラはルチアに走り寄る。引きずるようにして赤い煙の下から引っ張り出すと、うずくまっていたルチアが顔を上げた。
「怪我は」
 ルチアが首を横に振ったのを見届けてから、男に向き合う。
 男が腕を持ち上げ、短刀の刃を上向けて握りなおす。
 視線を男に据えたまま、イスラは右腕を伸ばした。ルチアの腰の後ろ、大きな蝶結びになった帯の結び目を鷲づかむ。ルチアが頭を動かした気配が、髪をつたって腕に触れる。
 男が短刀を前に突き出し、地を蹴った。
 イスラは左足を軸に体をねじった。右足を一歩引きながら身を低め、ルチアを背中側へ引きずり倒す。帯でもって引っ張ったルチアの体を、イスラはそのまま、地面すれすれに、放り投げた。
 ……危機において、人は思い定めやすいものだ。
 意志が強ければ強いほど、真摯であればあるほどに。むしろそうした真摯さこそが、疑いの入り込む余地のないほどに、人に思い定めさせるものだ……他人をかばうような者ならば当然、自分と同じく、腕におぼえがあるのだろう、と。
 男も同じだったのだろう、疾駆の勢いが戸惑いにぶれる。
 わずかの逡巡の間にも、投げ飛ばされたルチアの体は小石のように飛んでいく。小瓶とはさすがに勝手が違う、イスラも重心を引きずられ、後ろざまに倒れかかる。
 足がはねあがり、革の長靴の爪先が光る。半ば口をあけていた男が、瞬間、かかとで踏みとどまった。勢いを靴底で擦り潰しながら、無理やりに飛び下がる。
 彼の腕をかすめて、イスラの爪先から飛び出した刃が、つうと光を弾いた。イスラの体が倒れて、草に埋もれるや、刃も折りたたまれて見えなくなる。
 イスラが手をついて、体を起こした。背中側に立つ男に改めて向き直る。
「何者だ」
「腕」
 イスラが指させば、男はあからさまに怪訝な顔をした。
「あなた、腕は、大丈夫ですか」
 自分の体を見下ろした、男の動きが止まる。愕然と腕から手のひらにかけてを辿ったまなざしが、刺す勢いでイスラに移る。
「何をした」
「カタミササゲの粉です」
 遠目にもわかるほどはっきりと、男の目元がゆがんだ。
 既に赤黒く変色しつつある、肌の色を確かめながら、イスラはにじるように距離を取る。
「放っておくと体じゅうふくれて丸太みたいになりますよ。ここは下がってもらえませんか」
 男の靴が、草を踏みにじりながらじわりと動く。
 イスラと見合ったまま後退すると、男はひといきに飛び下がり、木々の間へと駆け去った。外見からは想像もつかないほどに静かな足音が遠ざかる。
 徐々に森のざわめきが収まってきたころになって、イスラはようやく、細く息を吐いた。
 と思うが早いか、少し離れた場所のルチアにずかずかと歩み寄る。
 ようやく上体を起こしたルチアの両脇に腕を差し入れて、猫の子を持ち上げる要領で立ち上がらせる。猫が鼻先を弾かれたときのように、ルチアの目がぱちぱちと瞬く。
 イスラは重々しく断じた。
「体を洗いましょう」
 細やかなひだと糸細工がたっぷりととられた服は、どこに粉が入り込んでいてもおかしくない。
 ルチアはおろおろと自分の体を見下ろして、ついには視線を、すっかり風通しのよくなった家の方までさまよわせる。
「あの、着替えを」
「粉を落とすのを優先します。言ったでしょう、ついたままだと、下手すると腕が抜けなくなりますよ」
 手をとったまま歩き出す。今度はためらわず足音がついてきた。

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