20190925序章表紙

憑羽に寄す:四 水面下

 ……風が鳴っている。
 びゅう。じゅう。じゅっ、ざ、ざざざ。強い風が、谷の隘路を通り抜けるときの、か細いような唸り声のような音。絶えずたゆまず、聞いているこちらを苦しくさせては、知らぬそぶりで消えていく。ばたん、ばたんと、風に打ちつけられる扉の音が、ときおり唸りの間に混じる。
 近い場所だ……とても。
 どこから? 耳の奥、喉の奥……肺の腑の底。
 気づくと一気に息苦しさがせり上がってきてイスラは跳ね起きた。
 敷布の上に四つ這いに体をささえ、背骨をたわませて、思うさま咳き込む。
 吐く息がなくなったあたりで、新しい空気がひとりでに鼻腔に吸い込まれていくのを待つ。つぶれた肺が次第に膨らみ、また咳が吐き出されるに任せる。
 そうやってしばらく、最低限の呼吸だけしていると、次第に喘鳴も引いていく。ばたん、ばたん、ひとりでに床を叩いていた枝も、次第に大人しくなっていく。
 イスラは瞼をあけた。親指の付け根で口端を拭う。
 白い光が四角く床に落ちている。戸のない木枠だけの窓から、光の切れ端が入り込んでいる。
 滲んだ月が出ていた。既に空の端はほの白く、明けの色にかかってている。敷布がわりの外套のところまで、ぼんやりとした白が入り込んできて、散らばった染みの斑点を浮かび上がらせている。
 イスラは喉をさする。昼間のうちにルチアに案内された、比較的傷みの少ない廃屋であっても、もともと頑丈でない体に春先の夜風は響いたようだった。
 このまま転がって眠ってしまいたい思いもあったが、ざらざらと荒れて張りつく、喉奥の感覚は耐え難い。
 四つ這いのまま、膝でいざって、窓際の荷物の傍へ寄った。硝子瓶に詰めた鎮静剤を
 干すとひりひりと喉が痛む。
 喉を反らして、イスラは顔を上げる。
 ……月明かりのなかに、白い塊が見えた。
 イスラはよろめきながら立ち上がった。窓枠に指をかけて、顔を寄せる。
 広場の中央、井戸の傍に、白い獣があった。
 四つ足の獣のようだった。後足の二本を畳んで、犬が主人の前でそうするように座り込んでいる。犬、ととっさに思ったが、姿かたちまで似ているとは見えない。背中から頭の後ろにかけて、たてがみのように白いものが生え出ている。耳だろうか、百合のつぼみに似た突起を生やした、口吻の長い頭部は、狼のものにも、鹿のものにも見える。
 なにより、イスラの知る獣でない証左には……随分と大きい。窓からの見えた、前足のつけ根あたりが、森の木の梢の高さほどにもある。
 獣の肩にはルチアが座っていた。小さな体が、獣の毛に半ば埋もれて、磔刑の死体のようにくっついている。
 イスラはしばらく息を詰めていた。瞬きを繰り返す……一度、二度。
 次に瞼をあけたとき、白い獣は、消え失せていた。
 何もありはしなかったように、青い明け空が広がっている。ルチアの姿も共にない。
 どくどくと鳴る胸を押さえて、イスラは扉のない入り口をくぐった。
 露で靴を濡らして草を分け、井戸のそばに立ち止まる。井筒のまわりを一周しても、目につくものはない。
 いったい、自分は何を見たのか。
 頭を振って後退ったとき、踏みしめたはずのかかとがぐらついてイスラはよろめいた。
 肩越しに振り返って、息を呑む。
 ……井筒ほどもある、大きな丸いくぼみが、下草を押し潰して忽然と出現していた。

 シウス国北端、国境の森において、詰め所の森番には休暇の申請が許可されている。
 大陸最大の国土と歴史を誇る「南の大国」は、東西に横たわる広大な森林地帯に国土の北端を預けている。小国が群れ集う北方諸国との実質的な国境、空白地帯の森林への監視は、その実かなりゆるやかだ。詰め所はまばらに六箇所のみ、不寝番が立つことも普段はない。なんとも大国の鷹揚さよと、揶揄する声はしかし真実ではない。
 国の威を掲げて刈り込むには、北の国々は小さすぎるからだ。
 野蜜蜂には針があるが、進んで人を刺しに来ることはない。人のほうから巣をつついてまで得る利も薄い。近年大きな鉱泉を掘り当て、燃霧の採掘が安定しはじめているシウスにおいて、北の小国群は野蜜蜂の巣のようなものだった。
 実際の警邏は、森の詰め所より徒歩で一時ほどの関を拠点に、ユステ北方公家が受け持っている。有事の初動においても、彼の家の兵が、私財を投じて駆り出される手筈となっている。
 王弟の血に連なるこの大家があるだけで、北の帝国連邦への示しとしては、国の内外ともに事足りる。森に立ち入る人は実質ユステの許可を受けたものであり、森番が今や名のみの閑職になりかけていることは、ことユステ領内の者なら、よく知っているところだった。
 それがために、夜が明けるころ、森に入っていった二人組を、見とがめるものはいなかった。
 木々の梢を越えようかという、岩肌も荒々しい崖の下に、ふたつの人影が佇んでいる。
 いずれも暗い色の外套に身を包んでいる。宵口の暗がりに輪郭を薄められて、人間の目では細めたところで見えるかも怪しい。それでもふたつの人影は、執拗なほどの長い間、黙って岩肌を見上げ続けていた。
「この上だわ」
 ふいに外套姿の一方が動いた。投げるように指をさす女の声は、歳月を乗せて掠れている。
 傍らのもうひとりは、幾分高い声色で、早口に反論を試みた。
「相手は医者です、山羊じゃないんですよ。そんなことってあります?」
「今は、相手の素性の話をしているんだったかしらね」
 若いほうが黙り込む。女は嘆息ひとつ、反対側の手を挙げる。
 崖の途中、岩肌からにじみ出るように石がせり出している。大人の拳ひとつぶんほどのでっぱりに、土と葉が積もり草が芽吹き、崖のさなかに小さい緑の飛び地をつくっている。
「そこと、その上の岩棚。土が滑り落ちている」
 ついと指先が地面に下りる。
 土がかすかにくぼんで、落ち葉がくぼみの周りへと押しやられている。よくよく見てやって、ようやくそれと感じ取れるもの……葉の上に押された大きな靴痕が、彼ら二人の間を割いて、まっすぐ岩肌に向かっている。
「途中で足跡が途切れているとあなたは言ったけれど、実際には、自分の足跡をそっくり踏んで戻ったのね。
 適当なところで横に飛べば、まっすぐ追ってきたあなたの目には、途切れた足跡ができあがる。
 追っ手に無駄骨を折らせている間に、ここまで戻ってきて、崖を上がって北へ逃れた」
「わざわざ?」
「足跡の細工がばれたとしても、この崖を登るなら、私たちには準備がいるでしょう。確実に時間を稼げる」
 若者がうへぇ、と舌を出す。外套ごと大げさに肩を竦めるのを、女は咎めなかった。
 素性は関係ないと若者には言ったが、実際、腕利きの猟師と言われたほうがまだ信じられたろう。目標が医師、それも貴人のお抱えであるところの、実質学者にあたる研究医師だというならば尚更だ。
 目標に対する認識を、改める必要があるらしかった。
 女が頭の覆いを外した。穏和な表情を引き締めた、レーカの顔があらわになる。
 レーカは左手の甲に唇を押し当て、息を吹く。
 人の耳に聞こえる音はなかったが、目に見える変化が代わりにあった。
 ほの白い空からまっすぐに、黒い影が下りてくる。
 レーカが外套の下から右腕を持ち上げる。右腕は肘のあたりから、手のひらのない木の義手に、厚く布と革を巻いて金具で留めた、止まり木へと置き換わっている。
 影はレーカの伸ばした腕のそばで、宙で足踏みをするように羽ばたいて、音なく留まる。
 羽をたたんで一抱えもあろうかという、大きな鴉だった。レーカがくちばしのつけ根をかいてやると、白い下まぶたを持ち上げて目を細める。翼を根元から持ち上げては、和毛を震わせる鴉に、レーカは喉を鳴らして話しかける。
 クク、カウ……鴉が鳴き声をあげて、レーカの腕に太いくちばしを擦りつける。
 幾度か鳴き交わしてようやく、レーカは傍で指示を待つ若者に顔を向けた。
「「庭」に戻りなさい。追跡は私が引き継ぎます」

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