20190925序章表紙

憑羽に寄す:三 ルチアという娘

「申し訳ありませんでした」
 口を開くや、娘は深々と頭を垂れた。
「出会い頭の狼藉、どうかご容赦ください。わたしはルチアと申します」
 イスラは胸の前で手を振る。
「かまわないでください。こちらこそ、その、脅かしたようなものでしょう」
 ルチアが顔をあげる。薄い唇の端が緩んだ。
「おかしな方。ケレストでは、皆そのように礼儀正しいのですか?」
「そういうわけではありませんが」
 自分の言いようを振り返ると、いかにも動揺が滲んでいて、今更どうにも照れくさい。段々とイスラの声が小さくなる。
「ただ、話に聞く「枝の人」に、こんな形でお会いするとは思わなかったものですから。なんというのか、その、拍子抜けしてしまって」
「話に聞くとおりの怪物でしたか」
「まさか」
 ルチアの年頃は、イスラよりいくらか幼く見える。頭の後ろで編み込まれ結い上げられた髪の束が、朝日の金色に輝いている。
「見た目通り、人でしたよ。僕と同じに」
「面映ゆいこと。……あら」
   ルチアが首を巡らせる。イスラも彼女の視線を追った。
 遠く、木立の暗色の中を、四つ足の影が横切っていく。鹿だった。
 立ち止まって耳を立てているものもいるが、しばらく見つめたあと再びゆるやかに歩き出す。開けたところまで近づいてくる様子はない。
「イスラ。銃をお持ちですか」
 イスラはルチアの横顔を見やる。
「鹿が、あなたのことを、ひどく気にしているようでしたから」
 銃器の類は持っていない。
 しばらく自分の体をあらためて、イスラは外套の中から手を差し出した。目の詰んだ生地を縫い合わせた、小さな袋が載っている。
「カタミササゲの葉を。獣よけになるかと」
 季節を問わず、真っ赤な三つ葉をつけた低木の枝葉は、肌に触れるとすさまじい痛痒さと腫れを引き起こす。
 食べることもできないこの木を嫌って、たいていの獣も匂いのするものには近づかない。だからこそ猟師を除けば、森に入るものは大抵が、この葉の粉を持ち歩く。
「ああ、でも、気を付けた方がいいかもしれない。先ほど狼の群れと行き合いましたが、効いていないようでした」
「気が立っていたのでしょう」
 何気ない調子でルチアはつけ加える。
「わたしが近くにいましたから」
 イスラはルチアの顔を見返した。
「あの鹿も同じです。食べられないもの、おかしなもの。自分たちよりも強いものには近づかない」
 言葉に迷うイスラの前で、ルチアは歩き出した。数歩行ったところで、わずかに振り返って手を広げてみせる。
「イスラも枝をお持ちです。出しておけばここでは安全ですよ」
 イスラは少し黙って、外套を抱え直して後を追った。
 ルチアの白い服の裾に枝葉の緑が跳ねる。繊細な刺繍の上、くすんだ点が増えていくのが気になったが、本人は迷いのない足取りで下草を分けてゆく。
 ほどなくして、強い光が差し込んできて、イスラは目を細めた。
 厚い木々の壁が途切れる境目の向こう、金緑色の光のなかでルチアが笑っている。
 イスラはしばらく立ち止まって、そっと一歩を踏み出した。
 大きな湖ほどもあろうか、森の中にぽっかりと、草地が広がっている。それこそかけすの目でもっと空から見下せば、木々のふくらみのなかに、まるい穴が開いているように見えるのかもしれない。
 草原の中に踏み込めば、崩れた石が積みあがっているのが見える。
 廃村の跡地だ。最後の戦争が終わり、協定が結ばれた後、立ち去った人の住処の名残だ。
 ルチアが先を行く。イスラはあたりを見渡しながら、短い草を靴の先で分けて、黒く土の見える部分を踏んで歩く。
 土と藁でふかれた屋根は多くが崩れて、石垣のふちにかろうじて残っているほどだ。崩れず形の残った家も、屋根には細かな緑がこんもりと茂っている。土を掘って石を組んだ、下水の側溝の上には朽ちた木の板がふたをしていて、日陰の部分には小指の大きさほどの茸が列をつくっている。
 まばらな家のあとを抜けると、開けた場所に出る。かつては通りにつづく、村の広場だった場所だろうか。中央には石を積み上げた、井戸の縁石が残っている。
 イスラは井戸をのぞき込む。遠く、真っ黒な底の暗がりに、ちらちらと光が揺れている。積み上げられた石筒の隙間には草が生え出て、すっかり廃墟の一部だが、湧水は生きているらしかった。
「あなたは、ルチアはずっとここに住んでいるのですか」
「何日くらいかしら」
  考え込むように傾けた首を、ルチアはそのままめぐらせた。
 影をつくった軒の下、草が並んで踏み倒された場所に、丸い石が並んで白く光っている。
 遠目に石を数えて、ルチアはイスラを振り向いた。
「ひと月と、ちょうど三週です」
「ずいぶんと最近ですね。古い樹怪ではなさそうだ」
「もちろんです」
 ルチアが笑い出す。ひとしきり笑ったあと、廃村を囲む森を見やった。
「本当は引っ越してきたんです。どこの森も人手が入って……ここなら当分なくなる心配はありませんから」
「ああ、それで」
 世の人の暮らしぶりは、ここ数年で大きく変わってきている。
 皇帝陛下のお膝元となる帝都ともなれば、夕暮れにはひとりでに明かりがともり、点灯夫の仕事こそが風前の灯。草原には鉄の蒸気車が、馬のいななきよりよほどけたたましい唸りをあげて、線路の上を走っている。石炭に燃霧、化石燃料なるものの採掘が急速に進められ、深い森は線路の行く手の障害物として、邪険に斬り倒されることも増えてきた。
 一方で、地方の日々の糧ともなれば、薪に頼るところもまだまだ多い。結局今も森林は貴族のひと財産だし、村々の共有林は蟻に見つかった角砂糖の体で減り続けている。
 南の大国シウスであっても、燃料に関する事情は近いもののはずだ。
「確かに国境の空白地帯を、大掛かりに伐採しようという人はいないでしょうね」
「誰もいらっしゃらないのをいいことに、宿をお借りしています」
  冗談めかした言いぐさがおかしく、今度はイスラも笑う。
 ひとしきり笑いの波が収まったころ、ルチアがこちらを覗き込んでいるのに気がついた。
「イスラの目は、緑色なんですね」
 イスラはぱっと眦に指をやった。ルチアを窺う。
 彼女に怯えた様子はない。大粒の、赤い両目が、ひたむきにイスラへと注がれている。
「とても薄い……真冬の水に張る、氷の色です」
 動揺を飲み込んで、イスラは頷く。
「珍しい色なのは確かです」
 身の置き所なく動く、イスラの枝の先を追って、ルチアが井戸を回り込んでくる。
「枝は赤なんですね。触ってもかまいませんか」
 イスラは少し黙ってから、外套の合わせを割った。体に巻きつけている、残りの枝をほどいて、ルチアの前に差し伸べる。
 牡鹿の角のように先の別れた枝を、ルチアはそろえた両の掌で受け止めた。
 なにか確かめようとするときの丁寧さで、指が枝の上をたどる。とがった先端を撫でて軸を持ち上げ、背中側へ回ろうとするルチアを、イスラは横目に観察した。
 ルチアの枝は真っ白い。付け根が見えるはずの背中のあたりは、細かな繊維の集まりに埋もれている。繊維はやわらかいものらしく、ルチアが手を伸ばすしぐさひとつにも、ふわりふわりとさざ波が立つ。そうしたいかにも柔い和毛の中から、遠目にもわかりやすい硬質な枝が、蔦の若芽か何かのように、うねる先端をを伸ばしている。
 そもそもが薄く鋭利なイスラの枝とは、形もつくりもだいぶ異なる。特にこの大きさだ。イスラを真似て外套をかぶったところで、人目を引くのは避けられない。
「ほんとうに、生えているんですね」
 突然、こそばゆさが背中を駆け上がってきて、イスラは吹き出しそうになるのをなんとか踏みとどまった。
 包帯の隙間、枝の生え際をなぞりおえたルチアは、指を丸めて手を離す。
「ほんとうに、あなたは」
 それきり息を詰めてしまう。イスラは首をねじってルチアを振り向いた。
「ええ。僕も憑羽です」
 憑羽。ある日突然、背中の肌を破って木の枝に似た異物が生え出る奇病は、そのように呼ばれている。
 最もわかりやすいのは発症初期。患者には高熱と動悸、咳を発し、背面を中心に枝が生える。幾度切り落としても生え出るこの枝は、薬師にもまじない師にも手に余る。悪ければ干からびて死に至り、遺体からは枝がはびこりなお育つため、焼き払うよりほかに対処はなく、墓に収めることもできない。たとえ熱が下がって生き延びても枝は残るため、患者の多くは近しい人の手にかかる……
 医学書と呼ぶにも怪しい、地方の口伝をまとめた走り書きの一文が、おおむね的を射ていることは、イスラも身をもって知っている。
「憑羽、枝つき、樹怪憑き。わたしのほかにも、いらっしゃったんですね」
「同じことを思いましたよ」
 正体のわからぬ、不治の奇病。祖父や曾祖父の時代であれば、恐ろしくはあれど、そう珍しいものではなかったはずだ。
 だが、病は変わらなくとも時世は変わる。病原体……病の原因となる小さな生き物が、シウスの医師の手で発見されてから、病の暗闇には急速に光が当たるようになった。
 変化は医術に限らない。燃料の変化は言うにおよばず、貧しい子どもでも街の教師にあたれば四則演算とここ百年の歴史くらいは学べる。帝都の通りを行けば改修される家は日々増えていき、今や工事の行われていない区画の方が珍しいと聞く。
 そうして世のあらゆることに、明瞭な理屈のついた今、こう考えている人のほうが増えている……「説明できないものとは、未だわからないものではなく、もとから存在しなかったものなのだ」と。
 かくして魔物も怪物も、おとぎ話の住人となって久しい。学舎に通う年頃の子どもにさえ、鼻で笑われるといえば程度も知れる。
 そんな「いないはず」の怪物が、突然目の前に現れたとき……ルチアに近しい人間は、彼女をどう扱ったのか。
「……枝の形は、ずいぶん違うようですけれど」
「わたしも驚きました。今までは比べようのないことでしたから」
 イスラがどうにか引っ張り出した言葉にも、ルチアは生真面目に頷き返す。
「イスラの枝みたいに、細ければ、隠すこともできるのでしょうけれど」
 イスラは、はたとルチアの顔を見つめた。
「白い怪物」という言葉が頭をよぎる。ついで、自分が外出を許された理由を思いめぐらす。
「ルチアは、ここで、どのように暮らしていらっしゃるのですか」
「どのように、ですか?」
 ルチアが首をかしげて同じように見返す。
「今のお話だと、人里からは隠れ続けていらっしゃるのですよね。街に下りなくても、水場と食べ物の確保ができるなら、ぜひ教わりたいのです」
 ルチアが戸惑ったふうに視線をさまよわせるのを確かめて、イスラは続ける。
「もちろんただとはいいませんよ。おっしゃるとおり、枝を隠せば、僕は外の街にも出られます。仕事柄、売り買いすることも多い。
 欲しい食べ物や道具があったら、教えてください。買ってきます」
 外套を腕で持ち上げて、帯に吊った荷物を示す。
 ルチアは目を真ん丸に見張って、イスラと、並んだ荷物とを交互に見ている。
「イスラ、ここに住むのですか」
「そのつもりです」
 イスラははっきりと頷く。
「崖の岩肌で瑪瑙が取れるんです。石自体はありふれていますけれど、彫刻すればいい飾り石になる」
 これは本当だった。川をつたって流れてくる石には、瑪瑙の入っているもの、とりわけ彫刻に向く鮮やかな縞の瑪瑙も数多い。
「あたたかい季節のうちに、数を拾っておきたいんです。ここなら雨風をしのげる屋根もあるし、街まで戻る手間もない。僕にとってはいい場所なんですよ」
 先客がいらっしゃるとは思いませんでしたれけど、と付け加える。
 ルチアがうつむく。
 イスラが様子をうかがっていると、やがて視線に気づいたのか顔を上げた。
 大きな目の縁、眦の薄い肌が赤い。
「なんだか、嬉しいです」
 唇が言葉を選びながら動くのを、イスラは見守った。
「人の暮らしている街と、かかわりをもつなんて、もうできないんじゃないかって思っていたから」
 何か、胸がふさがるような心地がして、イスラは視線をさまよわせた。
 そんなイスラの視線をつかまえるように、ルチアが首を傾けて覗き込む。
「優しい方でよかった」
「こちらの台詞です。ここでお隣さんができるとは思っていなかった」
 ルチアの目元の朱が濃さを増す。それを隠すかのような勢いをつけて、彼女はぱっと姿勢を正した。
 膝頭と両手の指先をそろえて、地面にぬかずく、深い礼をとる。
「どうぞ、よろしくお願いします」
 ルチアの背中……開いた衣の背中で、白い枝が大きく揺れるのを、イスラはじっと見つめていた。

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