憑羽に寄す:二 邂逅
ケレスト帝国連邦最南端、ほとりの街はその名の通り、広大な国境の森の北端に、寄り添うように位置している。近づくほどに見上げる丈の梢が重なり合う、深い森を越えれば、もう隣国シウスの土地だ。
ほとりの街は、かつてケレストが帝国連邦の枠組みを成す前、領邦国家の散らばる原野だったころに作られた。国境にほど近いこの場所に、隣国シウスへの警戒の場として設けられたのが始まりで、街を覆う堀と外壁はその名残だ。戦争が終わった後も、商人が居着いたり、兵士が家族を呼んで暮らしはじめたりと人が集まり、今のかたちの街が出来上がっていったという。巨大な石組みの外壁は、戦争終結から五十年近くが過ぎ、人が帝都に集まりつつある今も、街の守りとして大切に使いつづけられている。
南門へ向けて、街の通りを一歩進むごとに、水気を含んだ若葉の匂いが近づいて、イスラは目を細めた。枝葉の先端だけ明るく色づいて、緑に燃え立つ春先の森は遠目にもまばゆい。
……ぶるる。
馬の鼻先に背中を押されて、イスラは緩んでいた歩みを再開する。
今年の夏で二歳を迎える、青鹿毛の馬は機嫌がいい。年若い気ままさで乗り手をからかおうとするのが困りものだったが、イスラを乗せるときは遠出ができることが多いからか、比較的素直にいうことを聞いてくれた。
「いや助かったよ。ヤノシュさんが早めに戻ってきてくれて」
街の南門の傍ら、上着の袖に薄水色の紐を巻いた門衛の若者は、にこにことしてヤノシュから馬の手綱を受け取っている。
「後のことは心配しなさんな。姿は見えなくなるかもしれんが、直接本邸に戻ることもあるからな」
「ええ、そりゃあ。ご領主直々の御使いが来てくださったんなら、皆安心しますよ」
若者はちらとイスラを見やって、黙って手を差し出した。青鹿毛の鼻面を軽く叩いてから、イスラも手綱を引き渡す。
ヤノシュに追いついたイスラの前で、丸木組みの門扉が持ち上がる。
森へ続く一本道は、人の行き来が絶えたことで再び緑色に覆われはじめている。大柄な男が、細い若草を踏みながら、ちょうど街のほうへと向かってくるところだった。
ヤノシュとすれ違うまで数歩というところで、男は無言で体を寄せて道を譲った。
ほとりの南門へと向かって遠ざかる狩人装束の、くすんだ茶色の背中を、イスラは首を傾げてしばらく見送った。
「イスラ。行くぞ」
ヤノシュに呼びかけられて後を追う。
木立の合間に踏み込むと、水と葉の匂いはいっそう濃くなった。
待っていたかのように、頭上の枝に青いカケスが降ってきて、ジェイ、ジェイ、と鳴き騒ぎはじめる。
ぽんと放ってよこされた布包みを、イスラは両手で受け止めた。つんと鼻を刺す、独特の香気を放つそれを、紐で帯に結びつける。
「ありがとうございます」
「気にすんな。仕事だ仕事」
ヤノシュは片腕を持ち上げて長銃を示す。
「先に「宿」へ寄る。白い怪物がなんにせよ、これだけじゃ心もとないからな」
「ええ」
まばらなを下草をときおり分けて、足音がふたつきり交互に響く。
杉は薪に、楡は配管に、楓は貴重な糖蜜に。恵み豊かなこの森を、まさしく自分たちの領土にしようと考えたのは、森を挟んだ両国とも同じ、かなり古い時代からだったらしい。時が移り、国の有様が変わる間にも、幾度となく軍が遣わされ、小競り合いが繰り返され、けれども結局、両国とも目的は果たされなかった。
森は確かに恵み豊かで、そして深い。そこここに盛り上がる木の根はまだしも、シウスから見下ろす形に緩やかに傾斜した土地には、大小の崖が隆起して、よほど訓練された乗り手と稀有な名馬、あるいは山羊の足でもなければ、自由に上り下りするのは難しい。
大きな軍勢が移動するのは尚更だった。成果のないまま、軍は消耗し人は倦み、なにより戦費が国庫を圧迫した。両国ともに、荒れ果てた焦土を手に入れるような暴挙には出なかったことが、今となっては幸いだったか。
こうして徒労が繰り返された末、かつての指導者たちは賢明な道を選んだ。
国境の森林地帯は今、どの国もが領有の権利を凍結された、空白地帯として定められている。森の縁辺を監督官が警邏し、少数が立ち入ることは黙認される場面もあれど、居住することは流れ者に至るまで禁じられた場所だ。
そういうわけで今に至るまで、人の入るのはごく浅く、ケレスト側ではそれこそ枝折れの大杉のあたりまでだった。石炭や燃霧(天然ガスの一種)の採掘が優先されるようになってからはますます人目も遠のき、あとは鹿の跳ねるがまま、手つかずのままになっている。
「まだなんかあんのか」
問いかけられて、イスラは顔を上げる。顔を上げて初めて、また知らぬ間に考え事に耽っていたと気がついた。
「そんなに、ぼうっとしていましたか」
「だいぶな。仕事に差し支えてもなんだ、吐けるもんなら吐いちまえ」
「お言葉に甘えます」
イスラは苦笑する。
「ヤノシュは、白い怪物をどう思われますか」
「どう、ってのは」
「何者だろうかという意味です」
「さあなあ」
ヤノシュは首を捻る。
「鹿か猪。でなけりゃ狼の霜月毛(白変種のこと)あたりを見違えたか」
「だとしたら、不思議な話ですね」
イスラはヤノシュの足跡を踏んで歩く。
「春先の獣が、人里近くまで来るなんて。よほど空腹だったのか。
四つ足を人に見間違えるというのも……見間違うことがあるとして、枝というのはなんでしょうか」
「出たよ、イスラの「不思議ですね」が」
ヤノシュは荷物をかけた肩を器用にすくめる。
「俺たちは怪物を捕まえりゃそれでいい。好奇心はかまやしねえが、なんのために出してもらったか覚えておけよ」
イスラは瞼を伏せて笑った。
「心得ておきます」
しばし歩くうち、道が開ける。
立ち木が途切れてしばし、壁のような断崖が木の丈を越えて立ち上っている。崖の裾、赤茶けた岩肌の割れ目から水が伝い落ちて、十歩ほどの幅の川をなしている。
ヤノシュが銃を担ぎ直して、川を渡りはじめた。苔のない灰色の石を選んで、器用に飛んでいく。
イスラは浅瀬の岩のそばで立ち止まった。川を越えたヤノシュが振り返ったときも、木立の間を見つめている。
「ヤノシュ」
「おい、なんなんださっきから」
「今まで、獣避けが役に立たなかったことはありますか」
「はあ?」
ヤノシュは外套を持ち上げて、自分の帯を見下ろす。先ほどイスラに投げ渡したものと同じ、小さな布包みがつるされている。
「ねえよそんなもん。あったら獣避けにならんだろうが」
イスラは頷く。
「ではヤノシュ。また後でお会いしましょう。外出先ではぐれたときの対処は規定どおりに」
ヤノシュがぽかんと口をあける。何か言おうとして……すぐに閉じた。
沈黙が落ちれば、さあさあと水の音が突然に大きく響きはじめる。
ふいにイスラが木々の間へと駆け出す。直後、灰色の塊が四つ、あとを追って弾丸のように飛び出した。
狼だった。
ガアン!
ヤノシュの銃が煙をあげる。四頭の狼は礫のように四方へ散ったが、すぐに身を返し、イスラを追って崖沿いに走り出す。
人と獣の足では勝負にならない。いくらも行かないうちに、イスラの背後に追いついた一頭が、獲物を引き倒そうと飛びかかる。
イスラの外套の下で、何かひらめく。途端、跳ね上がった狼がギャッと声をあげてもんどりうった。
白灰色の鼻面からひとすじ、赤い血の玉を飛び散らせて、横っ飛びに飛び離れる。逆側から跳ねかかったもう一頭も同じように弾かれて、追いついた三頭目がためらうすきに、イスラは大きな樫の根本にたどり着いた。
ひと三人でやっと抱えられるような幹を見る間に上って、横に張り出した樫の枝の根本を足をつける。
ほどなく狼の群れが集まってくる。
うるるる、ぐるるる……幹をはい上ってくる唸り声に囲まれながらイスラは息をつく。
数の少ない群れだ。鼻を裂いたのと同じやり方で、無理やり追い払うことはできるが、木に登れない狼が諦めるのを待ちたかった。
唸り声が止んだ。イスラは葉の間から下を透かし見る。
群れの中でひときわ大きい、首回りの毛の白い一頭が首をあげた。鼻先をめぐらせて、囁くように細く鳴く。
途端、狼は灰色の流れになって、木立の間を滑り走っていった。
遠ざかる群れを見送ったのも束の間。ぱきり、と、枝が鳴って、イスラは目を細めた。
なにかいる。
狼ではない。彼らの毛皮よりずっとまばゆい、白いものがゆったりと、森のなかを近づいてくる。
それは白い……鳥の翼のように見えた。鳩が飛び立とうとするときに、なかば持ち上げられて広げられかけた、人の腕ほどもある大きな翼。
目を凝らせば、幾筋もの細い枝が絡み合っているのがわかる。真っ白な蔓草のようなそれぞれが、伸び広がっては絡まり合って、翼のような塊をなしているのだった。
白とは、こんなにも目立つ色なのだと、場違いなことが頭に浮かぶ。
枝の付け根には、娘がいた。
白い服、白い頬。枝のほかは、どこから見ても、年若い人間の娘だった。
「……」
イスラは目を閉じた。木の幹に背中を預ける。
眩暈をしのぶときのように、息を吐いて、吸う。きっかり十を数えて瞼を上げ、もう一度下を窺えば、娘は変わらずそこにいる。
これが「白い怪物」だとでもいうのだろうか。こめかみが痛むような思いさえしながら、見つめていたときだった。
……目が合った。
枝のひとふさ、ねじくれ巻いた先端が震える。蛇が鎌首をもたげるしぐさで、枝の先がまっすぐに、イスラの隠れる梢枝を向いた。
見られている。イスラは直感した。
娘が肩越しに背中へと目をやったあと、ぱっと枝の指す先をふり仰ぐ。
イスラは枝から滑り下りた。
「おくつろぎのところ、失礼いたします」
娘は動かない。真っ赤な……雪原に実る、雪いちごのような両の目が、まっすぐとイスラへ注がれている。
イスラは一歩を踏み出した。
……しゅう。
枝が動く。
先端が次々と裂けて開いて、牙が舌がひらめき燃える。絡まった翼から蛇の頭へと、見る間に形を変えたものが、娘の背中で一斉に体をたわめた。
しゅううう……風のような唸り声が、どこからともなく聞こえてくる。
「ケレストの細工師、イスラと申します。この森に、枝の生えた人が暮らすと聞いて、こうしてまかりこしました」
娘はやはり動かない。まばたきひとつなく、ただイスラを見つめている。
視線を合わせたまま、イスラは外套の留め金を外した。
外套の落ちた上体に、街の住人が好んで着込む、丈の短い上着はなかった。
包帯のような細い布が、上体一面に巻かれている。白い布地が交差する上に、蔓草をあしらったような赤い模様が、これも交差して施されているだけだ。
その模様が、ふいに、ずれる。
娘がはじめて、まばたきをした。
赤い模様がゆっくりと布から剥がれていく。模様は落ちることなく、ひとつながりに宙に広がり、伸びかけた若木の体でイスラの背中に収まった。
鳥が翼をそうするように、ぱさり、赤い枝がうち振られる。
「お尋ねしたいことがあります。あなたは、僕と同じものですか?」
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