憑羽に寄す:六 ユステのルクレツィア
刈り込まれた草の間、石畳はすり減ってふちが丸くなっている。
赤みの強い煉瓦を敷き詰めた、人の歩くための道だ。両側の丈高い家に挟まれて、こつこつと音の跳ねる硬い道は、草を分けるに慣れた靴だと、とまどうほどに歩きやすい。
南の正門をくぐって、ティーアの街路を真っすぐに行けば、やがて水路に行き当たる。ひときわ幅の広い外周と、冬も葉をつける並木に隠されて、古い時代の護城の堀を、そっくり小さくしたようにも見える。
水路の傍で立ち止まって、イスラは並木を透かし見た。
石造りの屋敷が立っている。赤みの土色の上に整列する白い窓枠、灰色の屋根……その上に生える煙突。屋根の中央に生えた、ごく小さな時計台の尖塔は、近隣の時計代わりにもなっていることを、住人ならば知っている。
遠目には、古い時代を思わせる、おおらかな印象のつくりだが、こうして近づくにつれ、細かなところにはびっしりと細工がほどこされているのがわかる。
目に見えない、権威というものを、形にするとこうなるのだろうか。
ティーア本邸を正面から見上げるたび、イスラはそんな思いにとらわれる。
ヤノシュの後に続いて、イスラは細く引いた扉の隙間から、内側へ滑り入る。玄関広間を抜け、艶々と磨き抜かれた樫の手摺をつかんで、二階の廊下へ上がる。
ちょうど正面から歩いてきた客間女中が、イスラを見とめて歩みを緩めたが、軽く目礼したきりすれ違っていく。
二階廊下の最奥には、ここまでならんでいたものと大差ない大きさの扉がひとつ。これも玄関とは打って変わって飾り気のない、扉の把手を掴んで三度鳴らす。
「ただいま戻りました」
中からの応えを待たず、イスラは戸を押し開けた。
大きな一枚の硝子をしつらえた、嵌め殺しのすきとおった窓。
左端には小さな応接机。座椅子ひとつが向く先には、重々しい帳が開け放たれて、外の広大な森と、その中を真っすぐに裂く道がよく見える。
イスラの正面、周囲を周るだけで十歩はかかりそうな書斎机の向こう側で、椅子にかけた人影が振り向いた。
「連絡をありがとう」
机の上の黒い電信機を撫でてアンゼルムが立ち上がる。
ヤノシュが扉の前で、腕を後ろ手に回す。イスラに向かって顎をしゃくった。
イスラは机の傍へと近づいた。新緑の季節にふさわしい、鮮やかな緑の両の目が、半月のかたちに微笑んでいる。
「どうかした。留守の間に、私の顔を見忘れたかい」
イスラはかぶりを振った。
「いいえ」
体をまげて膝をつく。彼の手をとって、額に触れさせる最敬礼をとる。
アンゼルムは当主の威厳をもってそれを許した。
「お久しぶりです。ご領主」
「ほんとうにね。きみがいないと、どうにも話し相手が見つからない」
ヤノシュが身じろいで腕を組み直す。踊るような足取りでアンゼルムは踵を返した。
「そちらの机で待っていてくれるかい。ちょうど先刻、お湯を運んでもらったんだ、お茶を入れよう」
イスラは外套をはいだ。腕の上で折りたたんでいる間に、アンゼルムは四方の透き通った硝子の棚から、茶器ののった白磁の盆を取り出してくる。
「ご自分で、ですか」
「お茶くらい入れるさ。人が来るとどうも集中できない」
イスラは椅子にかけた。今すぐ立ち上がって引き返したくなるのを踏みとどまる。
応接机の用意されたこの部屋に、なにも親切や酔狂で、眺めの良い窓が用意されているわけではない。
広々とした窓の木枠……大きすぎる硝子を割らずに平らな板へと仕上げ、運び嵌めこむ方法さえ、数年前に確立されたばかりだ。設置どころか、管理と維持にも、大変な技術と資産が必要になる。
部屋中に仕込まれた意図が首に絡まって、静かに締め上げてくるようだった。
それと理解できるものにだけ、侮ることを許さないつくりなのだ。ここは。
息苦しさをかみつぶしながら、真っ白な茶器に緑金色の液体が注がれていくのをイスラは見守った。
「薬は効いたかい」
時計を見守ったまま、ヤノシュが問いかける。
「滞りなく」
「それはよかった」
取り出された空の小瓶を、アンゼルムはイスラの手のひらからつまみ上げて、机に立てる。
「辛かったろう、あの味だと。
あの葉はほんとうは、こうしてお茶に煮出したほうが、ずっと美味しいんだけどね」
優美な曲線を描いた、茶器の取っ手をつまんで持ち上げる。傷ひとつない釉薬のぬめりに、うっすらと写り込むイスラの影には、かすかに目鼻の陰影さえ見て取れる。
「綺麗だろう。手触りも実にいい。帝都の北の、新設の窯で、先月焼き上げられたばかりなんだ」
これを取るのによほど相応しいだろう手を知っている。
細い真白い指の幻が重なって、イスラは頭を振る代わりにまばたきをした。
「いいものですね」
「窯元では、新しい名産にするって張り切っているよ」
向かいの席についたアンゼルムが筆を取る。羽飾りに絡まる、銀の流線の細工を、一度、二度、振って見せた。
「それじゃあ、話を聞こうか」
イスラは器を机に置いた。息を吸う。
「報告します。ほとりの森の、白い怪物は、確かに「憑羽(つくばね)」の罹患者です」
アンゼルムが口に手をやる。手元の紙片に、走り書きを記し始める。
「名をルチアと名乗りました。名から考えるならシウスの出身。
髪の色は金、目の色は赤。一見した年齢は十五前後、成人を迎えたかどうかのあたりです。
枝の色は白。形状は異なりますが、様々に形を変えるところ、本人の意思を無視して動く場合があることは、私の枝と同じ性質を持っています。
白い怪物と、外見の特徴は一致しています」
イスラが口をつぐむと、筆の擦れる音も止まる。
「ありがとう。それじゃあ君にも改めて、詳しいことを話そうか」
アンゼルムは、いたずらを思いついた子どもの、奇妙に光る眼をしていた。
「今回のことはね、シウス領内の「鴉」から届いた話だったんだ」
筆の先、銀の流線の先端に、彫り込まれた羽飾りは真っ黒い。
各地を飛び回り、生命力と知性にあふれた大鳥。常ならぬ人にも与えられた名の意匠がゆっくりと振られるのを、イスラは見つめる。
「北方公家ユステの娘、次期当主のルクレツィア嬢が、病にて身罷られたという話だよ。
葬儀も盛大に執り行われた。今は墓所も閉じられている。
ただ、その葬儀で、ルクレツィア嬢の遺体は公表されなかった。
溺愛した一人娘の、あまりに惨い死にざまだ。衆目に曝すのはどうか許してほしい、参列者には当主からの、そういう言葉が伝えられたらしい」
イスラは目を細める。
「おかしいと思わないかい」
アンゼルムの緑の目が、朝露が下りたように輝いている。
「今のご当主、カイウス殿は頭の良い方だよ。自分の立場も、家の立場も、よくご存じだ。
そんな方が、心から愛している娘の死に、たとえひとかけの疑惑であっても、差しはさむような余地を残すだろうかね」
アンゼルムが手を伸ばす。筆の羽飾りがイスラの頤をくすぐる。小さな刃物の背を押し当てられたようなこそばゆさだった。
イスラは黙ってアンゼルムを見つめる。一度瞼を閉じて、応じる。
「しないでしょうね。公表できる遺体があるのなら」
我が意を得たりとアンゼルムは笑う。
「そして葬儀のあと、彼女の主治医だったユステ家つきの医師がひとり、暇を貰って姿を消している。
しばしの暇を願い出た後、「鴉」にも後を追いきれないくらいの、後を濁さぬ慎重さで」
イスラはひとつ息をついた。
「雄弁ですね」
「うん。シウスの民は、振る舞いのほうもおしゃべりと見えるよ」
アンゼルムは微笑みを崩さない。羽飾りを揺らして、イスラの言葉を待っている
「だからほとりの街からの要請に、私を向かわせられたのですね」
「そう。「枝つき」のきみを」
イスラは自分の体を見下ろす。
幾重にも巻かれた布の上を、赤い枝がうねりながらとりまいている。外套の陰、わずかに垣間見た程度ならば、布地の模様ともとれるだろう。
憑羽の身とは言え、指示を受ければ、どうしても外に出る機会は巡ってくる。傍目には隠したうえで、いつでも枝を使えるようにしておきたい。……そう考えながら、鴉の外套を羽織るようになって、いったいどれくらいが経つだろうか。
イスラの枝の赤色を目で追いながらアンゼルムが続ける。
「知っての通り、今、国境への警戒の必要は薄いと判断されている。今の辺境伯は名のみの役職だ、単純な権限なら他の伯家と大差ない。それでも万が一、カイウス殿が国境の森に怪物を放したんなら、対処は我々の仕事のうちだ。
イスラ。お嬢さんはお招きできそうかい?」
イスラは顔を上げた。
「今しばらく、時間を頂きたい」
「その心は?」
「生かしてつれていくためです」
まっすぐに見つめるアンゼルムの緑色を見返しながら、イスラは唇を湿した。
「こうして仔細を明かしてくださった今なら、私を使わしめた理由も、命さえあればかまわないというわけではないこともはわかります。
でしたらなおのこと、人違いも、不用意に傷つけることも避けたい。
発見当初、彼女はひどく警戒していました。なにか口実を設けて、近くまで連れてきたほうが、危険は少なく済むと考えています。
そのために、今しばらく、信頼を得る時間が欲しい」
「それから?」
何か面白がっているような風情で、アンゼルムが重ねる。
喉が渇いている。イスラはことさらゆっくりと言葉を繰った。
「彼女はルチアと名乗っています。シウスではありふれた名前です。
ルチアは憑羽ですが、今の時点で、白い怪物ルチアがルクレツィアだという、直接の証明にはなりません。
ただでさえ警戒しているものを、連れていくのは危険を伴います。危険に値する見返りがあるか、まだわかりません」
「それが君の考えかい」
イスラは頭を垂れた。アンゼルムは手元の筆もてあそぶ。
「ずいぶん慎重だ」
「恐れ入ります」
「でも、そうだね、君の判断にならおう」
筆の後端がさしのばされる。
羽飾りがイスラの枝の上をたどる。冷たい金属の縁が触れて、イスラは身を固くした。
「ヤノシュはほとりの街に待機。君は直接、白い怪物との接触を継続、確保を試みてくれるかい。
ただお願いするよ。このことが片付いた折には、白い怪物のお嬢さんはいずれ、大切にお連れしてくれるかい。仮にルクレツィアではないとしてもだ」
イスラは息を詰めた。
「症例は多いほうがいい。きみの枝の治療にも、あれは役に立つかもしれない」
「ありがとうございます」
顔を上げれば、アンゼルムの微笑と正面から向き合う。
イスラは手つかずになっていた茶を一息にあおる。胸のすく香りの茶は、すっかりと冷めていた。
「もうひとつ、お願いしたいことがあります」
イスラが切り出せば、アンゼルムが首と筆とを同じ方に傾ける。
「「庭」の自室から、瑪瑙の飾り彫りをひとつ、持ち出してもいいでしょうか」
「飾り彫り。君が彫ったものかい?」
イスラは頷く。
「材料は補充できます。崖の岩場で、瑪瑙入りの石を拾うことができましたから。欠けた数は戻り次第、そちらを使ってもう一度作ります」
「追加をつくるための時間は、余分にはあげられないよ。それでもいいかい」
「構いません」
「だったら持っていくといい。ひとつだけだよ」
アンゼルムの声がはた、と途切れる。
「もしかして、白い怪物のご所望かい」
「いいえ。私の独断です」
イスラはきっぱりと答えた。
「ですが枝つきとはいえ、あれも娘です。そういうものも好むかもしれない」
「君は、あれを、自分と同じものだと思うのかい」
問いかけの意味を図りかねて、イスラは一瞬、口をつぐんだ。
「そうか」
イスラの顔色に何を見たのか。アンゼルムの次の声色には、はっきりと苦笑が混じっていた。
「君には、あれが、女の子に見えるのだね」
イスラは頬に血が上るのを感じた。
つとめて静かに、激昂をくるんで、胃の腑の底に沈める。首や耳の皮膚に、赤みがのぼっていないことを祈って立ち上がる。
「繰り言でした。失礼します」
「イスラ」
名前を呼ぶ声が、まるで親愛のようだ、と、イスラは思った。
「君に無理をさせたいとは思わない。後始末ならこちらでもできる。
怪物が生きているのなら、ほとりの街まで誘いてくれれば充分だよ」
イスラはゆるく頷く。
「何かの折にはお言葉に甘えますが、今のところは、予定通りに進めるつもりです。
同じ憑羽の病の者に会わせてくださったこと、感謝しておりますので。私情ですが」
「そう。そうだったね」
アンゼルムの声色は穏やかだった。
「白い怪物と仲良くね」
「仰せのとおりに」
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