20190925序章表紙

憑羽に寄す:九 鴉のお宿

 春先の陽はまだ落ちるのも早い。イスラがルチアを伴って、森の中を進むうち、落ちてくる光には淡い紫が混じり始めていた。
 岩壁に左手をつけて歩いていたイスラは、立ち止まるとルチアに右手をかざした。素直について歩いていたルチアが、首を伸ばしてイスラの前を覗き込む。
 赤茶けた岩肌を、ほの明るい緑が埋め尽くしている。
 蔦の葉がびっしりと群れ集って、上も奥も見渡す限りを覆っている。崖の上のほうに根をはったものが蔓をしだれさせてるのか、岸壁を這いのぼっているのかもはっきりとしない。
 ルチアの見つめる前で、イスラは蔦の葉の中へと踏み込んでいき、壁へと腕を突っ込んだ。
 岩を叩く鈍い音がする、と思いきや、イスラは平然としている。蔦が持ち上げられた先には、黒々とした空間が口をあけていた。
 イスラは空いた右手でルチアを招く。ルチアが伺うように見上げると、やはり平然とした様子で、イスラは暗がりを指差す。
 ルチアは首をめぐらせながら、蔦の緞帳をくぐった。
 岩壁にあいた暗い穴を通り、小さな窪地の底にたどり着く。聳える岩壁と、とりどりの緑に四方を囲まれた、箱庭細工のような場所だった。
 そうした窪地の底に、家が建っている。つくりこそ小さいが、表面のなめらかな石を積み上げ固めた外壁は、緑に呑まれることなく光っていて、手入れのあとがうかがえる。
 扉の前に立たされても、ルチアは不思議そうに辺りを見渡していた。
「ここは」
「秘密の場所、ですかね」
 ここにルチアを連れてくることへのためらいはあった。白い繻子の布靴を履いたルチアを連れて、夜に移動するよりは、屋根のある場所で休ませたほうが安全だった。
 自分の表情が強張っていないか、指先で触れて確かめてから、イスラはルチアを振り返った。
「入る前に、約束してください。
 何を見ても、大声をあげないで。できるだけ黙って、外套を被っていてください」
 ルチアは、木製の、錆びた金枠と蝶番で固定された扉を見た。ついでイスラをみやる。
「怖い場所なのですか」
「いいえ。ですが、人によっては、恐ろしいと感じる方もいるかもしれない」
「とびかかったり、かみついたりするものは、いないのですよね」
 イスラは頷いた。ルチアが小さく笑う息づかいが聞こえた。
「なら、大丈夫です」
 胸の前で外套を握る手が、合わせを握り直す。イスラは扉に手をやった。
 こん、こん、ここここ、こん。一定の拍子をつけて手の甲で打つと、ややあって、内側から扉が開いた。
 男が顔を出す。イスラよりいくらか年嵩と見える若者だった。透きとおった茶色の右目が細められて、包帯を巻きつけたイスラの上体を眺めやる。
 左目は……白濁していた。どこか遠くへと焦点を投げる眼球を、皺ばんで青ざめた瞼が、なかほどまで覆い隠している。
「夜分に失礼します。仕事の帰りに、立ち寄らせてもらいました」
「お客さんも一緒、だな?」
 若者がちらとルチアへ視線をよこす。
「はい。ですから部屋をお借りしたいと」
「いちばん奥を使ってくれ。ひとつしかないが文句いうなよ」
「僕は暖炉の前をお借りしますよ。今宵の火の番はお任せください」
「そりゃ助かる」
 若者が笑って横に身をずらす。
 イスラが奥に入ると、ほの甘いような、ぬくい匂いが漂ってくる。暖炉の前に集まっていた三人が、それぞれに動いた。
 ふたりは頭の覆いをはずしている。壮年の男のほうは、腿のなかほどから木製にすり替わっている足に外套の裾を被せて、イスラに背を向けた。年嵩の女は楽しげに笑っている。外套の下から、枯れ枝のような形に曲がった、黒ずんだ腕を差し出して、左右に振って見せた。
 ひとりだけ、頭まで外套で覆っていた鴉が、壁につけていた背中を浮かせた。入れ違いに扉へと出ていくのを横目に見送って、イスラはルチアをふりかえった。
 ルチアは扉の傍から動いていなかった。出て行く男の肩に、すれ違いざまに弾かれたことさえ気づかない様子で立ち尽くしている。
 丸く見開かれた目が、外套の陰にわずかに見えた。
 イスラが近づいて肩に手をやると、ルチアはかすかに震えて、それでも頭を下げた。
「……失礼を」
「気にしなさんな」
 年嵩の女が笑い飛ばす。
「ちゃんと謝ったろ、あんたは礼儀のなってるほうさ。そんなとこに突っ立ってないで、こっちにおいで」
 おずおずとした足取りで、ルチアはすすめられるがまま人の輪に近づく。
「あんたイスラだろ。この子どうしたのさ」
「仕事のついでがあって、こうしてお連れしています」
 女が体を低めて、ルチアの顔を覗き込もうとする。イスラは暖炉の前から声だけ投げた。
「外套はそのままにしておいてもらえますか。病の痕が酷いんです。食事は部屋でいただきますから」
「そうなのかい」
 頷いて彼女はあっさりと引き下がる。
「まあ、無理には言わないけど、ここでは気にすることなんざないよ。
 同情なんてのはね、したいやつにさせときゃ充分さね」
「ついでに銅貨の一枚でも投げてくれりゃあ言うこたないな」
「違いないねえ」
 笑い声があがるのを背中に、イスラは木の深皿へ重湯をすくいとって、口をつける。すりつぶされた蕪と葱の重湯に、強めに塩をふってある。
 味付けを確かめていると、若者がイスラの首の包帯に指をかけて引っ張った。
「食べるんなら、ふたりぶん代わりを置いて行けよ。まからねえぞ」
 イスラは片手で荷袋を探って、硝子瓶を三本掴み出す。
「ティーア邸下のユラの店で買いました。逆さにしても水漏れしないのが自慢だそうですから、薬瓶にでも使ってください」
「要は中身が空なんじゃねえか。まあいい、もらっとく」
 若者は肩をすくめて、イスラがもう片方の手にとった深皿に、重湯を注いだ。
 ルチア、と声をかけると、外套ふたりに短く礼を言って、そばへやって来る。
「荷物を置きましょう。……それでは、奥を借ります」
 口々に歯切れのよい返事を背中に受けて、イスラは廊下を進む。すぐ後にぱたぱたと、ルチアの足音がついてくる。
 繊維が毛羽だって白んだ木の扉は、突き当たりの右手にすぐに見つかった。
 部屋はどうしても小さいが、隅には大人が寝転がれる大きさの寝台も、油式の携行灯もある。
 内鍵を下ろして振り返る。先に部屋へと入れたルチアは、寝台の傍らで、所在なさげに佇んでいた。
「驚きましたか」
「少し」
 重湯の皿を受けとる両手も、どことなくおぼつかない。
「ここは、常ならぬ人の場所なんですね」
「ええ」
 故あって人目を避けたい客のための「離れ宿場」は、ある程度の規模の街なら大して珍しい存在ではない。
「こんな場所があるなんて、思いませんでした」
「大きな宿場だと、泊まれないときがありますから」
「お代を払ってもですか?」
「宿場の持ち主が嫌だって言えばそれまでですよ」
 ここのように注意をはらって隠されているのは、鴉の者だけが使う場所であるためだったが、流石にイスラは口をつぐんだ。
「はいそうですかと治せる傷ならとっくにそうしています。どうしようもない理由で揉め事を起こすのは、こっちだってつまらないですからね」
 皿から立ち上る湯気を見つめているルチアは、少しくたびれた風に見えた。
「わたしには、知らないことが、たくさんあるのですね」
「気にかけなければそんなものでしょう」
 イスラは少し離れて、壁際に立ったまま重湯をすする。
 離れ宿場も世の一部、人の有様は他と似たようなものだ。行儀のいい者もいればそうでない者もいる。同情でも優越でも、腹がふくれるわけでなし。何かにつけて、ねばついた感情を投げ掛けてこないでいてくれるぶんには、無知のほうが幾らかましなときさえある。
 先ほど同僚の言ったとおり、お慈悲を垂れたまうでもないのなら好きにおっしゃればいい……というのが、イスラの身近での正直な感想に思われる。
「違うんです」
 ルチアは生真面目に重湯の表面を見つめている。
「わたしは、知らないことがあることを、知らなかったんです」
 胃の腑を刺すような、言いがたい不快さがわきあがってきて、イスラは息をついた。なんと答えるのが正解なのかわからない。
「ああ、でも」
 ルチアが外套の合わせに指を乗せる。
「だったら、ここでは、枝を見せても平気なのでしょうか」
「ルチア」
 そのまま滑り落とされようとする外套の肩を、イスラは押さえた。
 ルチアが見上げる。
 イスラの片手で、皿の縁を乗り越えた重湯が、ぱたん、とひとしずく、床に落ちる。
「どうか、それは、着たままでいてください」
「なぜ?」
「あなたもおっしゃったでしょう。同じ憑羽に会うのははじめてだと」
 ルチアが首をかしげる。
 イスラは内心歯噛みする。この期に及んで、なにかまっさらな理由があると信じ込んでいるらしいルチアに、直截な物言いをしたくなかった。
「常ならぬ者どうしが、いつも労わりあっていられるのなら、こんな言い方はしません」
 イスラとルチアは、しばらく、黙って互いを見合っていた。
 やがてルチアの、外套越しの肩から、力が抜ける。
 ルチアの指が動いて、合わせを整え直す。イスラも手を離した。
「温かいうちにどうぞ」
 木の皿はまだ湯気をたてている。ルチアがそっと持ち上げて、縁に唇を寄せた。
「冷めたら……替えてもらえるかもしれませんけれど、またなにかとられますよ」
「さっきの瓶が、お代の代わりなのですね」
「ひとつ取ったらひとつ置いていく。ここを使うときの決まりです」
 飾り瓶で許してもらえたのは温情だろう。
 重湯の残りをすすっていたイスラは、ルチアのまなざしに気づいて口を離した。
「ありがとうございました」
「なんのことですか」
「たくさんのことです」
 イスラは皿を包んだ手元へ視線を落とす。
「この場所のことなら、もののついでです。お気になさらず」
 イスラの横顔をまっすぐ見つめて、ルチアは続ける。
「お礼は、必ず返します」
「なんのことですか?」
「いずれお話しします」
 微笑んだルチアのまなざしは、内側の読み取れない、透明な色にすきとおっている。
 イスラは曖昧にうなずいた。

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