20190925序章表紙

憑羽に寄す:二十一 誰も殺さないために

 イスラは目を開けた。
 若葉に覆われた藪の中は草いきれに満ちている。枝の間を縫って折りたたんだ足を動かして、藪の切れ目へと体を寄せる。すぐ隣で丸くなっていたルチアが顔を上げる。
 イスラは手のひらを向けて、とどまっているよう合図を送った。
 外套をかぶり直し、目の下まで襟元を引き上げて、肌色の白を押し隠す。満に茂った藪と木々の梢を透かして空を見上げる。
 水で溶いたような薄青のさなかに、黒く切り抜いたような影が浮かんでいる。
 鴉だった。手指を広げたような形の翼を伸ばして、上空を旋回している。
 イスラは見上げた姿勢のまま、枝のひとすじをほどいた。外套の裾から尖った先端を刺し伸ばし、土の地面に押し当てる。目を閉じて、呼吸を数える。
 明らかに異質な振動が、枝をつたって背骨に響く。今はまだ遠く、こうして数える間に、しかし手で触れるほどの執拗さを漂わせて、森を突き進んでくるものがある。
 一、二……明確なものだけで、三つ。
 目を開ける。鴉はさらに三度回ったあと、円を崩して遠ざかっていった。
 イスラは声だけでルチアを振り返る。
「移動しましょう」
 口を覆うルチアに、手を振って見せて、枝の端を結んで適当に止血する。
「あれは鴉です。ティーアの私兵の目になる鳥です」
「気づかれたでしょうか」
「わかりませんが」
 手を引いて、藪から体を引っ張り出す。足早に進みながらイスラは付け加える。
「鴉は色を見る鳥です。我々を見つけたのなら、必ずそうと伝えるでしょう」
 少し言いよどんで、付け加える。
「足跡をつけないで、移動する方法を、考えましょうか」
「足跡を、つけないで……」
 言いかけて、ルチアがふと、枝を見上げた。背中の枝が落ち着かなく揺れる。
 イスラは頷く。
 大人が三人肩に乗って、ようやく届くほどの場所に、枝が横に張り出している。
 その枝に向けて、腕ほどの太さの枝をひとすじ伸ばす。ルチアも倣うのを確かめてから、巻きつけて、二度引いてから、ルチアを見やる。
 ルチアは頷いて、同じ仕草を繰り返し、地面を蹴った。
 白い枝がたわむ。ばねの要領でしなった枝は、ルチアを樹上へと放り上げた。
 ルチアが枝を伸ばして、木の幹に巻きつけ、自分の体を引き寄せる。太い枝は何度か上下に先端を揺らしたのみで、危なげなくルチアを受け止めた。
 イスラは木の根元から樹上を見上げた。広がる若葉にさえぎられて、ルチアの影だけがかろうじて映っているのがわかる。
「イスラ?」
 ルチアが抑えた声で呼びかける。あとに続いて上ってくるものだと、そう考えていたのだろう。
 イスラは応えず、左の枝を検める。昨夜切り落としたばかりの切断面が、少しばかりひきつれる。イスラは傷に触って、血の流れていないことを確認する。
「そこにいてください」
  イスラの言葉にかぶさるように、枝の爆ぜ折れる音が聞こえてくる。
 低木が騒々しくなぎ倒されてさんざめく。荒々しい息遣いと草を踏みしだく騒々しい足音が混じりあう。
 ……姿が見える距離ならば、嗅覚による追跡をことさら謳われる猟犬だとて、動く獲物のほうを追うものだ。
 吠え声が、互いに鳴き交わすものから、けたたましい叫びへ変わったところで、イスラは身をひるがえして駆け出した。ルチアの呼ぶ声が細く聞こえたように思われるも、すぐに折り重なる吠え声の下敷きになる。
 低木の壁が、文字通り引き破られた。猪の雄さえ追い詰め切り、主人の到着を待たず噛み倒す猟犬が三頭、褐色の矢のように飛んでいく。
 速い。当然だが人間の叶う足ではない。
 猟犬の、短い毛並みに覆われた体が、弓弦のようにたわむ。
 とびかかろうとする巨体を傍らに、イスラは突如、膝を曲げた。斜め後ろざまに、倒れるように体を放る。
 バクンッ、と顎が鳴る。体ごと跳ねた猟犬の、白い喉を斜めに見上げて、イスラは枝を振るった。
 前足を二本まとめてからめとり、猟犬の跳躍の勢いそのままの方向へ振り回す。後から迫っていたもう一頭へ、投石機の要領で叩きつけると、生木を折るときの湿った感触が伝わった。
 ギャン、と悲鳴があがる。息つく暇もなく体を起こす。毛皮の間に挟まれた枝を引き抜いてイスラは走り出した。次は直ぐにやってくる。
 切れ切れになる思考を寄せ集めるうち、記憶の中からひとつの状況が思い起こされる。……狐狩りだ。
 用意するものは猟犬と勢子。狩場に広い囲いを定めて、目当ての狐を追い回す。狩場の外へ逸れそうになったら、勢子と犬とでもって追い戻す。狐が疲れて、走れなくなったところで犬が囲んで人が追いつく。いたぶってなぶって、最後は犬に噛みちぎらせるか銃弾でもって撃ち殺す。
 ……冗談ではない。
 イスラは周辺を一瞥して、大きな木の根元に駆け寄った。
 太い木の根が、大人の胸の高さほどまである岩を抱えて、絡み合いながら小高く盛り上がっている。イスラは駆け上がろうとして、つんのめった。
 振り向く。ぶちの犬が、浮き上がった足首に食いついていた。
 イスラの爪先でばねがはじけ、刃が飛び出す。
 黒い口の端から血の泡を噴いて、猟犬が頭を振る。それでも食い込んだ顎が離れる様子はなく、イスラはもう片方の爪先を捻って、犬の鼻先を横から蹴り飛ばした。
 長靴に深いかぎ裂きを作りながら、犬の顎が離れていく。追いついてきた最後の一頭は、木の根から少し離れたあたりで立ち止まった。
 長靴から飛び出した爪先の刃を、木の根に押しつけて戻しながら、イスラは木の幹に背中をつける。顔に飛んだ猟犬の唾液を拭う。赤い血の泡が、刷毛でひいたようになって手のひらを汚している。獣臭い。
 イスラは目だけ動かして、周囲を窺った。
 前足二本を砕いた一頭の姿はここにない。鼻先と喉奥を大きく裂かれて、横倒しに倒れた一頭は、ときおりもがくだけで立ち上がらない。後から追ってきた、とりわけ小柄な白く短い毛の目立つ一頭は、右脚を引きずりながらぐるぐると牙を剥いて、届かば食いつくものをと言わんばかりに高く唸っている。いずれにせよ、飛び掛かってくる様子はない。
 イスラは顔を上げて……真向いの木の上で、たたずむ男と、目が合った。
 表情にも、長銃を支える指先にも、焦りも驚愕のひとつもない。手袋に覆われた手が、顔のすぐ傍に固定された引金へと滑り――
 ―――ガンッ!
 すさまじい音があがって、白煙が爆ぜる。
 後ろざまにひっくり返ったのは男のほうだった。棒立ちに枝から滑り落ち、木の根元で丸めた布のようにわだかまる。
 しばらく待って、彼が動かないことを確かめてから……銃口にねじ込み、銃身を覆い潰すため伸ばした枝を、イスラは丁寧に引き戻した。
 倒れた男の向こう側へと視線を注ぐ。
 もうひとり、別の人影が佇んでいる、イスラが来ていたものとごく似通った風合いの外套。漆黒にはいくらか届かない、浅く薄暗い色合いは、真昼の木々の影に混じり入って、まさしく風景の一部に見える。
「お疲れ様です」
 木の幹に背中をつけたまま、イスラは体の脇で両腕を広げてみせる。
「この方はご無事です。引き取ってもらえますか」
「やめろ」
 強い調子で人影……「鴉」の男は断じた。
「おまえの口が回ることは知っている」
「逃がしてはくれませんか」
 本心だった。かつての同僚は、口先で戦意を削がせてはくれないらしい。
 投入されている鴉がまさか、目の前のひとりだけとは思われない。あれだけ猟犬が吠え立てていれば、ここに獲物がいることは、わかりきったものだろう。
 憑羽は人だ。枝が生えようと怪物に変わろうと、人の利を強引に切り抜ける力は、イスラにはない。
「それは残念です」
 イスラはその場にかがんだ。主人を背にした犬が、右足を曲げたまま跳んだ。
 開いた顎が当然のように喉へと迫る。腕を水平にして喉をかばうかわり、イスラは牙の並んだ口内へ、枝を巻きつけた拳を突っ込んだ。口の中で枝が爆発するように形を変える。
 猟犬の上顎、頬の肉、太い首の裏を、赤い枝が突き抜けた。
 猟犬が目を剥いて全身を震わせる。倒れていく犬に引きずられながら、イスラは短剣を手にする鴉を見た。左手を長靴に沿わせて短刀を引き抜く。
 固い音を立てて短刀の刃がかみ合う。すぐ離れて、再び振りかぶられる。銀色の軌跡を奪うべく、イスラは残りの三すじの枝を、鴉のかざす短刀へと差し向けた。
 枝が短剣の刃を絡めて包む。取った。
 ――と、イスラが断じた瞬間。鴉は短剣を繰る手を大きく引いた。
 イスラはつんのめった。力を失った猟犬の屍もろとも、木の根の丘から引きずられ落ちる。
 刀身を芯代わりに、いっそ鮮やかに赤枝を巻き取った鴉は手首を返す。硬化の及んでいない、しなやかに動く赤枝の中ほどを、赤い紡錘(つむ)のようになった短刀の切っ先でもって、立木の幹へと縫い留めた。
 イスラが、打ちつけた右肘で体を起こそうとするより早く、鴉は爪先でイスラの体を蹴り転がした。新しい短刀が抜き放たれる。
 よく研がれた切っ先が、仰向いたイスラの、顎と首との境目へかう。イスラは二本の腕でもって、振り落とされた鴉の手首をつかみ返した。
 両者の間で短刀が光る。
 刃越しに見える鴉の顔には、油断の色はない。水が滴る緩慢さで、じわじわと、だが確実に、切っ先がイスラの喉へと近づいていく。
 イスラは目を細めて……笑った。
 押し返そうと震えて拮抗を保っていた、イスラの腕から、力が失せる。
 勢い余った短刀が、イスラの首を削いでかすめて地面をえぐる。かすかにのめった鴉の首に、イスラの二本の腕が絡んで、頭を胸に抱くかのように引き寄せ固定する。
 鴉はいっとき全身を硬直させ、次いで何に気づいたのか、がむしゃらにもがきだす。だが、遅かった。
 ……ごんっ。
 重い音が鳴り渡る。鴉の男はびくりと痙攣して、振り返ろうとし……イスラの枝に顎下から殴られて仰向けに昏倒した。
 急に重くなった体を押しやって、イスラは顔を上げる。
 ルチアが立っていた。力が籠められて上がった肩が震えている。
 前のめりに握りしめた両の手には、背中から伸びた白枝の数本が、杭のような太さほどにより合わされていた。
「人を」
 ルチアは固く目を瞑った。短い呼気が乱れている。立ち上がったイスラを見上げて、目を細めた。笑おうとしているのはわかった。
「人を殴ったのは、はじめてです」
 イスラはルチアの手を取って、握りしめたかたちで強張る指を、一本ずつ広げてやった。
 鴉の体を検める。殴られた頸部に大きな傷のないこと、正常に呼吸が整っていることを確かめて、これも転がる正規兵の横に引きずっていく。
「イスラ、枝は」
「大丈夫です」
 イスラは顔の前で枝を振った。少しばかりすすけているのに気が付いて、指で拭う。
「どうやって来たんですか」
「枝で。近い木の間を、こう、枝で結びながら飛んで」
 イスラは額を押さえた。肋の奥が、いまだ脈を打っている。
「待っていてとは言いましたが、正直にいいます、助かりました」
 いたわるしぐさで肩を叩けば、強張っていたルチアの表情が少しだけ緩む。
 ルチアの体が細かにふるえているのを傍目に、イスラは地面に枝を這わせる。
 枝の先に振動が伝わる。四つ足の音、革靴の音。地にあって足音を伴わない鴉も、いくらかは紛れていることだろう。
 あわよくばこれで振り切れまいかと、少しだけ考えていた自分が忌々しい。
 ちらと視線を挙げれば、天頂よりわずかにずれた場所に、太陽が見える。真っ白な塊が発する光の帯が、木々の濃い緑に近づくにつれて色味を取り戻している。絵画のような光景が、頭上に切り取られて、そこにある。
 静かだった。
 人が二人、すぐ傍に倒れていることも、傍らの犬の鳴き声が少しずつ弱まっていっていることも、しばらくの間捨ておいて、イスラは変わりなく注がれる日を浴びた。
「ルチア」
「はい」
「これ以上南へは、行けません」
「はい」
 ルチアは言葉を待っている。イスラは唇を舐めた。
「約束です。ネストレさんを迎えに行ってください」
「あなたも」
 腕に乗せられた手を、イスラは外した。
 いつかしたようにルチアに外套を被せれば、白い枝はたちまちのうちに見えなくなる。代わりにイスラの白い包帯が、ルチアの枝に劣らぬ眩さで外気に晒される。
 今、追われるべき白いものは、この森にイスラひとりだけだ。
「言ったでしょう。追われる役が必要です」
「イスラ」
「必ず、戻ってきてください。お待ちしています」
 ルチアはしばし眼を瞑る。次に目を開いたとき、
 イスラを正面から見つめて、はっきりとうなずいた。イスラもうなずき返す。
「行って」
 ルチアが駆け出す。
 外套の暗色が、木の幹に紛れて見えなくなったのを確かめてから、イスラは手のひらを見下ろした。一度握りしめる。
 イスラは真っすぐに、今来た道へと駆け戻った。

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