憑羽に寄す:十七 貴い血の娘
ルチアが井戸の傍らに座り込んですぐ、イスラは腰から携行灯を外した。ごく小さく絞って火を入れる。
ゆらゆらと動く灯りから顔を上げれば、向かい側で、ルチアが膝を抱いている。金色の髪がぼやけたぬくい橙の灯りを重ね塗りされて、陰影がちらちらと細かく揺れている。
頭のかたちに沿って編み込まれた髪は、なかば解けかかって、頭の片側に房を垂らしたままになっている。金糸の房の端々に、棘めいたほつれが飛び出している様は、硬質な破片が並んで突き出しているようにも思われた。
硝子でできた宝冠を、畏れ多くも地面に叩きつけたなら、こんな風に細かに壊れるだろうか。
「ご迷惑をおかけしました」
ぼんやりと考えていたイスラは、ルチアの髪から顔へと視線を移す。
ルチアの白い顔は伏せられたままだった。
「体は、大丈夫ですか」
「ええ」
切るようにルチアは言葉を紡ぐ。
「お薬、使わせてしまいましたね」
「また作ればすむ話です」
「さっきの方、怪我を、させてしまったでしょうか」
「そうかもしれません」
ルチアはいっそう俯いた。
泣くかな、と思ったが、涙の落ちる音はなかった。水滴の代わりに、さぐりさぐりの言葉ばかりが落ちていく。
「嘘では、なかったんですけれど」
イスラは黙っていた。顔を上げたルチアは、やはり笑っている。
口許だけ無理やり緩めたような、こわばった微笑みだった。
「これでいいと思ったんです。ケレストの方が、そんなにこの枝を使いたいなら、好きに使えばいいと」
ルチアの睫毛が、灯りに照らされて、目尻に斜めの濃い影をつくっている。
「それでイスラにも利になるのなら、ちょうどよいと思ったんですけれど。うまくいきませんね」
「白い怪物とは、あれのことだったのですね」
イスラは静かに遮った。
「僕は思い違いをしていた。白い怪物は、ただ枝の生えた人間を指していたわけじゃない。
僕がこうして生き延びているくらいだ、シウスでだって、ルチアを匿えたはずなんです。匿うだけなら、やろうと思えば、できないようなことじゃなかった。
あなたが、自分の意思で、枝を制御できていたなら」
ルチアは黙っている。イスラは続ける。
「家名に障るというだけじゃない。シウスでは、あれをこそ恐れて、あなたは死か幽閉かを迫られた」
「ほんとうは、少し違うんです」
イスラは目を細めた。ルチアは続ける。
「うまく死ねなかったんです。わたし。
自死の機会ももらえたし、介錯もついてくださったんです。確かに光栄と思って受けたものを、それでも短刀を刺した後、どうしても酷く暴れるようで。わたしは覚えてもいないのに」
ルチアが肩越しに白枝に触れる。
「四度目に失敗した後、幽閉の身であったわたしを、無断で連れ出した者たちがいました。
おまえの味方ばかりではない、父を……北方公を相手に、交渉の札が欲しい者もいるのだと、わざわざ説明してくれました」
ルチアがまぶたを伏せて、小さく笑い声をたてる。
「あとは、イスラもご存じのとおりです。気がついたら、持っていた鞄ひとつだけ、この森にひとりで目を覚ましました」
「……あなたは」
ひりひりと喉が乾くのを湿して、イスラはゆっくりと口を開いた。
「あなたは、死ぬのが、恐ろしくはなかったのですか」
「恐ろしいですよ。今も恐ろしい」
ルチアの答えは淀みない。
「けれど、周りの誰もが、わたしと同じに怯えていました。わたしは、わたしの枝のことを、安全だと断言できませんでした。
そしてわたしは、ユステの娘でした。
わたしが、命を絶つことができていれば、主家はわたしを棄てる危険を冒さず済んだでしょう」
「あなたは、自分を、その程度のものだと言うのですか」
「いいえ」
ルチアが顔をあげる。目には強い光があった。
「わたしはユステ。北方公の娘。特別な才覚なくとも、食べるもの着るものに恵まれて、人にかしずかれて生きてきました。
代わりに有事には矢面に立つ。代々いつなんどきに、そのときが来ようとも、我がこととして拝命する。貴人とはそういうものでしょう」
硬い、強い声色だった。
「常ならぬ人も、王も同じです。常なる人たちが、わたしたちのために死んでくれと、正面から言うことのできる人です。
わたしは応えたかった。応えなくてはならなかったのに」
ルチアが顔を背ける。イスラは唇を噛んで、ルチアの血の気のない頬を見つめていた。
常ならぬ者も、貴人も同じと、ルチアは言った。
片や蔑まれあるいは庇われ、いずれにせよ人の情を受け取って、その想像のままあれと望まれるもの。片や仰がれ傅(かしず)かれ、人の先をゆく導(しるべ)にふさわしかるべしと定められるもの。どちらも、常なるもの、己を只人と信じて疑わない者たちが、自分たちのために殺していいもの……そんなものを示すための、呼び名でしかないのだとしたら。
……激昂のあまり目が眩む。
口を開けば血の味がする。知らず噛み切った唇の傷をそのままに、イスラは呻いた。
「だとしたら僕は、貴人には、なれそうにありません」
同じように考えたことがある……自分が素直に死んでいたら、いったいどれだけ単純だったか。
誰も、何も、煩わなかった。憑羽がなんなのか、誰も知りたくないまま、知らないままですんでいた。
「人のために自分の願いを殺せない。誰かが害を被ると知っていても、自分の行けるところへ行きたい、どうやってでも生き延びたい。
そういう人は、きっと、人の上にあってはいけないのです」
怒りに圧されている、という自覚はあったが、勢いに任せてイスラは言い切った。
「ルチアは代わりと言いましたが、そんなやり方で救われて喜ぶのは、あなたのことなんてどうでもいい人だけではないですか」
風の冷たさが頬に触れる。自分の息がはずんでいることに気がついて、イスラは深呼吸した。
ルチアがイスラへと向き直る。青ざめたままの唇には笑みがあった。
「ありがとうございます」
イスラは眉をしかめた。ルチアがますます笑みを深める。
「あなたは、そんなふうに、気にかけてくださるのですもの」
虚を突かれて、イスラは視線をさまよわせた。ルチアの笑う声が重なる。
ささやくような笑い声が、小さくなり、やがて消える。ルチアは、やがて深々と息をついた。
「どうしたら、よかったんでしょう」
手のひらが前髪の下の顔をおおう。
「憑羽って、なんなのでしょう。神様はわたしを、怪物としてあれと、望まれたのでしょうか」
「……わかりません」
イスラは自分の靴の先を見つめた。
なれば憑羽とは、かようなものなのだと……たとえば行く末が致死の病だとしても、正しく答えることができたなら、いったいどれだけよかったろう。
今の自分は、ルチアにそうしてやりたいと思うことを、なにひとつ持っていない。
「この病についてわかっていることは、ほんとうに数えるほどです。
それでも、憑羽であることと、あなたが死に望まれる理由は、別のことのはずです」
手のひらが頬を拭うかすかな音を、イスラは聞かないふりでやり過ごした。
「それに、ルチア、あなたの言うような神様がいるなら、あなたはなおのこと幸せでなくてはならない。
僕達をこのように作った誰かが、嘲るためにそうしたのなら、意趣返しくらいにはなるでしょうから」
静かな笑い声が聞こえてくる。
「イスラは、ほんとうに、まっすぐな人ですね。
そんなだから、わたしひとりのことも、うまく謀れないでいらっしゃる」
ルチアは自分の白い手指を、顔の前にかざす。柔らかな指には、細かな裂け傷が散らばっている。
「イスラのおっしゃることは、きっと、正しいんでしょう。
それでも、わたしは、人に望まれることを果たしたかったし、そうしていられる場所が好きだったんです」
ルチアのまなざしは、夜の向こうの清流を透かし見ようとするように、遠かった。
「どうしたら、一番良かったんでしょう。だれもうまくいくように、どうしたら」
たどたどしい言葉を、イスラは黙って聞いていた。
ふたりの憑羽が、かくあれと信じてしたことが、今や誰ひとり望まなかった景色を目の前に広げている。イスラがルチアを連れて関所に戻っても、このままシウス国へ送り届けても、どちらかの願いが本来の形を結ぶことはないだろう。
結局、自分の願いは、己の望むように進みたいというだけだったのかもしれない。
行く方も定めず、ただあるようにと伸び広がる、夏の蔓草と同じこと。誰が喜ぼうと悲しもうと、憑羽であろうとなかろうと……望むように行こうとする、我儘以前の何かだったのかもしれない。役立つのなら受け入れたし、障害になるなら除こうとしているだけなのかもしれない。
そうなのだろう。同じ憑羽の枝を負っているルチアのように、人の幸いの責までも、我がこととして流すような涙をイスラは知らない。
……それでも、この子には、みっともなく泣き喚かせてやりたいと、思わずにいられなかった。
「ルチア」
手を伸ばせば、薄い肩が跳ねる。イスラは静かに言葉をつづけた。
「憑羽のことも、あなたのことも、僕には充分にわかりません。けれど自分の望みなら知っています」
鴉の住む島……暮らしていた場所のことが脳裏を過る。ほんのしばらく前、そこでどうやって過ごしていたのか、もう思い出せなかった。
「僕はここのような場所で暮らしたい。枝を隠さずにすむ場所があればどんなにいいかと、今ではそう考えています。
ルチアは、何をお望みですか」
ルチアが顔を上げる。はたり、瞼が動いて、表情の消えた両の目から、溶け落ちかけている滴を払い落とす。
「わたしも」
ルチアは閉じた瞼を拭う。次に目を開いたとき、彼女ははっきりと頷いた。
「ここで過ごしていたいです」
静かな、夕映えのまなざしだった。
イスラは頷くと、ルチアの肩においていた手を持ち上げ、ゆらと振る。
「話は終わりました。どうぞ、ネストレさん」
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