趙雲は史実でも重要な武将だった!!その2

劉備と孔明の人材観と趙雲

 結論の前にいったん劉備と孔明の人材観を確認する。ある人物の人材観にはその人物の価値観が色濃く反映する。劉備と孔明の人材観はきわめて対照的だと思う。

 劉備は言葉巧みな馬謖を信じず、勇敢で行動の人であった魏延を信頼した。それに対して孔明は「俺が俺が」と自分のための自己主張する魏延を信じず、 国全体の利益と道理を重んじる馬謖を重用した。

 趙雲に関しても、劉備が『趙雲別伝』でその勇敢さをほめているのは、 実際にありそうだし、孔明が同じく『趙雲別伝』で趙雲の道理を重んじ国の利益を重視する姿勢をほめているのも、 実際にありそうではないだろうか。

 劉備と孔明の価値観はそれぞれの生涯からも読み取れる。劉備は勇敢さと行動を重んじたため、関羽や張飛のような豪傑を常に重用し信頼し続けた。孔明を登用するまでは知者を信頼せず豪傑ばかりを信じたと言ってよい。

 一方孔明は道理や大義が国に正しい秩序をもたらすと知っており、それを重視した。彼の統治が正しい道理に基づいていたからこそ、厳格であっても怨む者がいなかったのである。陳寿の諸葛亮の評を引用する。

 諸葛亮は丞相になると、民衆を慰撫し、踏むべき道を示し、官職を少なくし、時代に合った政策に従い、まごころを開いて、公正な政治を行った。忠義をつくし、時代に利益を与えたものは、仇であっても必ず賞を与え、法律を犯し、職務怠慢な者は、身内であっても、必ず罰した。罪に服して反省の情をみせたものは、重罪人でも必ずゆるしてやり、いいぬけをしてごまかす者は、軽い罪でも必ず死刑にした。善行は小さくとも必ず賞し、悪行は些細でも必ず罰した。あらゆる事柄に精通し、物事はその根源をただし、建前と事実が一致するかどうかを調べ、うそいつわりは、歯牙にもかけなかった。かくて、領土内の人々は、みな彼を尊敬し愛した。刑罰・政治は厳格であったのに怨む者がいなかったのは、彼の心くばりが公平で、賞罰が明確であったからである。『蜀書』諸葛亮伝 ちくま学芸文庫

 以上のように孔明はその生涯を通じて道理と大義を重んじた。

 荀子に次の言葉がある。

元来、刑罰は犯罪にかなっていれば威厳が立つが、犯罪にかなっていなければあなどられる。また爵位は優秀者にふさわしく与えられれば尊重されるが、優秀者にふさわしくなければ賎しめられる。<中略>(むかしは)刑罰は犯罪よりも重くはならず、爵位褒賞は本人の徳より以上にはならず、確固としてそれぞれにその誠心を通じあえた。そこで善事を行う者は奨励され、悪事を働く者は阻止され、刑罰は殆ど執行されないでいて威令が水の流れるようにゆきわたり、政令も非常に明白で不思議なほどにうまく民衆の風俗を変化させる。君子篇第二十四 岩波文庫
 古代の聖王の喜怒の感情はすべて正当であったから、従って喜ぶ場合には世界中の人々もそれに応じ、怒る場合には乱暴者もそれを恐れた。楽論篇第二十 岩波文庫

 君主の感情や賞罰が道理にかなっていれば統治者に威厳が生まれ、親しまれ、民は彼に共感し、感化され、国に正しい道がもたらされると荀子は言う。以上の荀子の言葉は若干大げさである点を除くと、あたかも孔明の統治を描写しているかのようである。その儒教の根本思想を孔明は深く認識しており、彼はそれを現実に実行したのである。そのような孔明であれば『趙雲別伝』の趙雲の道理を重んじる姿勢を深く信頼したはずである。

 劉備と孔明は「趙雲は信頼できる」と一見意見が一致したようだが、二人が信頼したのはそれぞれ趙雲の別の側面だったというのは興味深い。いずれにしても『趙雲別伝』は若干大げさな印象はあるけれども、何らかの事実をもとに書かれた書物ではないかと推測できる。

『趙雲別伝』の信憑性

 私は趙雲が『趙雲別伝』のような人物だったとは、必ずしも信じない。
ただ『趙雲別伝』はうそを書いているというより、 大げさに書いているのではないかと考える。4か5あった内容を10くらいに書いているのではないか、 と思うのだ。

 たとえばAさんと言う人がいてAさんは物理学が得意で人づきあいが苦手だとする。わたしがAさんの友人でAさんを称揚しようとするとき何と書くだろうか。

「あいつすごい人脈があるんだ!」とはほめないだろう。みんなから一斉に否定されるからである。「あいつ実はノーベル物理学賞候補だったらしいぜ」とか言ってほめるのではないだろうか。これだと信じる人もいるからである。Aさんに実際ある程度はその傾向があるからだ。

 おなじように『趙雲別伝』では趙雲は自分の利益より国の利益を重視するチームプレイヤー として書かれているが、それが仮に大げさだとしても、趙雲に少なくともある程度はそういう傾向があった、と考えた方が自然ではないだろううか。

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