すぐれたものほど行き過ぎる 物事の二面性20
公田連太郎『易経講話』の「雷山小過」に程子の解説を引いてある。引用する。
信念を持つ人は必ず行動する。信念を持って行動するので多くの場合うまく行く。うまくいくと必ずやり過ぎが生じる。J.S.ミルの『自由論』から引用する。
成功しない人は中庸まで到達しない人である。「不及」である。この場合はその人は世の中を良くすることに失敗する。しかしやりすぎの「過」にはならないので、世の中を悪くすることもない。それに対し成功した人は世の中を良くする。しかし、成功するとどこかの時点からやり過ぎが生じる。「過」となる。そのため成功した人や思想はやり過ぎた分に応じて世の中を悪くする。その欠点が顕在化する。どんなものでも「功罪相半ばす」になるものだというのは十分な理由がある。
ここで「過」と言ってもふたつのパターンが生じる。偉大な者、大きな者が行き過ぎる場合と、大したことのない小さい者が行き過ぎる場合のふたつである。少しだけ優れた小さい者が行き過ぎる場合を『易経』では「雷山小過」という。公田連太郎『易経講話』から引用する。
小さい者は少ししか行き過ぎない。行き過ぎるとすぐに周りから否定されるからである。行き過ぎると反対意見が出る。本人もそこまで信念が無いので反対されると改める。そして行き過ぎは修正される。
たとえば「コスパ」という言葉は、便利な言葉である。それで若者に広まった。私は若者とあまり接点が無いのでよく知らないが、もしかしたら若者の間ではこの言葉が濫用され過ぎているのかもしれない。仕事や結婚ををコスパで選ぶなど。人生をコスパで選ぶのはもちろんダメだ。これは「過」である。しかし行き過ぎれば恐らく周りの大人たちから「コスパ」批判が生じて行き過ぎは抑えられるだろう。
「お客様は神様です」という言葉も、もともとはそれなりに優れた言葉だったかもしれない。しかし現在はそれが行き過ぎ、この言葉は否定されつつある。
「コスパ」も「お客様は神様です」も少し優れた者であり、小さい者である。それが行き過ぎているのである。「小過」である。『易経講話』に次の言葉が引用されている。
小さい者の行き過ぎは、周りから反対意見が上がり、修正され、長くは続かないのである。
それに対して、偉大な者、大きい者が行き過ぎるのを『易経』では「澤風大過」と言う。『易経講話』から引用する。
偉大な者は大きく過ぎる。小さい者は行き過ぎると周りから反対意見が出るし、本人もそこまで深い信念が無いので、自ら改めて、行き過ぎは抑えられる。しかし偉大な者は、そうはいかない。周りから反対意見が出ても、偉大なものを信じる人たちは深い信念をもって止まらず進んでいく。だから大きい者は大きく行き過ぎるのである。それで二重の意味で「大過」と言う。「大きい者が行き過ぎる」と言う意味と「大きく行き過ぎる」のふたつの意味である。行き過ぎると世の中に害をもたらす。「大過」は大きな害をもたらすのである。
ヒトラーもその例である。ヒトラーは自分自身を偉大なドイツ文化の後継者と信じていた。反対意見が出てもその強烈な信念は揺るがず、大きく行き過ぎ、大惨事をもたらした。『易経講話』「澤風大過」からさらに引用する。
家を建てる時に棟木を用いる。棟木の両端が小さくなっていて、中央が大きく重くなっている。それで棟木は下に向かって曲がってたわんでしまう。さらに引用する。
ヒトラーは自分を偉大なドイツ文化の後継者と信じていた。偉大なドイツ文化の遺産という棟木が大きすぎ重すぎて、ヒトラーという細く小さい柱では支え切れず、棟木がたわみ曲がってしまったのである。家全体が傾き崩れ落ちた。偉大なドイツ文化は自らの重みに耐えきれず崩壊してしまったのである。ニーチェ『人間的、あまりに人間的』から引用する。
ヒトラーのような虚栄心の強い凡人が、ドイツの偉大な先人たちを外面的に模倣し彼らに並ぼうとすることで、悲劇が生じる。ヒトラーが偉大なドイツ文化を継承するにふさわしいほど、本当に偉大であり、かつ偏狭でなければ問題は生じなかったかもしれない。もしくはヒトラーが偉大ではなくても、あれほど強い虚栄心を持たず、偉大な先人と無理に並ぼうとしなければ問題は生じなかったはずである。
ダーウィンの進化論も偉大な思想であった。しかしそれは成功すると行き過ぎが生じた。優生思想が生まれ、ヒトラーもそれを取り入れた。ドイツというゲルマン民族を高等人種とし、それ以外を劣等人種とした。
イスラムのテロリストも同じである。コーランは偉大だ。だからこそテロリストは説得できない。彼らはコーランの偉大さを心から信じているからである。偉大だからこそ「大過」が起きる。
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