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本当の経済は金で計るものではない

段々パターンが見えてきただろう(笑)。「本当の経済は金で計るものではない」という言葉を説明していく。

もちろん経済は金で計る。GDPという言葉がある。国内総生産と訳される。日本のGDPであれば日本が1年間でどれだけの価値を創出したかを計っている。たとえば80の代金を払って原料を輸入し、150の価値の製品をつくってそれが売れたとする。この場合創出された価値は150-80=70で、70の価値が創出されたことになる。付加価値額は70である。80の価値の材料に対し70の価値を付加して150の価値の製品をつくったからだ。「価値」を「付加」した「額」なので「付加価値額」。これらの付加価値額が合計されてGDPになる。日本のGDPは日本国内で1年間でどれだけの付加価値額を創出したかで算出される。

例えば私が信州長野に旅行に行く。JRにのって旅館をとって観光地で信州の名物料理を食べる。4泊5日で20万円使ったとしよう。JRや旅館や料理屋はお金をとる代わりに私に旅行の体験をさせてくれる。私は信州の歴史と文化を満喫する。旅行の体験という価値をJRや旅館は生み出してくれるのだ。この20万円が付加価値額として統計化される。

例えば私は10代くらいまではあまり感性がなかったとする。それでも旅行は楽しい。しかし感性を持っている人が同じ旅行をすると得るものが何十倍にもなる。感性がない人と感性がある人で同じ旅行が生み出す価値は全く違うのに、経済学上では同じ20万円の経済効果として計算される。結局金では経済が生み出した価値を正確には把握できない。

私の韓国旅行の日記。

韓国のソウルの市場で路地裏に入る。ソウルの庶民の生活の濃厚な雰囲気がすぐに伝わってくる。
食堂に入る。今まで数多くの韓国の庶民たちがここで生活し食事をしてきたという蓄積と雰囲気が壁や床、テーブルに染み込んでいる。
私はここで食事をするが、単に出てきた料理を食べるのではない。その場所の持つ雰囲気ごと食べるのである。
その場所の雰囲気。何を言っているかわからないがざわざわと聞こえてくる韓国語の会話。人々の表情。ぶっきらぼうな店員の対応。それらも一緒に食べるのだ。
席は半分以上埋まっているほうがいい。地元の人たちの生活、表情、声、いろんなものが伝わってくる。

経済学者は全てを経済として見るかもしれない。私は農園のぶどうをみると「うまそうだな」と思う。経済学者はその価値や値段に注意を払うかもしれない。経済活動の一環として見る。

そのようにして経済学者が全てに経済を見出すとそのうち金から離れていく可能性がある。仲良い親友が楽しく会話しているのを見るとそこには確かに尊い価値がある。しかしそれは金にならない価値である。金で計れない価値だ。経済の本質は価値である。経済学者が全てに経済を見出し価値の本質をたどっていくと、「本当の経済は金で計るものではない」という結論に到達するかもしれない。実際本当に大切なものほど、金で計れない場合が多い。

「本当の経済は金で計るものではない」という言葉は当たっている。親友同士の会話のような場合は全くその通りである。しかしビジネスはそれではだめである。いくらアイデアがよくとも最終的に売上や収益につながらないとアイデア倒れで終わってしまう。金に還元されないとただの夢想だ。「本当の経済は金で計るものではない」という言葉を正しい表現に言い換える。

経済はお金で計る。しかしお金で計れない価値がある。

同じような言葉はたくさん作れる。「本当の法律は条文で表さない」もそのひとつ。法律は国会を通して条文で表す。これを実定法という。きちんと条文になっている法律。しかし実定法である法律ができる前から、人間である時点で人間として守るべき法律があるとされる。これを自然法という。これが「条文で表さない法律」である。

自然法は理性によって導かれると言う。簡単に言えば「人間として守るべきことがあるのは考えたらわかるだろ」ということ。「考えたらわかる」というのが「理性によって導かれる」ということだ。

中国の秦の時代は法律が苛烈だった。ちょっとした法律違反でも重い刑を課せられて人民は政府を怨んでいた。秦を倒した漢の劉邦はその苛烈な法を改めて法三章という簡単な法律に変えた。「殺すな」「傷つけるな」「盗むな」の三つである。人民は圧制から解放されて喜んだと言う。この法三章はたしかに考えたら誰でもわかる内容だ。自然法が「理性によって導かれる」というのは西洋のみならず世界共通だといえる。

そしてさらに理性は神によって与えられたとされる。人間は理性を持っているから、それに従うことで神の意思を知ることができるのである。神の意思を人間が知りえるように神が人間に理性を与えた。西洋の理性信仰にはこのような論理がある。そして西洋人が法律を重視するのはそれが理性や神と繋がっているからである。アメリカが訴訟社会なのもその背景にはこのような論理がある。何でも訴訟で解決する社会がいいとは必ずしも思えないが、理由はあるのだ。

実定法の根拠には自然法があり、自然法の背景には理性があり、理性の背後には神がいる。法律も最終的には神につながっている。

では法律の背後には理性があり神がいるから、法律は必ず正しく絶対かというともちろんそうではない。歴史を読めば生類憐みの令のような悪法がある。秦の始皇帝のときの苛烈な法も悪法である。もっとも保守主義者は現行の法律はその背後に自然法や理性や神があるから絶対だと主張する。『危機の二十年』から引用する。

自然法は現行秩序を正当化するために保守主義者によって発動される。支配者の権利や財産の権利は自然法に基づくと主張される場合がそうである。

保守主義者は自然法に基づいて現行の実定法が正当だと主張する。現行の法が正しい法律であればその保守主義者の主張は正しいと言える。

しかし歴史を見れば悪法もある。革命家は現行の実定法を悪法として非難する。革命家の主張は、要は現行の実定法は、理性から導かれる自然法に反しているという主張である。革命によって正さなくてはいけないと言うのだ。『危機の二十年』から引用する。

同様に自然法は、現行秩序への反抗を正当化するために革命家によって用いられる。

結局自然法は、現行秩序を擁護する保守主義者からも、現行秩序を覆す革命家からもその大義の根拠として用いられる。

「本当の法律は条文で表さない」という言葉は自然法こそが条文になった実定法の根本にあり、その本質だという意味になる。しかしこれも同じパターンなのだが、半分当たっていて半分間違えている。正しくすると「法律は条文で表さないと共同体の明確なルールにならない。しかしその本質は条文で表さない自然法である」となる。実際、実定法にならない自然法の段階では具体的な裁判所で裁くことはできない。

他にも例を挙げる。「本当の絵は絵の具で描くものではない」。画家は全てを絵としてとらえるのかもしれない。ゴッホの絵。

ゴッホの夜空は圧倒的だ。ものすごい迫力がある。私は夜空をゴッホのように見たことはない。ゴッホにとって本当の絵とは彼が見た夜空そのものだったはずだ。ゴッホの絵はそれを他人が見ても分かるような形で写し取ったにすぎないのだろう。

鳥獣戯画は恐らく子供たちが生き生きと遊んでいる姿がインスピレーションだったのだろう。その子供たちの姿こそが「絵の具でえがかない絵」だったのであり、絵の本質だと思う。


例によって正しい表現に言い換えると「絵の本質は絵の具で描かないインスピレーションにある。しかし絵の具で描いて初めて他の人のその感動は伝わる」となる。

さらに例を挙げる。「本当のアルゴリズムはプログラム言語で記述しない」。生物学の授業にもぐった。人間の身体は非常に精巧にできている。例えばDNAは紫外線や転写ミスなどによって、しょっちゅう部分的に壊れるらしい。しかしそれを修復する機能が人間の体には具わっている。誰に命令されたわけでもないのに、人体はそれを見事に修復していく。あまりの精巧さに驚嘆した。神によるプログラムではないかと思った。これこそ本当のアルゴリズムだと言いたくなる。「本当のアルゴリズムはプログラム言語で記述しない」が一定の説得力を持つ。

例によって正しく言いなおすと「自然のアルゴリズムは非常に精巧にできている。しかし時代を押し進めるのはプログラム言語で書いたアルゴリズムである」となる。

「本当の映画はフィルムに収めない」。フィルムに収めない実人生でのドラマこそ本当の映画である。

「本当のラブソングは歌手が歌わない」。これもひとりひとりの恋愛体験こそが本当のラブソングであり、その時に発した言葉こそが本当のラブソングの歌詞であるとなる。

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