本と末10 礼と仁

本と末の思想が表れた例をさらに追記する。真心と礼儀について。『論語』八佾篇に次の記述がある。

書下し文
林放礼の本を問う。子曰く。大なるかな問うこと。礼はその奢らんよりはむしろ倹せよ。 喪はその易めんよりはむしろ悼め。
現代語訳
林放が礼の根本を尋ねた。孔子が言われた。大きいね、その質問は。礼はぜいたくであるよりむしろ質素にし、 弔いは万事整えるよりはむしろいたみ悲しむことだ。


真心が本であり礼が末であると述べている。 礼があっても真心がなければ虚礼になる。

同じく八佾篇に次の言葉がある。

書き下し文
子曰く、人にして仁ならずんば礼を如何。人にして仁ならずんば楽を如何。
現代語訳
孔子が言われた。人として仁でなければ、礼があっても何になろうか。 人として仁でなければ、楽があっても何になろうか。


儒教は礼儀と音楽で人々を導くという思想がある。 音楽で人々が和合して礼儀でけじめをつける。 音楽が和であり礼儀が敬である。まとめて礼楽という。

孔子は礼楽は大事だがその根本には仁がないといけないという。 礼楽は仁に対しては末ということになる。

同じく八佾篇から次の記述を引用する。

書下し文
子夏問ひて曰く。巧笑倩たり美目盼たり。 素をもって絢となす。とは何の謂ぞやと。 子曰く、絵事は素を後にすと。 曰く、礼は後なるかと。子曰く、予を起こす者なり。 商や始めて共に詩を言うべきのみと。
現代語訳
子夏が質問した。「詩経に『笑顔はかわいく、目元は美しい。 紅白粉でさらにきれいに。』とありますが何の意味でしょうか。」 孔子が言われた。「絵は最初色をつけてその後白粉で仕上げるようなものだ。」 子夏が言った。「礼は後ということでしょうか。」 孔子が言われた。「私を啓発してくれるのは商だよ。それでこそいっしょに詩を語ることができるね。」

若干分かりにくいが解説すると、美人はもともと顔が美しく、化粧をしてさらにきれいになる。 美人であることが「本」であり化粧が「末」と言っている。 化粧が「末」なのと同じように礼は「後」すなわち「末」であると言っている。 商とは子夏の名前。 孔子の返答に対し子夏が打てば響くように返答したのを褒めた。 美人が化粧するからいいのであって不美人が化粧するのは本末転倒なのか(笑)

綾小路きみまろという漫談家がいる。日本の中高年のスターである。 漫談の会場には60代くらいのおばちゃんがたくさん来る。彼は漫談を始めるに当たりおばちゃんたちを歓迎する。 その口上。「よくぞいらっしゃいました。そんなお顔に化粧して。」日本のおばちゃん大爆笑。 彼はおばちゃんたちに美人という「本」が欠けているのに化粧という「末」が充実しているのを笑いにしているのだ(笑) ・・・すみません。冗談です。わるふざけが過ぎました(笑)。

以上のように真心が根本で礼儀が末端というのが儒教の正統思想である。 それに反する思想もある。荀子である。『荀子』性悪篇から引用する。

書下し文
人の性は悪にしてその善なる者は偽なり。
現代語訳
人間の本性は悪であり善は後天的作為から生まれる。
書下し文
人の性は悪にして必ず師法を待ちて然る後に正しく、礼儀を得て然る後に治まる。
現代語訳
人間の本性は悪であって必ず教師による規範によってこそはじめて矯正され、 礼儀によってはじめて治まるのである。

儒教の正統思想は「仁」→「礼」の順番だが荀子は「礼」→「仁」とする。 礼が根本だとする礼中心主義である。荀子は正統思想とは逆であり異端である。

『近思録』に次の言葉がある。程伊川の言葉。

書下し文
荀子は極めて偏駁なり。ただ一句の性悪、大本すでに失えり。
現代語訳
荀子は極端に偏っている。人の本性が悪だと述べた一言で根本がすでに失われている。

荀子が異端であるというのは私も同意する。しかし荀子は扱いが難しい。 正しいことを言う時と間違えたことを言う時があり、真理と誤謬が混在している。 「ここは正しいな、ここは間違いだな。」と取捨選択して読めば大丈夫だが。 偉い人が言っているからと素直に書いてあることを信じる人は読まないほうがいいかもしれない。 私が荀子を引用する時は上記の性悪篇以外は基本的に正しいことを言っている部分のみを引用しているつもりである。

荀子は「太本を失えり」という言葉の通り、本末を理解していないところがある。 しかし部分的には正しく理解している。 例えば強国篇に次の言葉がある。

書下し文
人君たる者、礼を貴び賢を尊べばすなわち王たり。 法を重んじて民を愛すればすなわち覇たり。 利を好みて詐多ければすなわち危うく、 権謀傾覆幽険なればすなわち亡ぶ。
現代語訳
君主たる者が礼を重視して賢者を尊重していけば王者になれる。 法律を重んじて民を愛すれば覇者になれる。 利益を好んでいつわりが多いのであれば国は危うく、 権謀をめぐらし陰険であれば国が亡ぶ。

「礼を重視し賢者を尊重」→「法律を重んじて民を愛す」→「利益を好んでいつわりが多い」→「権謀をめぐらし陰険」 となり、左のほうが物事の根本に近く右に行くほど末端である。 礼儀→法律→利益→権謀と本末の流れがある。 根本を押さえた者がうまくいくと指摘している以上、 荀子は本末をある程度理解していると言って良い。

儒教の正統思想では次の本末の階梯があると思う。 天→人間本性→道→仁徳→礼儀→法律→利益→武力→権謀

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