【夢日記】杜松果
ぼくはくたびれたスーツからばさばさと汚れを払う。黴臭い。全体、いつから放置していたものかそれは黴の胞子で白く汚れていて、払うとぐるりの空気が粉っぽく感ぜられて、漂う黴の臭いにぼくは思わず涙目になるまで咳込む。
疲れ切った体を引きずって駅まで行くけれども、終電なぞトウに終わっている。伸びすぎた頭髪の襟足を指で弄びながら、終電後のこの時間に家まで帰る方法を思案してみたが、ラム酒に浸された脳細胞は何の答も持ち合わせていないらしい。
両手の指にはなぜか学生の時分に身に着けていた安物のシルバーの指輪がじゃらじゃらしている。一体何処にしまってあったのかしらん。
家には帰れないので、仕方なしに駅前をそぞろ歩く。
歩き慣れている筈の駅前には、知らない店がいっぱいあることに気づく。前の飲み屋の居抜きであろう店舗を外から二、三、ひやかしてみるものの、客の影はあまりない。前ほどは流行っていないようである。とは云ったものの、前の店がどんなだったか、酔いどれたぼくの頭ではモウ思い出すことも叶わない。新築のペンキか何かの臭いが鼻について、吐き気を催してくるのに気がついて、ぼくは慌てて歩を進める。
時間が遅い所為か、はたまた、ロクな店がなくなってしまった所為か、とにかく閑散とした駅前通りを歩き回り、朝まで飲めそうなところを探す。
そこでぼくは不図、一軒のバーがこのあたりにあるのを思い出す。
セントヘレナ。気のおけぬ仲間とよく三人で連れ立って飲みに行くところだ…三人で?連れ立って?飲みに?否-、そんな友人はぼくにはいるはずがない。
とにかく、セントヘレナに向かう。重厚な木製の扉。それがぎいっと音を立てて開いた向こうには、紫煙をくゆらせる幾人かの常連客、カウンターの向こうには、初老のマスターがいるはずである。
…しかし、扉はびくともしない。
奥からは確かに談笑が聞こえてくるのに。表の看板の明かりは確かに消えているが、まだ街は暗闇に包まれていて、奥からはひとの気配がするのに。…口惜しい。もはやぼくはこの扉の向こうに囚われて時を過ごすしかないのだ、その覚悟が固まりつつあったというのに。扉は閉じたまま、ぼくは扉の向こうで、セントヘレナに囚われてこの忌々しい黴とともに朽ち果てることも許されない。同名の孤島に果てた歴史上の廃帝に、鼻で嗤われたような気がする。
モウ駅前のビジネスホテルにでも宿をとるしかあるまい。
諦めて、駅前の安宿に向かう。向かう途中でぽつりぽつりと雨が降ってくる。ぽつりぽつりから始まって、目指す宿に着くころにはスッカリ本降りになっている。おかげで黴の粉はかなり流された。伸びきった頭髪から水滴がしたたるのに任せて、ぼくはフロントに向かって、ボーイに空室を取って貰う。
無表情なボーイ、否、ボーイと呼ぶには随分と年齢が行っているようだが、とにかく彼は私の前にことりと音を立ててグラスを置く。ありがたい、酔っ払いに水を出してくれた、と思って口をつけるが、喉を灼く感覚と鼻に抜ける香気から、それが氷の浮いたジンであることがわかる。
もしかして、これは…
…
…
…
…というところで目が覚めた。身の回りの色々の事情で、心身の疲労が蓄積しているのを感ずる。
夜な夜な文字の海に漕ぎ出すための船賃に活用させていただきます。そしてきっと船旅で得たものを、またここにご披露いたしましょう。