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【夢日記】爪痕

屋敷の戸口に立つ。

昔ながらの古い町並みが残るこの町では、伝統的な日本家屋も珍しくはない。ぼくは無闇に立派な門を開けて、中に這入り、古くて大きな屋敷の戸口に立っていた。

空が白みかけてはいたものの、未だ日が昇ると云う時間でもない。早朝と云うよりは、夜中と云うべき時間だった。

正直なところ、ぼくはどうして自分がこの屋敷の戸口に立っているのか判然としない。たれか人に会いに来たような気もするが、どうやっても思い出せそうにない。コンナ夜更けに…と心の底ではびくびくしいしい、ぼくはとうとう呼び鈴を鳴らして仕舞った。

釦を押すと、中でジイとブザが鳴るようだった。

当たり前だが、たれも出て来る気配はない。よせば良いのに、ぼくはまたひとつジイとやった。そうすると、奥の方でがたがたと物音がして、近づいてくる者がある。ハッキリとはわかりかねるけれども、白っぽい服装をした白髪の老人、背格好からすると、何でも女性のようだった。其れが玄関の引き戸の磨りガラス越しに見えている。余程顔を近づけたか、引き戸の縦格子の隙間からぎょろっとした瞳が覗いているのが見える。

「はあい。どなた?」

ぼくは何とも答えられない。それはそうだ。何故にぼくが此の屋敷に来ていて、目的は何なのか、ぼくは知らない。其れさえ思い出さない前に、住人が戸口まで来て仕舞った。こう云った塩梅式だから、ぼくの方では何とも答えかねた。

「はあい、どなた?」
「はあい、どなた?」
「はあい、どなた?」

丸で機械音声の再生釦でも出鱈目に押しまくったように、磨りガラス越しの老婆は同じ言葉を同じ調子で延々と繰り返す。心臓が激しく脈打つのがわかる。

カチと云う音がして、玄関のドアーの鍵が外された。

駄目だ駄目だ駄目だ駄目だ駄目だ…。理由はわからないが、心が全力で拒絶の声をあげている。引き戸が開いた向こう側にいるものと接してはならない。そう思っても、ぼくの両足は動くことなく、代わりに引き戸がからからと見た目よりも軽い音を立てて、ゆっくり用心深く開いていく。

中に立っていたのは想像通り、白っぽい寝巻きに身を包んだ白髪頭の老婆だった。短い頭髪を爪でぼりぼりと掻きながら、「はあい、どなた?」と、モウ一度云う。

何とも云われずに、「はあ」とか「へえ」とか好い加減な返事しか出てこず、ぼくはへどもどするよりほかに仕方なかった。老婆は無表情に自分をジッと見ていたが、次の瞬間、閃光の如き速さでぼくの左手首を掴んだ。

一瞬、なにが起こったのかわからず、反射的に手首を引いて老婆の手を振りほどこうとしたものの、物凄い力である。老婆は相変わらず無表情だ。ぎぎぎ…と引こうとした左手が震えるも、なおも老婆の指はぼくの手首を離さない。爪が食い込んでくる。痛みが走る。爪痕が傷になって、三、四本くらい赤い筋が残った。

「あいすみません、どうも家を間違ったものですから…」とぼくは云うが、老婆は聞いているのかわからない。

其処に一台の自動車が通りがかり、自動車のラムプの光が眩しかったのか、老婆が怯んで指の力が緩んだ。其の隙に自分は逃げ出すことができたが、老婆はそれでも未だ追いすがってくる。今度は右の脇腹に爪が食い込んだ。上衣ではなく、中に着ていたワイシャツの脇腹に容赦なく爪が食い込んでくる。ぼくは歯を食いしばって痛みに耐え、「すみません、すみません」と云いながら、どうかして走って逃げた。雀がちゅんちゅんと啼いていた。

…目が覚めると、そこは居間のソファだった。また毛布一枚かけて、ソファで眠りこんでしまったものらしい。あたりの光というよりも、ひりひりとした痛みで目がさめた。思わず左手首を見やると、そこには、あの老婆につけられた左手首の傷が幾筋も残っているではないか。右の脇腹にもちくちくとした痛みがある。果たして、そこにもちょうど夢の老婆にやられた位置に爪でつけたような大きな傷ができていた。

生傷というのは本当に痛いもので、かさぶたのようになるまでに半日くらいはかかった。痛くて、湯浴みをするのにも難儀するほどだ。

いったい、この傷はどうやってついたのだろうか。

寝ぼけて自分で引っ掻いたと思うことにするが、自分でやったにしては夢とぴったり同じ位置に随分と器用に傷をつけたものだ。 

夜な夜な文字の海に漕ぎ出すための船賃に活用させていただきます。そしてきっと船旅で得たものを、またここにご披露いたしましょう。