【夢日記】蟹
風呂上がり。
ぼくは伸びてきたのにここ最近多忙で切る暇のない髪の毛を、出勤前にワックスで以て無理に固めようとしている。
それにしてもよく伸びたものだ。
後ろ髪はもはや肩にまでかかろうとしているではないか。
桃色をしたプラスチックの丸い容器から、火傷の軟膏みたようなワックスを指先にいくらか取って、それを掌に延ばす。べたべたする手でぼくは頭を何度か額から後頭部の方になでつける。
なにが良くないのか、ぼくの髪の毛はうまくまとまらない。ワックスの白く固まったのが、髪の毛の合間合間に見え隠れしていて、とても客前に出られるような頭ではない。
あと少しで会社に出なければならないのに…。
ぼくは焦った。
焦ったぼくの髪の毛の隙間に、ワックス以外のなにかがちらついて見える。
厭だな、また白髪かしらん。
けれども、それはチラと見えては髪の毛の隙間に引っ込む。
別の角度から、また赤いような黄色いようなのが見える。…それは、明らかになにか生き物だった。…虫?― 否、虫にしては少しく大きいようだが。いつのまにか、頭の全体に、長く伸びた髪の毛の隙間からそれらが出たり這入ったりするのが見えるようになっている。
それは、蟹である。
沢蟹とでも云えば好いのか、なにか小型の蟹がしきりにぼくの長い髪の毛のあいだを縫って出たり引っ込んだりを繰り返している。
そいつらは、ぼくがいまの町に越してくる前の町の駅近くにあった酒場で見かけたものに相違なかった。其処はこじんまりとした居酒屋で、「おれも昔はワルだったんさ」と嘯くしょうもない地元の中年・初老の紳士がたまり場にしていて、水商売の香水臭い小娘同伴で安酒を引っかけるような店だ。
カウンターのところに小さな水槽があって、そこに沢蟹たちが入れられてある。元気のある蟹たちのようで、水槽の底に入れられた砂利や小石を盛んに昇り降りし、なかには仲間の背の上にまでどんどん昇る奴もある。水槽の小世界は活気に満ちている。
そこで大将がぼくに声をかける。
「兄さん、どうだい。こいつを唐揚げにしてみては。活きが良いから、きっとうまいし、ビールや焼酎にもぴったりだぜ」
ぼくは何と云って返事をしたものか、いまでは思い出せない。しかし、何とか云って断ろうとしたのだと思う。それでも大将はなにか理由を付けて蟹たちを水槽からそっくり攫って油に抛り込んで仕舞う。
かくして、高温の油ですっかり火の通った蟹たちは、てかてかと輝きながら皿に盛られてぼくの眼前に置かれる。それらは生きていたときよりも、モット躍動的に鋏を天に突き上げて硬直している。
「凄いだろう。やっぱり活きが良いとちがうだろう。美味いから熱いうちにやり給えよ」
ぼくは沢蟹たちの、ツイいまのいままで生きていた小さな命をぱりぽりと平らげて(実際、それは中々美味かった)、その上に酎ハイを流し込んでしまう。
いま目の前に起きているこれは、そのときの恨みなのではないか。
蟹たちは鏡越しに、各々両の鋏を持上げ、物凄い形相でぼくを凝視している…
…と云うところで目が覚めた。
昨夜飲まされた、好きでもないハイボールの味が胃の底からふうわりと浮かび上がってきて、悪寒がする。ぼくはよれよれのスーツに身を包んで、オンボロの代車に乗り込んだ。
夜な夜な文字の海に漕ぎ出すための船賃に活用させていただきます。そしてきっと船旅で得たものを、またここにご披露いたしましょう。