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【夢日記】担当外の仕事

広い教室にいる。いつもの職場である。しかし、きょうはまったく落ち着かない気分でそこにいる。どういう事情か知らないが、本務である英語の授業ではなく、国語の授業をしなければならない。そして、そのことをいま知ったのでどうして良いかわからず困っている。

国語担当の主任が苛立った口調で言う。

「準備ができていないってどういうこと。おかしいやろ、前からわかってたことなのに。なにやってんの。もうええわ、おれが15分くらいやるから、そこで座って見ながら、残りの時間、生徒になに話すか考えとき」

あまり話す機会のない主任だが、このひとには頭が上がらない。15分後、てきぱきとした解説を終えて、主任が教壇から降りてくる。いけない。何を話したら良いのか、まったく思いつかない。

それでも、教室中の視線を一身に感じて、なにか話さないわけにも行くまいと、仕方なしに教壇に上っていく。ひとつ咳ばらいをして、気持ちを落ち着かせてから

「えー、本日は少し現代文に関するお話をしたいと思います。よく評論に登場して話の下敷きとなっている古典的な思想の話です」

でまかせに私はそんなようなことを云い出した。…まずい。プリントも一切ないのにおれはなにを話そうというんだ、と私は自問した。

「みなさんはコギト・エルゴ・スムということばを、問題文に付けられた注釈なしに説明できますか」

どうやら私はデカルトの話でもしてお茶を濁すと見える。しかしこれでは国語の授業というよりも哲学史、高校生相手ではせいぜいのところ「倫理」科の授業ではないか。

私の「国語」の話は問題文もなしにずんずん進んでいく。そのうちにデカルト流の心身二元論の難点とかお決まりの話をしだして、フッサールの現象学あたりにまで話が及ぶが、まあお定まりの展開である。話をしている当人はどんな入門書にもあるようなこんなつまらん話を聞かせて良いのかしらん、と不安に思って冷や汗ものだが(それで良いのだ。当然だ!学部入試の段階ではそれだけでもうたくさん!)、途中にはさむ冗談に紛れてどうやら化けの皮は剥がれずにいるようだ。

しかし、そこで雲行きが怪しくなりだした。

「…と、ここまではいわゆる教科書的な定説でありまして」

要らんこと云うな、と自分に突っ込みを入れる。そこからはどこをどう話したものか。物的一元論をやっつけて、「現代思想では旗色が悪い」とか云いながらも心的一元論について話を始め、現象的な観念論からとうとう独我論へと話が及び、袋小路に追い詰められて、自分でも何と話を接げば良いのか四苦八苦しているところで、エアコン直下のソファで毛布にくるまっている自分に気づいた。

喉がからからになっている。

生徒たちが困惑するのも気にかけずに大学院入試みたいな内容の哲学史を大教室で喋り倒してしまったからなのか。定説の上にも定説を塗り固めて、考える力、デカルト流の試みに疑ってみる力(方法的懐疑)を圧殺せざるをえない日常業務に少々嫌気がさしてきたものか…否、所詮は受験戦争の雇われ兵士。そんなご立派な志でもあるまい。ただエアコンによる空気の乾燥にやられただけなのだろう。やれやれ。

夜な夜な文字の海に漕ぎ出すための船賃に活用させていただきます。そしてきっと船旅で得たものを、またここにご披露いたしましょう。