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【夢日記】滅びゆく図書館

其処は豪奢なる、天井の高い建物である。一階奥の閲覧室にはシャンデリアなぞが吊つてあつて、ひとが優に十人も十五人も並んで立つてゐることのできさうな眼前の広い階段には、赤い絨毯が敷かれてある。

都に位置する図書館では、既に鬼籍に這入つた沢山の作家だの、詩人だの、思想家だのと云つた連中の思考が、書架に累々とその軀をば陳列せられてゐる。

僕はかういふ思考の墓場を愛してやまぬ者の一人である。静かで、冷たく、何時迄もカサリカサリと思考の軀どもが乾いた音を立て続ける其場所を…。

然るに、いまはなにかが違つてゐるやうだけれども、其れが何なのかといふ肝心の事は、僕にはとんとわからずに居る。

眼前には「三十分百円」と大書せられた看板が掲げられていて、脇には「サブスクプラン購読のお客様は出入自由」と注意書きが添へられてある。ハテ、百円玉は残つてゐたかしらん、と僕は財布に手を伸ばす。

百円を投入するとピンポンと間の抜けた音がして改札口が開く。赤絨毯の階段を踏みしめているあいだにも、明るい曲調の歌謡が聞こえて来る。流行りの歌かなにかなのだらう。

僕はエレキギタアのかき鳴らされる音に顔をしかめながら、階上で僕を待ち受ける静謐な思考の墓地を想ふ。過ぎ去つて仕舞つた時代の先達と、頁を繰りつつ無言の対話を交はす、あの静かなる歓びだけを僕は想ふやうにする。

階段の手摺には電灯の沢山付いた配線が巻きつけられてあつて、チラクラと目障りに明滅してゐる。「どうでせう、ワンタイムだけでも…」何処からか、しつこい勧誘の声も。階段には何時の間にか、酔客たちの群れが見える。

僕はハァと一ツ溜息をついてから、一段又一段と階段を踏みしめる。

階上にたどり着けば、其処に僕の静謐な大閲覧室が待つてゐるのだ。階段を昇りきつたら、回れ右をして真ッ直ぐに行く。這入って左のずつと奥迄行けば、他の利用者も滅多に来ることのない、学生時分が陣取つてきた僕だけの指定席がある。

然るに、階上に在る物も階下の俗悪なる雑踏と選ぶところはない。

書架からは古典的の名著やら、学術雑誌やらがすつかり取り去られてゐて、凡俗の「知る権利」とやらを満腹させることを意図した下世話なゴシツプ満載の週刊雑誌だのタブロイド紙だのばかりが置かれてある。「…の略奪不倫婚」、「…とお忍び濃密デートの夜」、「…泥沼破局の果てに」、「低偏差値から有名大へ コスパの良い高校」……等、等、等。変わり果てた書架を横目に僕は大閲覧室へと急ぐ。

先人たちの知の軀は何処かに移設せられたのであらうか。
さうだ、きつとさうだとも。

けれども、進めども進めども、書架にあるのは僕の探してゐるのとは異なるものばかり。「タスク管理の超絶技巧」、「お金の増やし方」、「プレゼンのうまい人が絶対にやつてゐること」、「ぼくにこのバナナを百万円で売つて見て下さい」、「やる気に頼らない仕事の回し方」、「東大に…人の子供を入れたパパとママの子育て術」……所謂、ビジネス書やら実用書やらの類でひしめき合つてゐる。

嗚呼、此処もか。

貸出の機械が置かれてあつた所にもいまはテレビジヨンが置かれてゐて、某国の戦争を報じるワイドシヨオに呼ばれた芸能人が不勉強極まる頓珍漢な発言を繰り返してゐる。

ああいふ「本」(僕の考では其れは実は書物とも呼べないやうな代物である)や「報道」(同じく。ほんの僅かの事実に、チヨツト目眩のするほどに大量の無知蒙昧なるコメントで嵩を増したるもの)を有り難く拝謁してゐる「利用者」が、僕の好きな此図書館をいまではすつかり埋め尽くしてゐることに気づき、ぼくは戦慄を感じる。

テキーラで乱痴気騒ぎの乱発してゐる酒臭い大閲覧室を僕は敗走する…!

奥にひとつ、小さな扉が見える。ノブを回して僕は其処に飛び込む。入室の途端に僕の頬になにかが触れる。

…!

眼の前には、麻縄で出来た…

…というところで目が覚めた。滅びゆく図書館の夢は二度目だった。朝の六時二十分。寝覚めが悪い。胃の底の方から不快な臭気を感じる。ぼくは体を起こして額の汗を手の甲で拭い、冷蔵庫から冷たい麦茶を出してきて胃に流し込んだ。

嗚呼、「なんという俗悪さ加減」!

夜な夜な文字の海に漕ぎ出すための船賃に活用させていただきます。そしてきっと船旅で得たものを、またここにご披露いたしましょう。