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ガラパゴス化再考 〜写真を撮ること、世界を開くこと

 写真を撮る時には、私は撮る対象を肯定している。
 それが好きだとは限らない。不快感を覚える汚物であっても、その時には、それがそこにあることを肯定している。撮りながら嘔吐することもある。撮った後に、そそくさと去ることもあるし、洗い流してしまうこともある。だが、撮っている時には、それから焦点を外さない。
 好きなものを撮る時も同じことだ。撮りながら舌なめずりをし、撮った後に抱き締めもすれば、食べてしまうこともある。だが、撮っている時には、それから間を置いて、それそのままにしておく。
 そして、その時に、その対象において、世界が開かれる。その世界には、もちろん、その世界を撮っている、私、も含まれている。
 写真を撮り続けると、そのような、世界を開くこと、が鍛えられる。
 そのうち、対象は視覚のもの以外にも広がって行く。
 薔薇の香りでも生魚の腐臭でも、鶯の囀りでも車の騒音でも、葡萄の甘さでも草の苦さでも、女の手の触れでも男の拳の打ちつけでも、いつでもどこでもどんなものでも、世界の開けの手掛かりになる。
 他方で、写真を撮った後の世界には、私はさして関心がない。スマホにただ保存したままに出来上がった写真を見ないこともある。昔であれば、写真は印画紙に現像したわけだが、儀式的にそうしはするが、紙に定着した像をしげしげと見はしない。現像しないこともあった。印画紙にはおろか、フィルムさえそうしなかった。
 真っ正直に言って、開いた後の世界がどうであるか、どうなるかはどうでも良い。
 いや、しかし、この言い方は投げやりすぎる。開いた世界は、開かれが驚くべき事態であるのと同じくらい、それが現にそのようになっていることに驚かれるべきなのだ。だから、開いた世界はどれもが良い、そう言われなければならない。
 どれもが良いのだ。何故世界が現にそうなっているのかは分からない。そう作ったのは或る誰かかもしれない。自然かも、歴史かも、神かもしれない。私かもしれない。
 こういう物言いをすると、お前は受動的だ消極的だ依存的だと言われること多なのだが、そこは私の本丸ではないので仕方がない。そこに何が遣って来ても、私はそれをそこそこ楽しめてしまうのだ。少々きついストレスが来ても、根本的な束縛とは感じない。世界が現にそうなっていることに驚くというのは、世界がそうなってはいなかったかもしれないと併せて想っているということで、そうなっていない別の可能性の中には、そもそも世界が現れないことも含まれる。だとしたら、兎にも角にも世界が現れてくれたことに、文字通り、有り難さを覚えざるを得ない。
 それに、写真を撮る時の世界の開かれ、あれこそが、能動を良しと言うのであれば、絶対的な能動性だ。
 開かれの中に、私は放り込まれているだけなのかもしれない。世界によって、写真を撮るように仕向けられているのかもしれない。だが、はっきりと言えることは、そこに私が居なければ、世界は開かれないということだ。そのような私の、私であることそれ自体の能動性以上の能動性を、私は想像することができない。
 だから、大方のことにはオッケーの私が唯一絶対的に拒否するのは、世界の開かれが起こらないようにされること、つまり、写真を撮るのを否定されることだ。
 しかし、これは、表現の自由とか創造性の称揚といったことと近いのかといういうと、そうでもない。そうしたことは、開かれた後での世界の操作にまつわることだと私は思うからだ。世界の開けを体現するのは、別に創造的な者に限られているわけではない。その意味で、世界の開けは、今ここでの、政治的な行いだと言えるかもしれない。


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