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Blood in the Syringe #1

#1. 初めてのインド



 十六歳の頃、おれは大きなリュックサックを背負って世界中を旅するバックパッカーに憧れていた。
 居酒屋でバイトなんかしてちまちまと旅費を稼ぐ様な、アメブロかなんかによくいる大学生では決して無い。学校など行かなくなって久しかった。あの頃はとにかく何かから逃げなきゃいけなかった気がしてならなかった。
 当時、おれは今で言うプッシャーというやつで、甘〜い咳止め液やシンナー、ラッシュなんかを学生や親父に売り捌いていた。クソッタレの親父を殺して少年院から出てきてすぐの事だったからよく覚えている。
 太田先輩──彼がどこからいくらで引いている(薬を買うことを引く、と呼ぶのだ)のかはわからないし、教えてくれなかった。おれがどっぷり漬かるのが怖かったのか、あるいはいくらかハネていたのかはわからないが、おそらく後者だろう。それを差し引いても、良い先輩だったことは確かだ。
 とにかく彼から引いてきたブツに混ぜ物をして嵩を増してから売る。当時はインターネットなんていう便利なものは無かったから、少年院で仕入れた方法だ。悪質。流石にここに書くことは出来ない。そんなモノと幾らかの金を握りしめ、おれは夜な夜な歌舞伎町や六本木のクラブに立っていた。
 売れ行きはそこそこに好調で、特にキャバ嬢やホステス、ソープにハマった親父なんかが良く買っていった。次第にシンナーやラッシュのブームは鎮火してゆくわけだが、今よりずっと稼いでいたことは確かだ。リスクのある仕事はリターンも美味しい。

 ゴアのマリファナは美味い。太田先輩(仮名)は酔いながらよくそう言っていた。べろべろになってる時も、ああ、信一、ゴアに行けよ。インドのゴアだぞ、あそこは良いさ、って具合に、それはもううわ言の様に。それから間もなく太田先輩は恐喝でパクられたけど、彼のおかげでおれはインドにハマり、ドラッグにハマり、そして世界旅行にどっぷりとハマることになってしまったのだ。


 金が出来次第すぐにインドに向かった。太田先輩がパクられておれもヤバいからだ。
 羽田空港からムンバイまで飛行機に揺られて十五時間。そこからはローカル便で直接ゴアに向かった。
 こう二行で書くのは楽だが、初めてのインドでのローカル便乗り換え。完全に調子に乗った旅人そのものだった。あくまで”旅ブログ”では無いので詳細はまた別の機会にでも、と言いたいところだが、多分あなたの想像の倍悲惨なことが起きた。

 初めてのインドは想像とそう違わない。異国情緒満載も満載、世界中探してもこんな不思議な雰囲気の国は無いだろう。サドゥーと呼ばれる修行僧が当然のようにハシシ(大麻のことだ)を吸っていて、バイクの排ガスの臭いの裏には確かにスパイスの香りがするのだ。
 インドのプッシャーはおれたちみたいに裏路地でひっそりと商売なんかしない。観光客の所に駆け寄っては「Wanna Ganja?(大麻あるよ!)」って具合に、もう半分押し売りみたいなもんだった。まさしく「プッシャー」だ。
 おれはタージマハルを見に来たわけでも、ガンジス川に洗礼に来たわけでもない。マリファナを吸いにはるばる、日本からゴアまでやって来たのだ。値切りもそこそこに、今考えると相当にボッタくりな値段ではあったけれど、そのプッシャーからとりあえず一通り──ネタはもちろん、巻紙からグラインダーまで──購入することが出来た。

 安心するのはまだ早い。一応インドではマリファナは違法だ。黙認されているとはいえ、袖の下目当てでポリ公なんかにいちゃもんつけられた時には面倒な事が待っている。駆け出す気持ちを抑えつつ、おれは宿に向かった。

 プッシャーから受け取った小さなパッケージの中にはバッズ──煙草とはまた違う緑色の草が入っていて、まずはこれをグラインダーと呼ばれる道具で粉々にする。紙粘土くらいの硬さなので、針が無数についたグラインダーの中に入れて回してやるとぼろぼろと崩すことができる。
 それらを50ルピー札の上に出したら巻紙を綺麗に縦に折り、吸口となるローチをセット。ここまできたらあとは日本男児であれば当然のように知っている。くるくると円錐状に、粉末を継ぎ足しながら巻いて行くと、パンパンに詰まったジョイントの完成だ。おれは煙草を吸っていたのでまず最初はボングではなくジョイントでいただく。そう決めていたのだ。

 マリファナのやっかいな所は火が着きにくい。アメリカン・スピリットよりも断然だ。燃焼材の入っていない枯葉に火をつけるようなもので、片焼けにならないように少しづつ吹かしながらゆっくりと点火する。

 初めてだったが、うまく火を付ける事が出来た。目一杯に口に吸い、肺の奥深くまで浸透させるようにさらに吸い込む。よく詰まっている分吸いづらく、3口ほど吸ってから肺に馴染ませる様に息を止める。吐き出す。薄くなった煙が伸びる。味はなんというか、かなり苦い。緑茶や抹茶系の苦さに煙草の苦さを足した様な感じで、あまり美味しいものでは無かった。マァ、初めはなんでもそんな物だ。直接煙の当たる口蓋が痺れるのがわかってきた。

 マリファナというものはフィルターが無い分、かなり短くなるまで吸う。最後のひとくちを吸いきってもあまり効果がわからず、もしかしたら摑まされたか、そう思って立ち上がると、ほろ酔いの様な目眩と陶酔感が襲って来た。
 口蓋の痺れがいつの間にか頭全体に伝播している。いやな痺れではなく、麻痺している様な気持ちの良い痺れ方。頭がぼーっとしてきて、そのままじっとしてると目が飛び出そうになるくらい血が上っているのを感じる。そうか、マリファナはこんな感じなのか。そりゃあ太田先輩もはまるよなあ。その時のおれはなぜか少し達観していたのを覚えている。
 頭の痺れは勢いを増し、口蓋の痺れが口渇感に変わる。とにかくマリファナというものは喉が乾くのだ。バックパックの水をがぶ飲みすると、急に口角が上がり始める。あれ? なんでこんなに水飲んでるんだおれ? しかも直飲みで!
 何一つ面白くもない状況だが、どうにも笑いが止まらない。更にそんな事で笑っている自分がまた面白く、連鎖はしばらく続くのだ。しまいにはけたけたと肩を震わせて爆笑していた。
 マリファナが効いている間は体の感覚が鋭敏になる。例えばお腹に意識を集中させれば、頭の痺れはお腹に移動する。もぞもぞとお腹がくすぐったくなり、それをお腹が空いたと勘違いさせる。バックパックからチョコレートを取り出してひとくち食べる。美味い。普段意識しない、カカオの香りや猛烈な砂糖の甘味が口の中にべったりとへばりつく。また水を飲む。チョコレートを食べる。それだけで可笑しくて笑う。おれは完全にハイになっていた。
 "人生初最高のGood shitz”。まさにこの時の俺のためにあるリリックだ。
 不思議な感覚は言葉通り永遠のように続いた。街中で流れるラテン・ポップがひどく素晴らしい曲に聞こえる。メイン・ヴォーカルが真ん中で、その周りをひとつひとつの楽器が演奏しているのが頭の中で情景として浮かぶのだ。

 ソファーにぐったりと座って、ぼーっとしながら痺れを楽しむ。聞こえてくる異国の喧騒と音楽。何を考えるわけでもない。ただ座るだけ。それだけで幸せを感じるのだ。おれは旅人だった。生まれた瞬間から、そして初めてジョイントにキスをしたあの瞬間から。

 太田先輩は間違ってなかった。確かにゴアのマリファナは美味い。ああ、またインドに来よう。マリファナを吸いに。




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