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【第6章】民主主義のはきちがい

1.あやまりやすい自由

1945年まで、日本は、長い間、戦争という大きな問題を、かかえていたものですから、政府や軍部の強い圧力で、個人の考えや、能力、立場というものを、少しもみとめられない (封建的)生活を、続けてきたのです。
ところが、太平洋戦争に負けると同時に、アメリカの指図に従って、お互いの考え方や、能力、立場などをみとめる民主主義に、ぬりかえられてしまったのです。
当時は、急に、民主主義が、入ってきたものですから、よく理解することができないまま、なんでも民主主義、民主主義と、言い出したのも無理のないことです。
とくに、"自由"については、これまでの圧力に対する反動も加わって、規則や訓練などを、不必要なもの、自由をさまたげるものという、考え方をする人が出てきたほどです。
“自由”には、『低い自由』と『高い自由』とがあるのです。

“低い自由”は、もっとも原始的な自由であって、規則も約束も、教育もいらない、本能や気のむくままに行動する、といったものです。
これでは、自分のからだも、失ってしまうでしょうし、社会生活というものを、混乱と不安、恐怖に導いてしまうではありませんか。このような自由が、“自分勝手”とか“わがまま”とか、いわれるものです。
“高い自由”とは、文化的な自由のことをいいます。
文化とは、人間が、より住みよい社会をつくるために、手を加えたり、すじみちをつけることをいうのです。
したがって、文化的な自由は、本能や気のむくままに、行動することではなく、秩序や順序による自由をいうのです。
“高い自由”こそ、平和と安心のうちに、お互いが、住みよい社会生活を営むことができるものです。
“低い自由”と“高い自由”を、もっともわかりやすく知るには、交通信号のことを、考えてみたらよいのです。
電車や自動車などが、はげしく通っている道路に、交通を整理する信号がなかったら、どんなにか危険であるばかりでなく、老人や子どもなどは、道路を横断することも、できないでしょう。
進路に交通信号があり、お互いが信号を守るので、だれもが安全に、自由に、道路を横断できるではありませんか。
これが“高い自由”なのです。

2.あやまりやすい平等

人間は、自由を願うと同時に、平等を願ってやみません。
人種の差別問題などは、不平等な待遇に対しての、不満から起きています。
民主主義は、人格や、人権の尊重という建前から、とくに、平等を、目標の一つに、かかげています。
日本の国に、入ってきた民主主義は、これまでの帝国主義を崩そうとねらったものですから、とくに、平等について、力強く、みちびいたものです。
ところが、平等にも『機械的な平等』と『人間的な平等』との、二つがあるのです。
平等の笛におどらされて、“平等”とさけんでいる平等は、“機械的な平等”である場合が多いのです。
さて、“機械的な平等”とは、どんなものかというと、人それぞれの体力や、知能、事情などを無視した平等です。
この“機械的な平等”を、いかにも、公平であるように、あやまりやすいのです。
仮に、老人、幼児、青年の三人に、同じ重量の得物を、運搬させてごらんなさい。また、この三人に、同じ量の食糧を、与えてごらんなさい。これが、平等であり、公平であるといえましょうか。
会社や工場に、長年働いてきた人と、本年入ったばかりのあなたと、人間としての尊さには、変りはないでしょう。
また、会社や工場のために、働こうとする熱意にも、変りはないでしょうが、仕事に対しての経験と、それによって、仕事の出来、不出来という差もついているでしょう。
また、会社や工場につくした功績というものでは、大変な違いがあるでしょう。
これらの条件を無視して、「同じ従業員ではないか、平等に給料を支払ってほしい」といえるでしょうか。
“人間的な平等”とは、人によってちがっているところの、いろいろな条件を考えて、それぞれの区別をし、割りあて、分配、待遇することを、いうのです。
“機械的な平等”からは、不公平がうまれ、また、不満が、生ずるでしょう。
“人間的な平等”からは、真の公平と満足が、うまれることでしょう。
目上、同僚、部下それぞれの順序にしたがい、人それぞれの条件によって、区別することが、真の平等ではありませんか。
この順序があり、区別があるところに、努力のかいもあり、仕事に対する意欲し、わいてくることを、あやまりなく、知っておきたいものです。

3.あやまりやすい権利の主張

終戦後、日本では、ある特定の人にだけ与えられていた権利というものを、民主的な憲法のもとに、すべての人に、平等に分け与えられるようになりました。
婦人には、与えられなかった参政権(直接、政治にお加する権利)が、与えられたり、妻には、特別な場合をのぞいては、なかった離婚の申出の権利が、与えられたりしました。
会社や工場に働く人々にも、これまでになかった、いろいろな権利(団結権・団体交渉権・争議権・労働基準監督権など……)を、与えられるようになり、すばらしい時代へと変化してきました。
しかし、これまでは、義務と責任だけをしいられていたものですから、急に手のうちに入った権利ということに、力が入りすぎた感じがあります。
権利と義務と責任は、職務を中心として、三位一体(さんみいったい)のものであって切りはなして考えることが、できないものなのです。
働く人々は、与えられた職務を、責任をもって、果たす義務があるのです。責任をもって義務を果たしたときに、はじめて権利を与えられるものです。
言い換えると、権利の主張の裏付けが、義務と責任を果たす、ということになるわけです。
国民には、民主的な憲法によって、平等に選挙権を与えられたとはいっても、だれにでも、与えているのではありません。
国民の義務や責任を、十分にはたすことのできない18歳未満の未成年者や法律をおかして、処罰をうけている人には、権利を与えてはいません。
権利を主張する前に、まず、義務を果たすことが、 先決であることを、知っておきたいものです。

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