見出し画像

【第7章】生命(いのち)とは考え方である

1.考え方が態度・行動・心がけに現われる

人間の生命(いのち)とはなんでしょうか。 「いのちあってのものだね」などと、いわれているように、財産よりも地位よりも、たいせつなものは生命です。そこで、生命は脳細胞や血液や心臓と言いたいでしょうが、それは、人間以外の動物にも備わっているのですから、ことさら“人間の生命”といえません。
人間の生命は、社会人として、社会のために役に立つ人としての目安となったり、健実な働きのもととなるものをいうのですから、“考え方”を生命と考えたいのです。
が、なぜ、考え方を人間の生命というのか、しばらく考え方について考えてみましょう。

考え方によって、同じ人が同じものを見ても、同じことを聞いても、同じものを味わっても、それぞれ違って見えたり、聞えたり、味わうことになるのです。つまり、目は、対象を網膜にうつす道具で、網膜に映った対象を、みとめること、快・不快を感じることや、対象の“良し”・“悪し”を判別するのは、“考え方”です。耳も同じことです。耳は、音響を鼓膜の振動でとらえる道具で、音響の快・不快や美しいとか、やかましいなどを感じたり、耳に聞えた音響やことばを理解するはたらきは、耳ではなく“考え方”です。舌も、目や耳と同じように、甘い・辛い・すっぱい・にがいなどを感ずる道具で“うまい”とか“まずい”と感ずるのは“考え方”です
目・耳・舌のほか、臭いをかぐ鼻、熱い、つめたい、硬い、やわらかいなどを感ずる皮膚も、触感をつかさどっている道具にすぎません。快・不快・良し・悪しは、すべて“考え方”によって違って感じられるものです。
考え方は、人によってちがうばかりでなく、同じ人でも、その時によってちがうものです。なぜならば、考え方は、“経験” “知識” “性格”がもとになっているからです。
同じものを見ても、経験が豊富であるか、乏しいか、知識が深いか浅いかで、対象から受けとる感じに、大きな差がでてくるのです。
また、性格が明るいか、暗いか、積極的であるか消極的であるか、のちがいで、対象となることがらを、まったく反対に感じるのです。
したがって、同じ環境や境遇であっても、ある人は、『ふしあわせ』であると感じるとき、他の人は『しあわせ』と感じたり、同じことがらに出あっても、ある人は『やりがいがある』と感じ、他の人は『最悪の状態』と感じることでしょう。
ところで、考え方は、五官を通じて感じることを右左するだけでなく、社会的な信用となる“人格”の評価の目安となったり、働きの結果を実らせたり、働きを“むだ”におわらせる“態度や行動・心がけ”に、そのまま現われます。
態度は、上品・下品・まじめ・ふまじめをはじめとして、やる気がある・やる気がない、任せられる、任せられないなどと、人がらを評価されるもので、服装や髪型の好み、着こなし、化粧の仕方、アクセサリーの趣味などをはじめ、働きぶり、言葉遣い、礼儀作法などがふくまれています。
行動は、朝起きるときから、夜寝るまでの間の、“しわざ”、“おこない”をいいます。行動の良し・悪しは、年令や立場、その時の状況などによってちがいますが、おおよそのことは、社会常識としてはっきり決まっているものです。そのため、行動をみて、「誠実である」「誠実さがない」など、責任感や熱意の有無を、推し量られるばかりでなく、実際に、働きの成果を左右するものです、そこで、新入社員として、上司から信頼される行動をあげてみると、次のようなことです。
○出勤時間の10分前には会社に入っている。
○与えられた仕事は、上司の指示にしたがって、機敏に、正確に、明らかにやる。
〇分らないことは、すぐ聞く、自分勝手な判断でいいかげんなことをしない。
○仕事の経過を、上司に連絡や報告を進んでする。
○仕事の後始末はきちんとする。
○退社後は、まっすぐ帰宅する。
○評判の悪い場所に出入しない。
○まじめな友だちと交際する……など。
心がけは、たしなみや用意など、こころがけることです。心がけがよいか、心がけが悪いかは、態度や行動と同じように、人間が長い年月にわたって体験したもので、社会人としての信用の“ものさし”となっているものです。
心がけは、精神的な向上から、知識や技術の修得をはじめ、健康の保持や増進、将来の生活などについて“どのようにするか”を見定めて、具体的に用意することです。したがって、心がけの良い人と、心がけの悪い人とは、現在にも将来にも大きな隔たりがでてきます。
前項『8時間をどう生かすか』にある、プロ野球選手が、心身のコントロールについて、どのように心がけているか、再読してください。
スポーツの実況放送で、「あの選手が、めきめき記録を更新してゆくのは、心がけがいいからです」と話していることよく聞きます。この場合の心がけとは、訓練のことや健康管理のことだけでなく、スポーツそのものと関係がないように思う『日常の心がけ』を、取りあげていることが多いようです。態度や行動・心がけは、社会的な信用の尺度となるばかりでなく、働きの成果に大きく影響することを、知っていただきましたが、すべてが“考え方”がもとになっていることを、あらためて認識してもらいたいのです。

2.考え方が環境や境遇にそのまま反映する

目、耳、舌など五官でとらえた対象の、良し・悪しや美・醜、快・不快は、そのものの実態ではなくて、見た人、聞いた人、味わった人の、その時、その場の考え方で違うことは、前項で述べました。ところで、『人間の生命は考え方である』という最大の理由は、考え方がそのまま、環境や境遇に反映することです。言い換えると、考え方で環境や境遇を切り開いていくことにあるのです。
「きらうものに悩まされる」ことも、考え方が環境や境遇に反映する真理をいったものです。
今まで生きてきた中で、つき合ったことのない人に対して先入観で苦手意識をもつよりも、「これまで出会ったことがない人だから、何かこれまでとちがったものを得れるかもしれない」と考えることで、新たな経験や知識を得ることができ、人の価値観は養われます。
そのまま、技量に結び付くことがはっきりしてきたのですから、考え方がどんなに大切であるか、言うまでもありません。
ガンパーソンの法則も、考え方によって、環境や境遇が変ってゆくことを示したものです。自転車の練習をしたときは、だれでも一度は経験したことでしょう。溝がある。電柱がある。子どや老人がいる。“あぶない”と思ったとき、どういうわけか、自分の意思とは反対に、あぶないと思った方向に曲ってしまう現象がそれです。また、急ぎの用件があって、会社の前でタクシーに乗ろうとしたとき、それも、時間に余ゆうのないとき、いつもは何台も空車が走っているのに、そのときはどうしたことか、空車がきません。イライラする気持ちがつのるばかりです。たまたまタクシーに乗ることができたが、信号のある交差点では、きまって赤がついてストップです。その反対に、時間に余ゆうがあって、焦る気持ちがなく、ゆうゆうと会社を出たときは、申し合わせたように、空車のタクシーが目の前に止っていたり、交通信号は青の連続で、まことに順調に進むではありませんか。
きらっている仕事からぬけ出そう、と考えているうちは、きらう仕事から離れることができません。きらっている上司からも逃げ出すことができません。『どうせやるならすすんでやろう』『どうせ働くのだからよろこんで従おう』と考え方を変えると、きらいな仕事が好きになるか、配置替えになるものです。きらいと思っていた上司も、なくてはならないすばらしい上司になるのです。

3.明るい考え方・暗い考え方

明治初年、江戸の地名が東京に変ったころ、当時26才の浅野総一郎氏(日本セメント創始者)は、田舎にくすぶっても一生、みやこで働いても一生、同じ一生ならみやこに出て、思いきり働こうと決心して、友人と二人で富山を出ました。幾日目かに泊った宿屋で、東京へ行ってきたという旅人と同宿しました。旅人は、浅野氏と友人に東京の賑わいやら、人情風物などを、話したあとで、「東京では、一杯の水も金を出さなければ飲めない。」と教えてくれました。(当時の東京では、井戸が浅く、洗濯か風呂に使う水より出なかった。飲料にする水は玉川から木管でんだもの、そのため桶一杯いくらと値がついていた)
浅野氏の友人は、「水を飲むにも金がいる、暮らしにくいところに行くのはごめんだ。」と、東京行きをあきらめました。ところが、浅野氏は、「東京へ行って、なにをして働こうかと、少々心配していましたが、水でさえ金になるところと聞いて、勇気百倍しました。」と、東京へ行くことに力が入ったのです。
同じ話を聞いても、人によってこうもちがうのです。浅野さんの考え方は「前向きです。友人の考え方は、うしろ向きです。前向きの考え方を、“明るい考え”といい、うしろ向きの考え方を“暗い考え”といいます。 明るい考えは、ものごとの実態を、そのまま受けとることができる働きをもっています。
ものごとの実態を、そのまま見たり、聞いたりするためには、自己本位の考えがあってはできません。つまり、わがままかってな気持ちがあっては“明るい考え方”ができないのです。
前項で、プロ野球のベテラン選手の生活態度を例にあげましたが、この選手が某球団に入団して七年目に、「きみと同期に入団した選手は何名です。そして、現在、何名が残っていますか。」とたずねたところ、「同期に入団したものは23名で、現在は自分一人です。」とのことです。その理由は考え方のちがいです、と入団当時の話をしてくれました。
「プロ野球の選手は、スタンドやテレビで見ていると、はなやかに見えますが、じっさいには、なかなかきびしいところです。わたくしが入団した当時は、毎日々々が猛練習でした。つぎからつぎと休みなく打ってくるノックコーチの打球を受けているうちに、足がふらつき、目がかすんで意識を失って、グランドに倒れてしまいます。このとき、先輩がバケツに2杯ほど、冷水を頭から浴びさせて、『起きろ練習だ』と、力いっぱい尻をけりつけたものです。
ぼくは、このくらいうれしいと思ったことがありません。このように練習に打ちこんでもらった日は、練習がおわって、コーチが風呂に行くと、あとを追って、コーチのからだを流しながら、『あのときは、どのようにして捕球したらよいでしょうか。』と、浴室で教えてもらったものです。
球団をはなれていった選手は、練習がきびしかったり、意識を失っているところを、水を浴びせられたり、蹴られたりしたときは、『親や兄弟にもこんなひどいことをされたことがない』と、腹を立てて、一週間もコーチや監督に口をきかなかったり、練習を逃げまわっていたようです」
今の時代では、なかなか想像しにくいことかもしれませんが、明るい考え方と、暗い考え方の両様がよくあらわれています。
会社や工場では、上司や先輩に、仕事のことや私生活について注意を受けることがあるでしょうが、このとき、『教えてもらった』と受けとれたときは“明るい考え方”で、注意を聞くことができたのです。『しかれた』と受けとったときは“暗い考え方”で、注意を聞いたことになります。
いつでも、明るい考え方をもちつづけるには、つぎのことを心がけることです。
○いまの自分は役に立たないが、先輩や上司に教えてもらい、きっとお役に立つ人間になる。
○上司の命ずることは、自分に適したことを命じているので、少々むりなことでも、必ずできることである。
○他の人の仕事と、自分の仕事をくらべて、いい気になったり、不足に思わない。
○いまやらなければならないことは、いますぐやってしまう。できないときは、どうしたらできるか工夫する。工夫してもできないときは、謙虚な気持ちで、先輩や上司にたずねる。
○仕事のことで、気がついたことをすぐやる。やらなかったため、いつまでもくよくよ思うことのないように、からだをおしまないで働く。
“暗い考え方”の人は、自分からすすんで働こうとする気持ちがうすく、骨おしみをする人に多いのです。
また、自己中心の考え方が強く、周囲の事情や多くの人々の厚意を感ずることが少ない人です。
わたくしたち人間は、他の人々の力をかりて、はじめて自分の力を発揮することができるのです。
このことがよくわかってくると、自然にゆかいな気持ちになります。謙虚な気持ちは“明るい考え方”に直結する近道です。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?