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【第5章】新しい時代の勤労者のモラル

1.新・旧のモラル

2021年の現代より50年前の日本の社会の話ですが、昭和20年に、太平洋戦争が終って、日本は、民主主義という名のもとに、政治の面や、教育の面をはじめとして、これまでの日本では考えることもできなかったほど、すべての面で、変ってきました。
当時、家庭や会社では、日本を構成している人々の中には、明治、大正、昭和というそれぞれの時代に生れて、 それぞれの時代の教育を、うけてきた人が、まじって生活をしていました。
そのため、ふるい人。新しい人、という区別が、できたのです。

“ふるい人”とは、昭和20年までの、封建的な社会の中で、教育を受けて、 生活してきた人々をいいます。
“新しい人”とは、昭和20年以降の、民主的な教育を、受けた人々をいいます。
“ふるい人”と“新しい人”との間に、昭和20年を間にはさんで、封建的な教育と民主的な教育の両面を、うけた人々がいます。
社会人として、生活していくためには、その時代の流れにそった、モラル(くらしのすじみち)を、しっかり身につけていなければならないのです。
そのため、当時は、日本人のモラルも、新・旧ふたとおりのモラルで、 支えられているわけです。
モラルは、考え方の基礎であり、考え方は態度、行動、心がけのもとになるものですから、新しい人と、ふるい人との間では、なにかと、食い違う点が出てくるのも、無理のないことで、ふるい人は、自分たちのモラルを正しいものと思っていますし、新しい人は、自分たちのモラルを、正しいものと思っているのです。
2021年の現代に置き換えると、団塊の世代、バブル世代、就職氷河期世代、ゆとり世代などが、それぞれの世代の考え方における新・旧モラルの代表的な表現ではないでしょうか。
しかし、ここで、考えなければならないことは、新・旧のいずれが、本当のモラルであるか、ということです。
ふるいモラルの中にも、人間として、どのように時世が交っていこうと、絶対に変えてはいけないモラルがあったり、時世とともに交えていかなければならない、モラルもあるのです。
また、新しいモラルの中には、ふるいモラルにはなかった、本当のモラルもありましょう。また、新しいけれど、現在の日本では、とり入れることのできないもの、今後も、そうあってはならない、モラルがあるはずです。
このことを、考えの中に入れて、これからの新しい時代に生きるモラルを、しっかり身に、つけなければならないと思います。
とくに、会社や工場で働く、勤労者としてのモラルを、身につけることは、会社や工場の発展のためにも、あなた自身の幸福な生活にも、つながるものであることを、知っておいてください。

2.規律について

動物には、人間のように、個々別々の考えというものがありません。
本能といいますか、自然にそなわっていること以外のことは、考えることも、行うこともできないのです。
すずめは、朝になると、いっせいに一日の活動をはじめ、日が沈むころには、また、いっせいにねぐらに、帰っていくではありませんか。
このように、動物は一種族が、一様のことをやるのですから、動物の世界には、時世のうつり交りや、事情の変化によって、きめていく法律とか、規則、約束というものがないのです。
ところが、人間は、各人それぞれの考えがあるので、朝になっても、起きたければ起きる。寝ていたければ、寝ていることもできるのですから、法律とか、規則、約束という社会のきまりをつくらなければ、社会生活という、まとまりが、つかないのです。
したがって、社会生活が、複雑になればなるほど、文化の程度が、高くなればなるほど、社会のきまりがきびしく、複雑になってくるのです。そのよい例が、交通規則です。会社や工場では、社会の事情や取引先との関係、経営者と従業員という関係の中で、一つの目的にむかって、進まなければならないのですから、いろいろな“きまり”が必要です。会社や工場の“きまり”の中で、従業員の守らなければならない“きまり”があります。
ふるい時代では、この従業員の“きまり”が、経営者側の一方的な考えで、きめられることが、多かったものですから、絶対服従というモラルが、会社や工場の秩序を、ささえてきたものです。
新しい時代では、お互いの人格とか人権を尊重して、 経営者は、従業員の立場を考えて会社や工場の“きまり”を、つくっているのですから、全体のために、自分勝手な考えを捨てて進んでで守る。つまり、強制されて守らなければならない、という考えでなく、協力というモラルによって、会社や工場の秩序を、自分たちの力で守っていかなければなりません。

3.礼儀について

規律は、社会生活の秩序を、正しく保っていくものであることは、前項でのべました。
規律を守ることは、社会生活をするものの責任でもありますから、規律を乱すものは、罰せられることも、当然なことです。
そこで、規律だけを守っていたら、それでよいでしょうか。
人は、だれでも、気持ちのよい、楽しい生活をしたいという、心をもっています。
この心の成長したものが、礼儀という形式を、つくりあげたのです。
おそらく人類が、地球上にあらわれた当時は、礼儀などは、なかったでしょうが、社会生活をいとなむようになって、規律ができ、礼儀ができたものと思います。
礼儀は、文化の程度を示すものである、といわれているように、文化生活が進むにしたがって、礼儀も進んできたものです。
しかし、礼儀は、規律ほど、はっきり条文などで、きめたものではありませんが、人種なり、国がら、社会層などによって、自然に慣習となって、つたわってきたものです。
したがって、 礼儀が正しくないからといって、 法律や社則で罰するということはありませんが、“程度の低い人”と見られたり、“なまいきな人だ”と思われて、人なみの扱いを、うけないようになってしまいます。
とくに、日本は礼儀の正しい国として、世界のどの国からも、たたえられてきた国です。
それで、これまでの家庭や学校では、礼儀について、きびしく“しつけ”をしてきたものです。
ところが最近では、家庭でも学校でも、礼儀を“しつけ”ることが、なくなってきたものですから“礼儀などは、どうでもよい”と思う人が、多くなってきたことは、残念なことです。
一流の会社では、新入社員の数育の期間を数ヶ月も、とっているところがありますが、教育期間中は、とくに、礼儀作法を教えています。
礼儀作法の中には、あいさつの仕方、箸の持ち方、茶の飲み方、戸のあけ方など、起点の動作のいちいちに、きまった作法があります。
その一つ一つを、心得ておくことは、けっこうなことですが、勤労者としての礼儀は『あいさつ』『話し方』などが必要です。
出勤や退社の場合「おはようございます」「お先に失礼します」「お世話になりました」などは当然のことですが、明るく大きな声で、やりたいものです。
また、上司に話すとき、同僚に話すとき、お客さまに話すときなど、区別をつけて話すことも、知っておかなければなりません。
ふだん、やっていなかったことをやるには勇気がいりますが、一日も早く、会社や工場の慣習にしたがった礼儀作法を、身につけたいものです。

4.上司の指示に従う

ホームラン打者として有名な、あるプロ野球の選手に、
「あなたは、日夜、ホームラン打者としての、はげしい訓練をやっていますが、試合で監督が、バントのサインを出したときは、どんな気持ちですか。」
と、たずねたところ、
「もちろん、バントをやります。野球というのは、監督が作戦をねっているのですから選手は、監督のサインにしたがうだけです。
選手の方では、ホームランを打てる自信があっても、監督が、バントがよいと思ったらバントに成功するように、全力をつくすのが選手のつとめです。
これを将棋にたとえると、監督が、将棋をさす人で、選手は、将棋の駒なのです。前は将棋をさす。
人の考えで動くもので、勝手に動いてはいないでしょう。
選手は、ただ監督の期待にそえるように、自分の特技を、いよいよ伸ばす勉強をしてれば、よいのですよ。」
という、お話でした。
会社や工場においても、同じことが、いえるのではないでしょうか。
上司は、会社や工場の方針にしたがって、全員の動きを見ています。部下の能力や技術の程度をよくつかんでいます。
この仕事は、いつ、どこで、だれだれにやってもらったら、いちばん能率が上るということを、知った上で、指図をしているのです。
命ぜられた仕事が、上司の考えているように、どうしたらできるだろうと、ふだんから、勉強していることが、部下としてのつとめです。
しかし、上司の人でも、ときには、あなたにできないことを、いう場合もあるでしょう。
また、あなたの健康状態も考えずに、仕事を命ずることもあるでしょう。
また、一人では、とても無理と思うようなことを、命ずることもあるでしょう。
このようなときは「こちらの都合を、少しも考えてくれない」という気持ちでなく、丁寧に自分の事情をのべて、上司の指図をまつことが、大切です。
上司にも、言葉づかいのあらい人や、なかには、えこひいきの強い人も、いるでしょうが、部下が心から尊敬をしていたら、どんな人でも“よい上司”になってくれることを、知っておいてください。
また、上司でも、あなたより年令の若い人もいるでしょう。学歴のない人もいるでしょうが、会社や工場では、適任者として、あなた方の上司になっているのですから、上司の命ずることには、従わなければなりません。
このような場合に、あなたが、心から従うことができたら、あなたは、りっぱな社員として、上司からも、尊敬されることでしょう。

5.勤労を尊ぶこと

人類は長い間、働くことをいやしいことと考えていました。
そのために、権力をもったり、財産をたくわえ、多くの働く人をかかえて、働かずに生活できることを、最大の幸福のように、思っていたのです。
この考え方が、服装や化粧、髪かたちの上にも、あらわれていました。
ある時代には、貴族たちは男性までが、頭や手に、おしろいをぬっていたほどです。
そのうえ、からだを動かすにも不自由な衣服をまとって、“われこそは、高い身分のものである”ということを、あらわしていました。そして、働く人々を、虫けらのように見下げていたのです。
しかも、働く人々自身まで、自分たちは、いやしい人間であると、思っていたのです。
現代はどうでしょう。あなたが、見ているとおり、地位の高い人も、財産のある人も、一様に、何らかの働きをしています。
「働かざるものは、食うべからず。」といわれたこともありますが、いまでは、「働かざるもの、生きるべからず。」と、いわれるほどに、なってきました。
服装一つを見ても、どのような階級の人でも、同じ服装に、なっているではありませんか、そして、その服装は、働きに便利なように、つくられているではありませか。
これは、働くことを、尊ぶようになってきた、何よりの証拠です。
働きの中には、知能的な働き、肉体的な働きという、区別はありますが、それは、その人のもっている能力のちがいであって、知能的な働きが、尊くて、肉体的な働きが、卑しいという、区別はありません。
ところが、日本人の中には、まだまだ、知能的な働きや、からだをつかわない働きを、うらやましがったり、肉体的な働きや、からだをよごす働きに就いている人を、軽蔑する人がいるのですから、文化の低い国民といわれても、仕方がありません。
新しい時代を担うあなた方は、職業や仕事には、尊い、卑しいの区別のないことを、はっきり自覚して、勤労そのものの尊いことを、誇りとしようではありませんか。

6.創意と工夫

“学窓から社会生活へ”の項でのべたように、会社や工場で、重要な仕事をしている人は、あなた方、一人一人なのです。
会社や工場の発展を考えるのは、経営者だけではないのです。
ふるい考え方の人の中には“親方は日の丸”だ。という考え方があるのです。
“親方は日の丸だ”という意味は、国の税金をあてにして、経費がどんなにかかろうと少々のむだをしようと、失敗をしようと、自分の懐は、いたまないという利己的な考えで、働いていた宮史たちの気持ちを、あらわしたものです。
会社や工場に働く人たちが、「いわれたことをやって、いさえすればよい」とか「わたしたちの知ったことはではない」などと、思うことがあったとしたら、“親方は日の丸だ”といった、ふるい考え方の人を、笑うことはできません。
人間には、はかの動物たちのもっていないすぐれた点が、たくさんありますが、『創意と工夫』をする力をもっていることは、偉大なことと思います。
人間以外の動物で、自分たちの住む世界を自分たちの力で、より住みよく進歩させたものが、あるでしょうか。ただ、本能にしたがって、幾億年のむかしから、そのままの、すがたでいるではありませんか。
もし、人間が『創意と工夫』の力を、そなえていても、これを働かせなかったら、この世の中は太古そのままの、すがたに、とどまっていたことでしょう。
また 『創意や工夫』は、開拓者や科学者やある一部の人だけに、まかせていたとしたらこれほど、住みよい生活が、できなかったと思います。
人間は、どのような立場の人でも、『創意と工夫』を働かす権利があると同時に、より住みよい社会にする義務と、責任があるのです。
あなたは、この権利を、あなたの職場で、大いに働かしてください。
さいわい、どこの会社や工場でも、全社員の提案を、待っているのです。
「むだがありはしないか」、「もっと、能率の上る方法はないものか」、「こうしたら便利ではないか」など、少し考えたら、いくらでもあるはずです。大いに『創意と工夫』を、働かせたいものです。

7.全体のことを考える

地質学者などの説によると、地球は、今、青年期であるそうです。
地球の青年期とは、どのようなところをいうのか、わかりませんが、青年期であるとすれば、幼年期、少年期があったはずです。
ところが、おもしろいことに、人類の文化のていども、現代が、青年期ということです。
文化の発達にも、幼年期、少年期があったのです。
幼年期の人類とは、地球上に人類が、生息をはじめたころを、いうのでしょうが、親が見てやらなければ、自分のことも、まんぞくにできない幼児のように、ただ、自然のままに生活していたようです。
かなりの年代が過ぎて、少年期にたっした人類は、親の力をかりなくても、どうやら自分のことはできるが、まだ、他の人のことにまで、手をかすことができなかったり、全体のことを考えることができない、少年のような生活状態で、あったのです。
青年期に入った人類は、自分のことは、もちろん、他の人の世話ができたり、他の人の気持ちを理解したり、全体のことや、公のことを考える生活態度に、変ってきたのです。
この生活態度が、もっとも進歩した現代の文化人の態度なのです。
わたくしたちは、この青年期の文化人として、生活をしているのですから、“自分さえよければ”というような、利己的な態度では住みよい生活をすることが、できなくなったのです。
社会生活は、団体競技のようなものです。個人のプレーが、どれほどすぐれていても、チームワークがとれていない団体は、負けてしまうように、社会生活から、落ごしてしまうのです。
会社や工場に働く人は、自分のことだけを考えずに、いつでも、周囲の人のことを考えなければなりません。
手のあいているときは、他の人に手をかしてあげましょう。
困難な問題をかかえている人には、知恵をかしてあげましょう。
あやまった行動をしている人には、心からの忠告をしてあげましょう。
一人の困ったことは、全体の問題として、考えてあげましょう。
そして、全体が、しあわせな生活ができるように、協力しあいましょう。
職場の美しい友情こそ、チームワークのみなもとだからです。

8.公私の区別

「社用族」という、ことばがあります。
取引先のお客の接待のときなど、お客を、心からもてなすという気持ちからでなく、お客の接待ということを利用して、自分自身の欲望を、満たそうとするような人々を、いうのです。
このようなことを重ねていると、お客をだしにして、遊び歩くようになってしまいます。
会社や工場に、働く人々にとって、何よりも大切なことは、公私の区別をつけるということです。
私用の連絡をするために、会社の電話を使ったり、工場の材料で、私物をつくったりするなど、公私の区別を知らない人と、いわれます。
会社や工場の納品と、私物との区別を、はっきりつける習慣を、はじめから心がけていなければついには“社用族”といわれるような行動を、平気でするようになります。
日本人は、欧米人にくらべて、公徳心がないといわれています。
これは、公私の区別を、まちがっているところを、いわれているのです。
自分のものは、大切にするが、会社や工場のものは、粗末にあつかったり、むだに使うことなどです。
トイレや炊事場の、水道のコックがゆるんでいて、水がどんどん流れていたり、使用していないフロアに、電灯が、ともっていることがあります。
また、工場などでは、りっぱに使える材料や工具などが、床に落ちいてることがあります。
自分のものでなくても、一滴の水も、一本の釘も、公共のものです。
自分のものを扱う気持ちになって、大切にしたいものです。
また、環境の清潔や、整とんについても、自分たちの働くところですから、つとめてよごさないようにするばかりでなく、清掃の係ではないから、という気持ちをすてて、住みよい快い環境に、しようではありませんか。

9.私生活について

私生活では、他の人から、注意を受けないように、したいものです。
勤務時間がすぎたら“わたくしの時間”ですから、何をしても、かまわないようなものですが、そうはいきません。あなたの私生活は、あなた自身の健康や、家計や、信用に影響するばかりでなく、直接、間接に会社や工場の、成積や信用の上にも、影響してくるからです。
あなたが、会社や工場に所属している以上は、何々会社のだれだれと、いうことになるのです。
あなたの行動は、ただちに、会社や工場の併用につながるのです。
また、あなたも、信用のある会社や、工場に置いていることは、「○○会社の方ですか、それならば、きっとたしかな人でしょう。」ということになって、あなたの信用とも、なるではありませんか。
会社や工場と、“私”というものを、切りはなして、考えることはできないのです。
そればかりでなく、社会人として、社会から、みとめられている立場なのですから、私生活について、他の人から、指をさされるような行動は、つつしまなければなりません。
他の人から、指をさされる行動といえば、不良的な行為だけを、いうのではありません。
遊びのために、夜ふかしをしたり、無計画に、月給をつかってしまったり、不潔な衣類や、自分の年令や身分に、ふさわしくないぜいたくな物を、身につけていることも、同じことです。
寮生活をしている人は、寮という枠の中に、生活をしているのですが、多数の同僚や先輩、後輩との共同私生活です。
お互いの生活が、楽しいものであるようにお互いが、他の人から注意をうけたり、うしろ指を、指されるような行動は、しないように、心がけたいものです。

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