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自己啓発本の不完全性

先日、哲学者千葉雅也さんと國分功一郎さんの対談本、「言語が消滅する前に」(幻冬舍)を読んだ。その中で、自己啓発本に関する面白い表現があった。

千葉:そう、いわゆる自己啓発本は、中途半端だから駄目なんです。(言語が消滅する前に, p69)

上の千葉さんの言葉に応答するようにして國分さんはこう言う。

國分:自己啓発をピュアな形態で考えていくと、今日のテーマでもある「勉強」というキーワードが浮かび上がってきますね。実際、僕らはよく二人で「いまの時代、勉強が大切だ」と言ってきた。(中略) 勉強という言葉のなんてすばらしいことか。「強いて勉める」ですからね。(言語が消滅する前に, p69)

自己啓発本を馬鹿にする風潮は文化的な人の間ではよくあることだ。そこで千葉雅也さんは、自らの著書「勉強の哲学」(文芸春秋)を自己啓発のような体裁で書いたらしい。それはもちろん意図的なことで、「自己啓発のパロディ」を目指したようだ。

國分さんは、自己啓発のピュアな形態を「勉強」としている。最近の自己啓発本はちゃんとした「勉強」になり切れてない、ということを國分さんは言いたかったのだろうか。

多くの自己啓発本には、このような前提がある。

千葉:自己啓発本というのは、自分自身の生産性を高めて、この自己責任の世の中を生き残っていけと煽るわけですね。(言語が消滅する前に, p68)

ただ、多くの自己啓発本の前提は我々を勉強から遠ざける。「生産性を高め、自己責任の世の中を生きる」という前提すらも批判的に考えるのが真の勉強だからだ。もし、國分さんが言うように自己啓発のピュアな形態が勉強ならば、世の多くの自己啓発本は自己啓発から遠ざかってしまっている。この、前提をもを疑う批判的な考え方のコンセプトに関しては、千葉雅也さんは「勉強の哲学」(文藝春秋)のなかでより深く解説している。

千葉さんは、日常や環境のなかの「こうするもんだ」を「コード」と呼んでいる。そして、勉強がそのコードを転覆する例として、「アイロニー」と「ユーモア」を挙げている。

アイロニーは「根拠を疑う」こと。ユーモアは「見方を変えること」である。(勉強の哲学、p91)

こうしてアイロニーが批判的思考、ユーモアが連想力を育成するため勉強はどんどん深く広くなっていく。

確かにこう考えると、世に出回っている自己啓発本は思想体系としては未完成だ。もちろん、「思想体系として完全」とはなんだ?と聞かれたら答えかねるが、前提を疑う姿勢なきには思想の深さは得られないだろう。そこからの連想も進まない。だからこそ、千葉さんが言うように自己啓発本は「中途半端」なものが多いのかもしれない。

自分も中学の頃は自己啓発本ばかり読んでいた。いわゆる「成功」した人になれば人生幸せになると思っていたのだ。「FIRE」(Financial Independence, Retire Early)にあこがれ、投資や運動をするようになり読書量も増えた。しかしなんとなく空虚感があったのだろう。

「成功って?」

「お金がいっぱいあれば本当に幸せになるのか?」

「努力に何の意味があるんだ?」

こうしたアイロニカルな質問がやっと出てきたとき、それは自分を勉強へ導いていった。

そうして、色々な思想に目を通しているうちに、道教と仏教がきっかけで東洋思想に興味を持った。東洋思想の面白いところは、それが今までの自分の自己啓発本へアンチテーゼをもたらすところだった。

例えば、道教で有名な概念である「無為自然」、人の手を加えないであるがままに生きることだ。老子は道徳経で今に満足して「もっと」を追求しない生き方を提案する。

そして、道教の勉強は自分の「勉強」への絶対的な信仰それ自体にもアイロニカルな視点をもたらした。詳しくはここに書いてある。

生産性や成功、成長や進歩への絶対的な信仰、という点において最近の自己啓発本は確かに未完成である。批判的な観点からそれを見つめ直すヒントになる「勉強」は、総合的に自分の生き方を見つめ直すためのガイドなのだろう。



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