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知の欲求は危険なのだろうか?

「吾生也有涯,而知也无涯,以有涯随无涯,殆已。」(荘子)

莊子は、知の追求は危険をもたらすと言った。知が無限のものであるのに対し、人間の生とは有限だ。これは、有限なもので無限なものを追求することの危険性を忠告する言葉である。

同じ道家の思想家、老子は「無為自然」という理想を唱えた。それは、人の手を加えないであるがままに生きようという生き方である。荘子から見れば、有限な人生で無限なものを追求するのは無為自然からは程遠く、人間として自然な生き方ではなかったのだと思う。

無限性への追求が無為自然からの逸脱を招くとなると、現代社会の危険性が見えてくる。老子の小国寡民と現代を比較すると今の社会がいかに無限性にさらされているかが浮き彫りになる。

老子の提唱した小国寡民という理想郷では、国は小さく人民は少ない。人民は質素で自給自足の生活に満足し、隣国に行き来したりなどはあまりしなく、小賢しい知恵を捨て素朴に生活を送っている。これが指し示すのは一種の無限性の制限だ。あえて生活のあらゆる方面を有限化することによって有限と無限の対立をなくし、無為自然に生きる。

これは現代社会とはシャープな対立を示す。今の高度に複雑化された社会は、多種の職種が存在する。それに応じ、人間がその一生涯で追求できる物の数も肥大化し、「やりたいことをやる」ことを目標にする人々が増加するとともに、選択肢が多すぎてやりたいことがわからず自己に失望する人も増えた。つまり、人生における選択肢の多様性と可能性が肥大していく社会により現代人は無限性に直面するのだ。この無限性は多方面から押し寄せ、我々を苦しめる。職業、恋愛、住む国や地域...ありとあらゆる人生の方面における可能性の広大さは我々を困惑と漠然とした不安に駆り立てる

サルトルは「人間は自由の刑に処せられている」と言った。自由は一般にはポジティブな概念として捉えられるが、それによって引き起こされる無限性は果たして解放なのか、苦しみなのか。エーリッヒ・フロムも彼の著書、「自由からの逃走」でナチスドイツの出現を「自由」という概念の問題点に帰属した。啓蒙主義によって自由が増した近代人は、独裁制の束縛から離れた事により孤独と無力感に襲われ、マゾヒズム的にナチスを服従先とし、サディズム的にユダヤ人を抑圧し安定を保ったと。

これらは、莊子が言った無限性と有限性の対立を描写するのではないか。

有限化された知の欲、無限化された知の欲


話は戻るのだが、知の欲求は本当に危険なのだろうか。私は、知に無限性を求めたとたん、無為自然は破綻するのだと思う。しかし、有限化された知の追求は安全なのではないか。最も分かりやすいのは純粋なる楽しさだ。何かを学んでいて純粋に楽しいから、結果など求めずにただやっているのは、自然に任せた無為自然なる学習であると思う。

ツールとして何かを学ぶ場合も、知は有限性へと限定されることがある。人は生きてくために学ばなければいけないことが多くある。小国寡民の村人でもそうだろう。だからこそツールとしての学びそれ自体に必ずしも害があるわけではない。

一方、知をツールとする際、無限性のある目標が意識されてしまうときは無為自然はまたもや破綻する。例えば、教養を得ることに対して「お金を稼ぐ」や「権力をえる」などのモチベーションが入っている時だ。地位や富、名誉などはどれだけもらっても満足できず、人を無限なる欲求に駆り立ててしまう傾向が強い。古代ギリシャの哲学者、エピクロスは人間の欲求を三つに分類した。そのなかでも、名誉、富、地位は不自然で不必要と分類された。

「日常会話レベルの中国語を習得したい」という目標があったとする。目標としては有限であるため、今のところ危険性は伴わない。そこで、モチベーションの確認に移る。このとき、「中国人の留学生とコミュニケーションが取れるようになりたい」、「中国人の祖母と話せるようになりたい」などであれば無限性の追求は特にない。反対に、「周りの人に凄いと思われたい」や「チャンスを増やして金持ちになりたい」などの無限性の追求に繋がりかねない動機は、無為自然を破綻させる可能性が非常に高い。したがって、後者のような知の追求は荘子が言うように確かに危険だ。

知ること

今のような情報化された社会では、「知ること」は避けては通れない。学問も、老子や古代ギリシャ人の時代と比べると確実に発展した。多様な分野が出現し、時代を変える発見や思考もたくさんあった。

荘子の一言を読んだときはショックであった。知るのは危険なのか??そしたら自分はなんで勉強しているんだ??今までの自分の学生人生を否定されたような気になった。

そう思って悩んだ挙句、無限性と有限性の対立が知への欲を危険にするものなのかもしれない、という仮説に至った。この仮説で行くと、知の欲も有限であれば正当化できる。

自分が「知りたい」と思ったとき、なんで知りたいんだろう?と内省してみることも大切なのかもしれない。そうやって自分の欲の有限性と無限性を見直してみる。無為自然な生き方になっているか客観視してみる。その積み重ねが、幸せにしてくれる学びへ自分を導いてくれるのかもしれない。


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