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第62葉, 綴じ本とか 小粋とか

会いたい人たちに会ってきました。
 
本当に 不思議な人たちだと思う。勿論 きっかけがあって、こうして繋がるに至ったのだが… にしても、全然 似ていない。
 
会えて、本当に良かったと思う。(あまりにも陳腐だが、正直 それ以外の言葉が見当たらない。)情報の公開の範囲も悩ましいし、ずっと 胸のうちに留めておきたい気もする。
 
小粋だったり、素でえぐみがあったり、闘っていたり…
幸あれ と私も思う。
 
ーーー
 
改めて、「好き」とは どういった事だろうか?
実際に会えた人たち、それと生憎… 今回は会えなかった人も含めて その人たちのことが私は好きだと思うし、彼らの為なら 多少の苦労は厭わない。まぁ、自分が毎度のこと 何かをしてもらう側になってしまっているのだが。
 
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ありのままで好いてもらえる -- 理想的だと思う。
ある程度の努力をして、関係性を保っていける -- 尊いことだなと思う。
見返りをどこか期待してしまっている所がある -- むしろ(?) 人間らしいなと思う。
精神的な支えたりうる / 尊敬出来る人である事 と 色欲を求め/求められる事 とを切り離せない
 -- 何が正しいのか悩ましいが、本人の感性に従ってほしいと思う。
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自分のこと以外は分かりようがないのだけれど… 少なくとも 自分の場合は、終始 好きになってもいい人を探している節があると思う。普通に(?) 生活をしている限りは、シスジェンダーヘテロセクシャルの人と比べて その間口は狭い。心底、各人のSOGI等々がネームプレートみたいに明示されてほしいと思ってしまう。
 
言葉を選ばず あえて言えば、“そういう目でみてもいい” 機会が少ないと思うのだ。(勿論、それが相手を性的に搾取したり 当人の尊厳を侵害したりするようなことに繋がっては絶対にいけない。)それ故?… だからこそ?… 自分を守るために(も)、しゃにむに線を引く。「この人を好きになってはいけない」と 殆ど反射的に。そういった場面がシスジェンダーヘテロセクシャルの人にはない、わけではない事もわかっているつもりだ。
 
こんなことを記したって、現状は 何ら変わらない事だってわかっている。でも、自分が自分としてのアイデンティティを保って生活するには 時として必要なことなのかもしれないな、と今は思える。
 
幸せとは、なんだろうか?
好きとは、どういった事を言うのか?
 
___
 
正しい / 正しくないを論ずるものでもないかもしれないから、幸福論を定義してみるより 「あなたが大なり小なりの幸福を感じた瞬間」の綴じ本を カタツムリみたいにゆっくり眺めてみたいと思う。あらゆるカテゴリーは一蹴して、人として。

今回 パンと珈琲を摂取しすぎたかもしれない、yasu59 でした。

―筆おき―

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