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第32葉, 尊重とかバトンとか

「少数意見の尊重」、「適応障害」、「自分を愛そう!」…

こう並べてみると、、、 軽いし、中身が伴ってなくて冷たい。
それでいて、暴力的だ。 ( 方向性は合っていると思うけど… )
それらを上手く隠せている風だけど、
見える人には 多分、やすやすと見えてしまう。
というより、目について 鼻につく。

この違和感をなんと表現すればいいのか、自分には言葉がない。
それは、幸か 不幸か。

その概念を指す言葉があると、伝わりやすくていい。
でも、一個人の、n=1の掛け替えのない葛藤や経験を
いとも簡単に、分かった気になって束ねられてしまうかもしれない。

言葉がないと伝えにくいが、
その代わりに 変に束ねられる危険性は少ない。
ただ その葛藤や経験を伝えきるには、発信する側も受け取る側も
忍耐や 情報をよくよく取捨選択することが求められる。

考えてみると、「一線を守る」ということになってしまうのかもしれない。

ただ、「尊重」を謳う側と括られないように…
以下、引用することをどうか ご容赦ください。

障害があろうが、病気があろうが、子どもだろうが、ルーツが違っていようが、人には絶対に侵害してはならない一線というものがある。
でも、ここ最近、この一線を乱暴に踏み越えたり、立場の弱い人たちの一線の幅を勝手に狭めようとする動きがある。しかも、お金があったり、権力があったり、影響力を持っている人たちが、この一線を軽んじてきている。
(中略)
こうした言葉が降り積もった社会を、次の世代(つまり、いまの子どもたち)に引き継げというのか。それは、どうしたって許せない。
ぼくらは絶対に侵害してはならない一線を守る言葉を、急いで積み上げなければならない。誰かの一線を軽んじる社会は、最終的に、誰の一線も守らないのだから。

荒井裕樹, 『まとまらない言葉を生きる』, p.144-145, 「第十話 一線を守る言葉」より


ーーー
「昔に比べたら 生きやすくなったよね」 とか、
「普通に周りにそういう人いたから、私 全然 理解あるよ」とか、
安易に言わないでほしい… っていうのは、私の愚痴です。
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この情報過多な社会で、注意経済で、コスパ重視な風潮の中で、
それらに争うように 慎重に、思いの丈を綴って、
言葉を紡ぎ、バトンを繋いでいる人たちが 確かにいる。

うつくしいと思う。かっこいいなと思う。
自分も心底 そうありたいなと思える。

ただ一点、申し添えしたいのが…
そうあり続けるのは すごく険しい道のりだろうなという事。
何かをカミングアウトしたから称賛する/される、
その一方で 苦悩の末に自ら命を絶つなんて 弱い/狡いっていうのは
あまりにも短絡的すぎはしないだろうか。

「尊重」とは、一体 何なのか…?
そんなことを考えさせられた 今日この頃。
以上、 yasu59 でした           ー筆おきー

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