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【Web再録】ふたりパラレル

 なるべく死なないように生きてきた。

 朝目覚めて、歯をみがいて、顔を洗って、化粧して、死なない程度にパンを胃に詰め込み、牛乳で流し込む。わたしの意志ではないので、ごく機械的なルーティーンだ。外に出ても恥ずかしくない程度の無難な洋服に袖を通し、誰も居ない部屋の中にいってきますを置いて出ていく。目を開けていなくても足さえ動けばきっと迷いなくたどり着ける程度に通いなれた道を歩き、喧騒の中電車に詰め込まれ今日も出荷されていく。あぁ、また今日も始まってしまった。

 もし、電車が来る直前に、もう一歩踏み出すことが出来たら。もし、信号を無視して車が行き交う道路に飛び出せたら。もし、マンションのベランダの手すりを乗り越えてその先に行けたら。もし、このまま一生何も口にしなかったら。その考えは何度もわたしの頭の中を揺蕩うが、ほどなくして消えていく。綿菓子のような「もし」を積み重ねて、結局なにも変わらない日常をやり過ごしていく。べつに本当に死にたいわけじゃないし。

 死にたい、と口にする。けれどそれは決して現実感を伴うことはない。ごくカジュアルな死の概念。痛みも苦しみも味わうことなく、わたしだけが世界の中からひとり消えることが出来たら。ゲームの中で残機を一機失うくらいの気軽さで。本当に死ぬほどの勇気も理由もないから、惰性で生きている。だからといって、生きる理由もないけど。

 現実の生活に現実感が伴わないのはなぜなんだろう。

わたしが存在するのはまぎれもないリアルで、この肉体も魂もわたしのもので、でも目に映る景色は、一枚ガラスを隔てたどこか別の世界のもののように見える。わたしの身体もわたしの世界も、これがわたし自身のものだって、きっと、わたしが一番信じていない。わたしが掴み損ねているわたしの世界の外郭をなぞって、これがわたしのものだよって、教えてほしい。わたしではない誰かに。

誰か。

わたしをここから連れ出してほしい。

誰か。

そんな誰かは存在しないし、きっとわたしはいつまでもこのまま仮想空間じみた現実を生きて、そしてゲームオーバーを迎える。そんなありふれたつまらない人生を、意識がなくなるその時まで、こうやって文句を言いながら続けていくんだろうな。

ずっと、そう思っていた。

 

 

「世界って、ひとつじゃないんだよ」

 イリスと名乗る女は滔滔と話し始めた。

「世界と世界は隣り合っていて」「この世界はいくつも平行して存在する線路の海の中の一つでしかなくて」「あたしはその決して交わることない線路の間を飛び越えてこの世界に来たの」「飽きちゃったから」「だから、この世界のことよくわかんなくて」「よかったら、この世界の常識とかいろいろ教えてくれない?」

 頭のおかしな女だと思った。

顔に出てしまっていたんだろう、イリスは鈴を転がすような声で「信じてないでしょ」と言いながら頬を膨らませて見せる。生ぬるい風が通り過ぎて、イリスの長い髪がふわりと舞った。ビニール袋の中のカップ入り高級アイスクリームの安否が気になる。初夏の気候は、一分一秒ごとにじっくりとアイスクリームを蝕んでいく。この怪しい女の話を一から十まで聞いていたら、きっと月に一回のごほうびアイスが液体になってしまう。それはなにがなんでも避けたい。アイスクリームは人間の判断力を鈍らせる。

ビニール袋の中身がアイスクリームではなく肉まんだったら、きっとわたしはこんなことを口に出さなかったはずだ。そう思っても、今となってはもう後の祭りなのだけど。

背中の真ん中までかかる、鴉の濡れ羽色の長い髪。少しつり気味の、大きな円い瞳。ゆるくカールした長い睫毛。ぷっくりとした涙袋。熱気でうす桃色に紅潮したやわらかそうな頬。うすく開いた小さな唇。わたしより少しだけ小さな体に、アンダーバストで切り替えの入ったアイボリーのAラインワンピース。フレンチスリーブから伸びる、細い腕に小さな手のひら。

「とりあえずうちに来る?」

 それもこれも、この女の容姿がドタイプだったから仕方がないのだ。

 

 

 人間は容姿がすべてではない。そう思う。けれど、うつくしい容姿は溶けかけのアイスクリームと同じように、ひとの判断力を鈍らせる。仕方ないじゃないか。女だって、可愛い女が好きだ。どうしようもなく。

 わたしがこうしてクソ熱い中茹だるキッチンで煮えたぎる鍋の面倒を見ている横でも、イリスは「平行世界が―」「都市伝説が―」などと透き通る声でもう何度も聞いた話をする。こういうとき、わたしはこの女を家に招き入れたことを少し後悔する。顔がいくら良くても、地雷女はめんどくさい。

 夜中にラーメンを食べる罪悪感を少しでも払拭するため、冷凍庫からほうれん草をひとつかみ取って鍋に加える。これでちゃんと野菜も食べますよ、という言い訳が立つ。誰に言い訳しているのかと言ったら、ほかでもない自分自身なのだが。

おそらくカロリーという概念すら気にしたことがないであろう自称異世界人は、鍋の様子を覗き見て、戸棚からどんぶりを二つ取り出して渡してくる。慣れたものだ。タイミングを見計らって、湯気が立ち上る鍋に粉末スープを溶いて、全体を軽く混ぜてからどんぶりに移す。鼻腔をくすぐる香ばしい鶏ガラスープの香り。夏の夜はインスタントラーメンが恋しくなる。

 イリスは我が物顔で冷蔵庫から作り置きのゆで卵を取り出して、テーブルの角に軽く打ち付けて殻にひびを入れる。

「いる?」

「いらない」

少しでもカロリーの摂取を抑えようという悪あがきだ。イリスが殻をむいた卵を勢いよくどんぶりに落とすので、飛び散ったスープが白いテーブルを茶色くまだらに汚した。こいつのこういうところはやんわり許せない。

「アヤメはさ、よくわかんないダイエットするよね」

「うるさいな」

 いくら食べても太らない肉体の持ち主にはわからないことだ。この小さい身体のどこにカロリーが消えているのか不思議でならない。

「別にダイエットする必要ないよ。気にしすぎだよ」

 嫌味か。

「あんた目線ではそうでも、わたしからしてみたらそうじゃないの」

「女の子は多少やわらかい方がいいじゃない」

 嫌味のように聞こえるが、これで本気で言っているのだからたちが悪い。

 イリスは箸で持ち上げた麺に念入りに息を吹きかけながら、平均より少し肉付きのいいわたしに対して、セルフラブの教えを説いてくる。余計なお世話だ。一時の快楽と自分の健康を天秤にかけたこともないくせに。若々しさからくるイリスの無責任な言動に、いちいち腹を立てても仕方がないことはわかっているつもりだ。

「配信何時からなの」

「一時間後かな。そろそろツイートしなきゃ」

 この世界と平行する異世界から来ました、という設定を惜しみなく垂れ流すイリスの動画配信チャンネルは、一部の界隈でカルト的な人気を誇っている。大多数の人間はこの容姿につられているだけだと思うが、こいつ、これでわたしの月収を軽く超えるくらい稼ぐのだ。

「うん、あたし、居候だから」「家主に迷惑かけらんなくて」「これでさ、少しでもみんなにあたしのこと知ってもらえたらうれしいな」「もうだいぶ慣れたよ。はじめは時計の見方もわからなかったけど。逆なんだもん、あっちと」「文字とか言葉はね、あんまり変わらないかな」「こっちの日本によく似てるよ」「食べ物は似てるけど微妙に違うかな。」「こっちのお寿司? って、むこうではスイーツだったし」「あ、ありがとう」「今ね、家主がお茶もってきてくれた。優しいよね」「え? ちがうよ女の子!」「百合? ってなに?」「あぁ、こっちの世界でのスラングね」「ご想像にお任せします」…わたしとの同居を燃料にしてさらに支払われる金額が跳ね上がるのだから、世の中、本当に意味が解らない。こいつ人ん家で雑談してるだけだぞ。わたしも画面の前の有象無象だったら、お金を払っていたのだろうか。

 食べ終わって空になったどんぶりを軽くゆすいでから水をため、シンクの中に置いておく。わたしか、イリスか、どちらか気が向いたほうが洗っておくだろう。明日の朝にでも。

 小腹が満たされて満足したイリスが、ソファに座るわたしの隣に無理やりスペースを作って詰めてくる。こども体温の骨ばった肩がぶつかる。痛いし暑い。

「くっつくな」

「いいじゃん」

「暑い」

「暑くないよ」

 イリスの白魚のような手がわたしの頬に触れる。冷たい。なんでだ。

「末端冷え症め」

「アヤの体温わーけて」

 わたしの首筋に顔をうずめながら抱き着いてくる。顔のいい女に懐かれるのは正直悪い気はしないが、くすぐったいからやめてほしい。それに、この気温の中、氷のような冷たい手が体を這うと不安になる。ちゃんと食べさせてるのになぁ。痩せぎすの身体は、ハイカロリー食を食べさせてもなかなか肉をつけてくれない。

イリスはひどく夜を恐れる。今でこそ夜中は動画配信をして過ごしているため、回数こそ減ってきたが、以前は、見ているこっちがしんどくなるくらい、情緒不安定に陥ってしまっていた。夜になると突然泣き出したり、うなされたりするので、毎晩のように体をさすってイリスを寝かしつけていた。そうやって甘やかしているうち、やたらとスキンシップをとりたがるようになってしまったのだ。

 「帰りたい?」と聞いたことがある。イリスはしばらく何かを伺うようにわたしの目をじっと見つめて、そして力なく首を振った。長い髪がさらさらと揺れた。

「あたし、飽きちゃったの。あっちの世界。」「だから、こっちの世界に来たの。」「枕の下に、おまじないの紙を入れて」「ここじゃない世界に行きたいですってお願いして」「そして、こっちの世界に来たの」月明かりに照らされたイリスは、うわごとのようにいつもと同じ言葉を吐く。これは聞いても無駄だなぁ、と思ってそれ以来詮索しないようにしているから事情は知らない。

「アイス食べたい」

「うわ、最悪、なんで口に出すの」

 わたしまでアイスの気分になってしまう。なんのためにゆで卵を省いたと思ってるんだ。

「あったかいもの食べたら、次はつめたいものを食べないと?」

イリスは心底楽しそうに、アイス、アイスと弾む声でせがんでくる。見た目は高校生くらいに見えるのに、中身はまるで小学生だ。

「買いにいこ!」

 わたしの返事を待たずにイリスは上着を取りに行く。わたしのグレーのパーカーを気に入って着てしまうので、わたしはかわりにネイビーのサマーニットカーディガンを羽織ることになる。 ちょっと暑い。

 

 小銭と鍵をポケットに入れて外に出ると、夜風に頬を撫でられた。だいぶ涼しくなってきたな。

 マンションを出て少し歩くと、閑静な住宅街を抜けて、静かな川べりに出る。こんな時間に外を出歩くのはわたしたちくらいなもので、等間隔に並んだ街灯だけがぼんやり照らす人気のない道は、どこかこの世のものではないようにさえ感じる。

 前を歩くイリスの足は軽やかで、スキップを交えるたびにライトブルーのワンピースの裾が風を含んでひらりと翻る。踊っているみたいだ。

「なににする?」

「いちばんカロリー低いヤツ」

「アヤにはアイスクリームを楽しもうという気概はないの?」

 ある。

 あるが、ゆで卵を省いた意地もある。ばかばかしい意地だ。イリスはきっともう忘れているのに。

「あたし、この世界の食べ物の中で、アイスクリームがいちばんすき」

「このあいだはショートケーキが好きって言ってた」

「ランキングは常に変動しているのです」

 何を得意げに。夜になるとべそをかいて震えていた子供が、夜中にスキップでコンビニにアイスを買いに行けるようになるんだから、人間って成長する生き物だなと思う。

「あたし、ラムレーズンに挑戦してみようかな?」

「食べられなくても知らないよ」

 わたしはレーズンが苦手だから、かわりに食べてあげることができない。イリスは「んー」とか「あー」とか呻きながら、歩調をゆるめてわたしの隣に並ぶ。

「いじわる」

 と、上目遣いでわたしの顔をのぞき込む。こういうのはいじわるとは言わない。

「でもね、結局アヤは一緒に食べてくれるもの」

 悪戯っぽく笑い、言い逃げするようにイリスは走り出した。すり抜けるときに舞った髪から、わたしと同じシャンプーの香りがした。

「転ぶよ」

「転ばないよ」

 肩越しに振り返って笑顔を見せるイリスは、街灯というスポットライトに照らされて幻想的で、わたしの心を簡単に奪ってしまう。うつくしさって罪だ。この女がこの可愛い顔を使って頻繁にアイスをねだるので、月に一回のごほうびアイス制度が崩壊してしまった。こちとらはっぱを食べてカロリー調整に勤しむほかないのだ。二十代後半に差し掛かった肉体は、十代ほど効率的に脂肪を燃焼してくれない。

 前を見ると、もうずっと遠くで、闇の中で煌々と辺りを照らすコンビニにシュッと吸い込まれていくイリスのシルエットが見えた。そこだけ砂漠の中のオアシスみたいに眩しい。

 だいぶ遅れて店に入ると、暴力的なほど明るい蛍光灯と、感情のない「ラッシャーセー」の声に出迎えられた。アイスケースにダイブするんじゃないかと思うくらい身を乗り出したイリスは、わたしが追いついたことに気づくと、顔をあげて「はやくはやく!」と手招きしてくる。

「あたしラムレーズン!」

 早く決めて買えって言ってるな。

ケースの中を覗き込むと、カップ入りアイスクリームのほかに、カロリーの低そうなソーダ味のアイスキャンディもあった。だが、ラムレーズンフレーバーの高級アイスクリームを食べる女の横で、価格差の開いたアイスキャンディを舐めるのは、なんとなく自分が許せなかったので、同じ銘柄のマカダミアナッツを手に取る。

「それはカロリー高いと思うよ?」

 諸悪の根源の美少女は、悪魔みたいな笑顔で言ってのける。わかってるわ。

「人間は愚かだからね」

 一本筋の通った行動をとるとは限らないのだ。

 

 会計を済ませて外に出ると、じわりと湿気を帯びた空気が肌を包んだ。冷房の効いた店内との落差で、少し不快だ。イリスはぴょんぴょん跳ねながら「外あったかいね」と言っている。信じられない。

 街が眠っている。めあてのものが手に入って上機嫌なのか、イリスのスキップに鼻歌がまじっている。ぶかぶかのパーカーにつり下がっているファスナーが、イリスが跳ねるたびに小さく金属音を立てた。

コンビニのわざとらしい雑音から離れて、夜の静寂の中に身を投じると、まるで世界にわたしたちふたりしか居ないみたいで、底無しの不安感がわたしを支配する。いつのまにか、ふたりきりの日常に慣れすぎている。

イリスの弱弱しい背中は、生命力とは正反対の位置にあるようで、ある日突然、「飽きちゃった」と言ってふらりと姿を消してしまいそうだ。

 そうなったら、わたしはどうなってしまうんだろう。

 カジュアルに死の妄想に浸っていたわたしは、もういなくなってしまった。当然のような顔をしてわたしの世界の中心に居座り続けるイリスの面倒を見て、適度にご機嫌を取って、たまに叱ったり、ぐだぐだに甘やかしたりしながら、この可愛い女がなるべく死なないようにしなければいけないと、一丁前に責任感まで持ち始めて。

 わたしはイリスのなにになりたいんだろう。この形容しがたい気持ちは母性なのか、同情なのか、それとも――

「あのさ」

「ん?」

 イリスが振り向く。このあと食べるアイスクリームのことしか頭にない、能天気な笑顔。

「あんたは、いつまで…」

 言いかけてやめる。違う。そんなことが聞きたいんじゃない。

でも、これって、世間から見たら、未成年略取とかになるんだろうか。こいつの年齢なんてわからないけど。でも、世間とか、関係あるんだろうか。誰の目があるって言うんだ。いまここには、私たちしか居ないのに。

「…いつまで?」

 何かを察知したのか、イリスの瞳が不安そうに揺れた。のを、わたしに気づかれないようにと、すぐにさっきと同じ能天気な笑顔を作って見せる。そうじゃない。不安にさせたいわけでもないんだ。

「じゃ、なくて…」

「じゃなくて?」

 オウム返しに先を促してくる。

 ビニール袋の中で、アイスクリームのカップの位置がずれてわずかに音を立てる。

はやくしないと、アイスクリームが溶けてしまう。アイスクリームは、人間の判断力を鈍らせるのだ。

 喉がカラカラで、声がうわずってしまう。何かがのどに張り付いている。何を逡巡しているんだろう。ためらう必要があるんだろう。なんてことはない言葉なのに。

 わたしは一体、なにに緊張しているんだろう。

「なーに?」

 わたしの腕に絡みつき、わざとらしく首をかしげて見せる。可愛いなこのやろう。この女は、自分の顔の使い方をよく知っている。

わたしが言おうとしている言葉は、わたしたちの関係性の何かを確定させるようなことなのかもしれない。もしくは、宙に浮いたわたしたちのからだを、同じ地面に着地させることができるのかもしれない?

否、そんなことはどうでもいい。

これは、世界を変えてしまうような重大なことではなくて、ごくシンプルで当たり前のことだ。だから、大丈夫。

気づかれないように、すぅと小さく息を吸った。なけなしの勇気をだす。

「もうちょっと大きい家に引っ越さない?」

 だって、あの家は、二人で住むには狭い。たったそれだけのこと。

 わたしの脈絡のない発言に、イリスは、ただでさえ大きな目をまん丸くしている。もしかしたら、別の言葉を聞かされることを覚悟していたのかもしれない。残念だったな。

川のせせらぎがやけに大きく聞こえる。耳のすぐ近くで、血管が脈を打っているように感じる。ビニール袋を握る手がじわじわと汗ばんできた。なんか言えよ。

 イリスの瞳に光が宿る。何かを期待している目。あぁ、癪だ。とてつもなく癪だ。この反応でわかってしまった。わたしの提案が、こいつを喜ばせてしまうことだってことに。

「せ、狭いんだよねあの家。古くて、換気扇のききも悪いし。お風呂も小さいし壁も薄いし。オートロックもついてないしさ。あんたの身バレとか考えたら、もっとセキュリティしっかりした家の方が安心じゃない? あんた顔だけは良いんだしさ。やっぱりなにかあってからじゃ遅いじゃん」

沈黙に耐えかねて、べらべらと余計なことばかり口をついて出る。どんどん墓穴を掘っていってる気がする。ドツボにハマっていく。こんなの全部言い訳だ。情けない。

地雷系居候女ことイリスはと言うと、わたしが狼狽えていくにつれだらしなく頬を緩めていく。あんたの武器は顔だろうが。ヘラヘラしてんじゃねぇよ。

「それってさぁ」

 ようやく口を開いたイリスは、一段とヒトの悪い笑みを浮かべている。

「あたしのこと、本格的にヒモとして養う覚悟ができたってこと?」

 図々しすぎる。

「いや、家賃は払えよ」

「間違えた、ルームメート?」

「…まぁ、そういうことになるかな」

 動揺のあまり、照れ隠しの仕方が、イキってる男子高校生みたいになってしまう。

 暗雲から一転、ご機嫌を取り戻したイリスは、なにもない道でケンケンパを始める。さいごのパのところで手を大きく上にあげてポーズ。じょうずにできました。

「いいよ、これからも一緒に居てあげる」

 見透かされてた、わたしの確認したかったこと。カッと顔が熱くなるのを感じる。羞恥心と、少しの安堵。

 イリスが街灯の前で振り返ったので、物理的に後光がさすようになってしまっている。顔は悪魔の微笑みなのに。わかりやすく調子に乗っているな。

「すっごい上から」

「アヤはあたしの顔だいすきだものね」

 120パーセントのキラキラ美少女スマイル浮かべてるんじゃねぇよ。わたしがその顔にどうしようもなく弱いこと知ってるじゃん。

 あぁ、でも、気づいてしまった。気づきたくなかったのに。

あの日、この川べりで、この女と出会ってしまった瞬間に、もう手遅れになってしまった。わたしの世界は、この女に支配されてしまっていた。そんな重大なことに、今さら気が付いてしまった。だから、もうずっと手遅れだ。手遅れなまま、わたしたちは、これからも――

イリスがわたしの手を取る。わたしの歩調なんてお構いなしに走り出すから、少し足がもつれてしまう。早く帰らなきゃ、とイリスが隣で嬉しそうにはにかむ。

わたしたちは少しずつペースを合わせて、夜の街を走り抜けていく。アイスクリームが溶ける前に。

あと少しで夏が終わる。


初出:第32回文学フリマ東京にて頒布 少女文学私書「わたしの命日」より

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