網膜剥離と共に生きる日々の中近づく母の日に思う
家を一歩出たところで軽くよろけて大きくコケそうになった。耐えた。危なかった。
おかしなコケ方をしたのは、網膜剥離と共に生きることになったばかりだから。
相変わらず薄膜ごしにしか見えない左目の見え方になかなか慣れない。遠近感が狂っているのか身体のバランスがくずれやすいようだ。コップを倒したりする自分が哀しい。まっすぐ歩けている気がせず、一緒にいる娘の腕をつかんでしまう。介護度がワンランクあがった感じ……?
あくまでたとえです。断じて介護保険が適用される年齢ではありません。
コケたのは、家を一歩出た門扉のあたり。ひ、と小さく叫んで上腕部をぶつけただけなので、家族は気づかなかった。気づかなくて良かった、なんかごめんなさい、と思った。そして、なんで申し訳ないと思うんだろう、とちょっと考えた。
今回、自分自身の健康が少なからず損なわれてしまった。その負い目がやっぱりあるようだ。
スポーツなどもってのほか。アウトドアどころか行楽にすら行こうとしないインドア家族なので、家族全員体力低め。健康度を考えてもたいしたことはないはずだけど、ひとまず大きな病気やケガをしてきてはいないわたしたち。
そんな中、網膜剥離という立派(?)な病名がついた上、手術という名の大層な処置を施されたわたしによって、家族全体の健康度を下げてしまった。わたしはどうやらその点において負い目を感じているようだ。
キケンだ、と思った。負い目は被害者意識につながる。痛みを共有させまいとすれば、「自分だけが」の孤独に陥る。
わたしだけがしんどいとか、わたしだけ我慢しているとか、もうちょっと助けてくれてもいいのに、とか、言わなくてもわかって欲しいとか、なんでわかってくれないの、とか。
そしてやがて、どうせわかってくれない、どうせなにもしてくれない、と、沈黙の淵に沈む。
いかんいかん。次回からちゃんと伝えよう。
★ ★ ★
何があろうと断固助けを呼ばないのが母だ。呼ばないというより、呼べない人。プライドが高すぎて、自分でも手に負えないんだろう。わたしが物心ついたころにはすでに、自分だけがツライしんどい不幸だと、そればかりを口にして、何もかもを我慢してみせていた。幼い私はそのころからすでに母の不幸のとりこだった。
ツライしんどい不幸だという呪いの言葉と、暗い表情からたえまなく繰り出される深いため息を常時聞かされる家族は、本人よりずっと辛く苦しい。
そんな母を反面教師にして自分の人生を作ってきたつもりだけど、ふとした瞬間、根っこの部分が母の気質にひっぱられるのを感じてこわくなる。闇はいつも隣でわたしを待っている。ひっぱられないよう留意したい。
★ ★ ★
実家をうとましく思う気持ちの根っこにあるのは、全力で逃走している自分の姿を見たくないからだと気づいてはいる。このもやもやは、正面切って向き合わない限り消えないだろうなと思ってもいる。
苦しくて苦しくて、のたうち回るほど苦しくて、この辛さから解放されるためなら何でもする、と思っていたけど、物事を少し動かしたらもっと事態が悪化した。呪いか ? 呪いなのか ?
かくしてわたしは実家問題から手をひいた。ただし関わるのはやめない。母は決してわたしたちを不幸にしたかったわけではない。
母の逃げ場所を作りたかった。わたしが作った素晴らしい家族のいる場所を、母の安息の場所にしてほしかった。それをしないでただ苦しみ続ける母を責めた。たぶんわたしは不幸でいる母の事を許せず責め続けてきたんだろう。
「ママの無言の声が聞こえる」そう娘に言われたことがある。わたしの娘は言葉で助けを求めるのが苦手なわたしを理解してくれる。網膜剥離を得たわたしの腕を自然な動作で支えてくれる。わたしもわたしの母の無言の声は聞こえていたはずだ。
わたしは母が求める支えを与えられなかったのかもしれない。するどく繰り出される呪いの言葉と暗い表情で拒否されるのがこわくて、つい離れてしまっていたのかもしれない。他人より遠く。
生きとし生ける誰もが安息を得て欲しいといつも願っている。誰かを傷つけずにはいられない人の心の傷のことをいつも考える。そんなわたしが母を責め傷つける。
何年か前、母に「ごめんね」を言えたとき、いつか「ありがとう」が言える日がくると思ったけれど、いまだ言えないでいるわたし。
愛情をきちんと示してくれる心豊かな家族に恵まれ、バランスの取れない日々を介助してもらいながら過ごすわたしはやっばり、ひとりで不幸を背負って生きる母に甘えて生きているんだろう。
いつか心から言えるだろうか。間に合うだろうか。
おかあさん、ありがとう、と。
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