少し古い話

2019年に書いたメモを発掘した。少し整理して解放する。

 溺れるのが辛いのは、水を飲んで苦しい、息が出来なくて怖い、平衡感覚を失ってパニックになる、というのは勿論のことなのだが、小さい頃に溺れたことを今思い返してみるとどうも溺れるのことの本質的な辛さは「もがいても暴れてもどうにもならない」ことにあるのだろうと思われる。
 つまり一度溺れる感覚に掴まれてしまうと、もう何をやっても駄目なのである。そして諦めると、体は急に楽になって沈みだす。
 鬱のような精神疾患の苦しみも根を同じくするものだと思う。学校へ行けずただ泣きながらベッドで横になっていたあの冬、漠然とただただ辛かった思いの正体を最近やっと明視できた。それを言葉にしてみようと思う。できるかどうかにかかわらず、ときに人は挑まなくてはいけない。進むのだ。

 あれは深く重く沈んでいく感覚だった。
 一月の寒さで手足が重く冷えて固まり、心の血が凍ってまるで動かなくなってしまったようだった。寝返りもできずにただ壁か、たまに天井を眺めているだけで一日が終わった。このままではいけない、そう何度も思った。そしてそう思う度に何も出来なかった。だからなおさら血は濁って重くなり、視界は暗くなって涙に揺れた。息を吐くたびに内臓が溶けていく錯覚に襲われた。もし本当にこの重みのまま、どろりと液体になって消えていってしまえればいいのに、と思うとようやく瞼が閉じて眠れた。麻酔薬の効きはじめのような鈍い痺れと厚紙のような距離の遠さ、そして苦味。脳が痺れていたんだ。体は動かなかった。
 死にたい気持ちをぶつける先がない。拳を振り上げる気力もないのだから。死にたいーというよりもただ消えたい。泡の一粒が水面まで浮かび上がって、消える。空間に溶けていくような消失が羨ましい。体の重みが恨めしい。

 すべきことも、それができればどう楽になるかも全て分かっている。ただそれは水底から眺める遠い太陽で、手を伸ばしても届かないことがわかっていた。ただあまりに眩しく向こう側に揺れていた。ふらふら、ふらふら。揺れていたのは僕の脳だったかもしれない。

 そうしているうちに体の外郭が透明になって、僕自身を構成するもの一つ一つが崩れていった。ただ透明な僕の抜け殻だけベッドに横たわっていて、僕そのものは何処にもいなかった。僕の存在が希薄になろうとすればするほど、そこにのしかかる世界の重みは増していった。

 そんな1月だったと思う。

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